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第七章嫩江(ノンコウ)

第七章第十六節(遠矢高地)

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                 十六
 
 長谷部千次の第六中隊が沼の中でもがいていた頃、洸三郎と石川を乗せた軍用列車も江橋駅へ到着した。二人は線路道をつたって歩き、千次たちが丘を登りきった頃に第五橋梁のたもとの司令部の塹壕へと入った。それはちょうど、日付が五日に変わった頃だった。

「例え大事にいたろうとも……」
 身のたけに合わない啖呵たんかを切った洸三郎には、乱石山らんせきざんの一件に対するい目があった。彼は元来、体に似合わず小心者なのだ。敢えて虚勢きょせいを張って見せたのも、自分の中の臆病神おくびょうがみはらい去りたかったがためである。ところが“ハッタリ”をかました途端に近くで敵の砲弾がさく裂して、思わず馬脚ばきゃくを現わしてしまった。石原参謀はそんなずっこけた男を快く受け入れてくれた。

 敵の砲撃は夜通し続いた。幸い塹壕への直撃弾はなかったものの、照準は正確だった。二人が入ってきた後も、五メートル、四メートルと近づいてきて、ある一弾はヒュルルルっという風切り音とともに二、三メートル隔てた線路上に着弾した。
 威勢よく見栄みえを切った二人だったが、実際は腰を抜かしたまま塹壕の底に這いつくばっていた。はたからすれば、ただのお荷物に違いなかった。
 人間の恐怖心はきわまるところまでくると、突如として吹っ切れることがある。とても信じがたい話だが、筆者も実際、似たような経験をしている。麻痺まひするとでもいうのだろうか、今までのことがウソだったように恐怖に対して鈍感になるのである。

 至近弾がいくつも炸裂し、降り注ぐ土砂にすっぽりおおわれた彼はやおら身を起こし、まるでたましいが入れ替わったかのような冷静さでパンパンと衣服に着いた土ぼこりを払った。そして何事もなかったかのような大胆さで、塹壕の外を覗きだした。
 さっきまでの恐怖が嘘のように消え去って、さらに不思議なことには、砲弾の風切り音からおおよその着弾点すら聞き分けられるようになっていた。遠いものは遠い、近いものは近い。近いもののうちごく近いもののときだけ頭を引っ込めればいい。そして夜目遠目よめとおめを利かせて前方の稜線に意識を注いだ。

 前方の稜線りょうせんはところどころ小高こだかい丘になっているのが確認できた。そのうち右前方のひときわ高い丘の上へ、第五中隊とそれに後続する第六中隊が向かったという。ときどき敵の砲弾がそちら方面に飛んでいくのは、それがゆえだとのことだった。
 丘の方面では時おり土煙が上がって、散発的な撃ち合いが起こった。正面はまったく膠着こうちゃく状態のままで、橋の手前に釘付けとなっている。

 霧のない夜空にこおった星が無数にきらめいた。

 そうするうちに右前方の丘からパン、パンと激しい銃声が聞こえてきた。時計は午前四時半を指している。洸三郎は目を凝らしたが、何も見えない。
 銃声は闇夜の中で交差し、激しい撃ち合いとなった。手榴弾の炸裂音が夜のとばりにこだまして、タタタタっという機関銃の乾いた音が加わった。夜陰やいんまぎれて第五中隊が、敵の背後から夜襲やしゅうをかけたものだった。

 昼間は射程外にあった山砲も、第五橋梁の線よりさらに前進して歩兵の最前線まで出ていた。第五中隊の夜襲に呼応して、これらの砲が火蓋ひぶたを切った。自然の要害ようがいたくみに生かした敵の砲兵陣地に味方の砲弾は容易に達しない。それでも根気良く照準を合わせ、砲弾を撃ち込み続けた。
 石原参謀はたてもたまらず、自ら砲兵を指揮して激を飛ばした。

 するといっとき激しかった丘の上の銃声が小止こやみになった。その後、てつくしじまの静けさを衝いてきたのは、銃声ではなかった。

「おいっ、ばんざいだ!」
 誰かが叫んだ。洸三郎は耳を澄ませた。石川も耳を澄ませた。石原参謀も濱本支隊長も同じようにしている。それはあまりに遠くからで、気のせいと言えば気のせいだったのかもしれない。だが聞こえたと思えば確かに聞こえた。
「ばんざーい。ばんざーい」
遥か向こうの稜線からこだましてきたのは男たちの声だった。
 
 この夜、第五中隊は見事に丘を占拠した。支隊は中隊長の名をとってこの丘を遠矢高地とおやこうちと名づけた。貴重な橋頭保きょうとうほである。濱本支隊長はすかさず全部隊へ、前進命令を下した。
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