上 下
90 / 466
第六章(十月理事会)

第六章第十一節(思い込み)

しおりを挟む
                 十一
 
 夕方には英国のレディング外相と会談をした。

 法曹界ほうそうかい出身の老外相とは、これが初対面となる。ロンドンの松平大使からはユニークな出自しゅつじと経歴も聞いている。インド総督を務めたレディング外相ならば、少しは東洋の実情にも親しんでいるに違いない。頭でっかちの聯盟理事たちとは一味違った反応を示してくれるだろう。これといった根拠はないが、勝手な期待を膨らませつつ日本政府の事変処理方針を説明した。

「……従って、事態を円満に解決するにも日華双方の国民感情に広がる敵愾心てきがいしんを取り除く必要があります……」
 芳澤は幣原外相が提起した、『数点の大綱たいこう』に対するレディング外相の反応を見たかった。だが老外相は微塵みじんも表情を変えず、とくに賛成でも反対でもないといった風に聞いていた。

「民国側は一遍いっぺんの口約束をしただけで、一切具体的な行動を取ろうとしません。これでは到底日本も兵を退くなどできかねます」
「それでは折衝せっしょうは行きづまるばかりです」
「……」
 あにはからんや――。
 話が撤兵問題へとおよぶや、レディング外相はたちまち態度を硬化させ、芳澤の訴えをバッサリ切って捨てた。松平から聞いていた人物像とは随分異なるようだ。芳澤はそれでもなお食い下がった。
「華人の口約束がいかにあてにならないかは、華南かなん華中かちゅうに長く権益を置かれてきた貴国もよくご承知のはずです」

 二人の間に沈黙が流れた。湖面こめんから水鳥がいっせいに飛び立つ音が聞こえた。

「聯盟がいま抱えている問題は、つまるところ二つの要素に分かれます」
 ややあって、外相がおもむろに口を開いた。
「第一は条約に関する問題で、これは日華両国間でのみ交渉できる性質たちの問題です。第二に敵対行為の問題があります。目下もっか聯盟が最も懸案けんあんしているのが、この敵対行為の問題なのです。聯盟が処理すべきはとどのつまり、敵対行為をいかに阻止するかにかかっているのです」

 何とも……、落胆した。勝手な期待を抱いた自分の愚かさを悔いた。
(果たして何のための折衝せっしょうだと言うつもりなのだろうか?)
しおりを挟む

処理中です...