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第七章嫩江(ノンコウ)
第七章第二節(江橋)
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二
二人は奉天から約六九〇キロ離れた嫩江のほとりにいる。大興安山脈を水源とする嫩江は、内モンゴルと黒龍江省の境界に沿って約一三七〇キロ南下し、松花江へと注ぎ込む。
その嫩江に架かる洮昴線の鉄道橋が、去る十月十五日、黒龍江省警備司令馬占山の軍によって破壊された。
日本側はチチハルの清水八百一領事を通して黒省政府へ橋の修復を要求したが、馬占山は言を左右して一向に工事に着手せず、埒があかない。業を煮やした関東軍は十一月三日、橋の修理は日本側で行う旨を声明し、修復作業の護衛として工兵隊一個中隊と歩兵一個大隊を派遣した。
四日の正午三十分過ぎ、馬占山はその先遣隊へ向けて突如として砲撃を加え、死傷者十五人を出す惨事を招いた。関東軍もすぐさま反撃に転じ、ここに満州事変でも指折りの激戦、「嫩江の闘い」の火蓋が切って落とされた。
戦況は地の利に恵まれた馬占山軍に有利で、湿地に阻まれた関東軍は思うように前進できなかった。戦線は膠着し、夜半には部隊の安否すら気遣われた。
洸三郎と石川はその現場を目指している。
二人が下車した江橋は、普段なら人跡まれな荒れ野にぽつねんと赤レンガの駅舎が建つだけの、何もない場所である。そんな僻地の無人駅が、この夜に限ってせわしない喧騒に包まれた。
兵隊や弾薬、食料を積んできた貨車が数珠つなぎに連なったまま、折り返しもままならず立ち往生している。兵隊たちはみな前線へ出た後で。駅の周辺では橋の修理に来た大倉組※の作業員三十人余りと満鉄職員らが、軍用列車で運んできた物資をせっせと降ろしている。
積み荷の空いた貨車は前方へ送られ、次々と闇の中へ吸い込まれていった。闇の先には待避線があって、そこへ貨車を集めて作業員や兵隊の宿舎に充てるのだそうだ。
※大成建設の前身
江橋駅から嫩江を渡って対岸の大興駅まで十三キロ。途中、幅四百メートル余りの本流を含めて、五キロに及ぶ湿地帯が横たわる。「江」とは名ばかりの湿地帯には五本の鉄道橋が架かるが、馬占山軍は最も江橋寄りで本流を跨ぐ第一鉄橋と続く第二鉄橋、対岸の大興寄りの第五鉄橋を破壊した。
駅から二キロほど進むと第一鉄橋へ差し掛かる。鉄橋は橋げたを崩され、上部の欄干や線路が河に向かってひしゃげていたが、幸い河の中へは没していない。足元は不安定だが、何とか歩いて渡れそうだった。
闇夜の彼方から、どーん、どーんと花火のような音が聞えてくる。それが友軍の砲声なのか敵のものなのか、二人には見当もつかなかった。
この時点で洸三郎にはまだ戦場へきたという実感はなく、砲声などどこか遠い世界の出来ごとくらいにしか考えていなかった。そして相変わらずのんきに枕木に蹴つまずいた。
二人は奉天から約六九〇キロ離れた嫩江のほとりにいる。大興安山脈を水源とする嫩江は、内モンゴルと黒龍江省の境界に沿って約一三七〇キロ南下し、松花江へと注ぎ込む。
その嫩江に架かる洮昴線の鉄道橋が、去る十月十五日、黒龍江省警備司令馬占山の軍によって破壊された。
日本側はチチハルの清水八百一領事を通して黒省政府へ橋の修復を要求したが、馬占山は言を左右して一向に工事に着手せず、埒があかない。業を煮やした関東軍は十一月三日、橋の修理は日本側で行う旨を声明し、修復作業の護衛として工兵隊一個中隊と歩兵一個大隊を派遣した。
四日の正午三十分過ぎ、馬占山はその先遣隊へ向けて突如として砲撃を加え、死傷者十五人を出す惨事を招いた。関東軍もすぐさま反撃に転じ、ここに満州事変でも指折りの激戦、「嫩江の闘い」の火蓋が切って落とされた。
戦況は地の利に恵まれた馬占山軍に有利で、湿地に阻まれた関東軍は思うように前進できなかった。戦線は膠着し、夜半には部隊の安否すら気遣われた。
洸三郎と石川はその現場を目指している。
二人が下車した江橋は、普段なら人跡まれな荒れ野にぽつねんと赤レンガの駅舎が建つだけの、何もない場所である。そんな僻地の無人駅が、この夜に限ってせわしない喧騒に包まれた。
兵隊や弾薬、食料を積んできた貨車が数珠つなぎに連なったまま、折り返しもままならず立ち往生している。兵隊たちはみな前線へ出た後で。駅の周辺では橋の修理に来た大倉組※の作業員三十人余りと満鉄職員らが、軍用列車で運んできた物資をせっせと降ろしている。
積み荷の空いた貨車は前方へ送られ、次々と闇の中へ吸い込まれていった。闇の先には待避線があって、そこへ貨車を集めて作業員や兵隊の宿舎に充てるのだそうだ。
※大成建設の前身
江橋駅から嫩江を渡って対岸の大興駅まで十三キロ。途中、幅四百メートル余りの本流を含めて、五キロに及ぶ湿地帯が横たわる。「江」とは名ばかりの湿地帯には五本の鉄道橋が架かるが、馬占山軍は最も江橋寄りで本流を跨ぐ第一鉄橋と続く第二鉄橋、対岸の大興寄りの第五鉄橋を破壊した。
駅から二キロほど進むと第一鉄橋へ差し掛かる。鉄橋は橋げたを崩され、上部の欄干や線路が河に向かってひしゃげていたが、幸い河の中へは没していない。足元は不安定だが、何とか歩いて渡れそうだった。
闇夜の彼方から、どーん、どーんと花火のような音が聞えてくる。それが友軍の砲声なのか敵のものなのか、二人には見当もつかなかった。
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