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第六章(十月理事会)

第六章第三十一節(事変当夜)

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                三十一

 その日、事変関連の資料を読み返していた芳澤は、ふとある個所が気に掛かった。それは九月十九日奉天発の電報で、事件発生当夜の様子を記したものだった。

 「危険信号も間に合わなかったが、さいわいに線路の破損した部分が短かかったため、列車は幾分いくぶん傾斜しながら無事に通過した--」

 列車が傾きながらも途切れた線路を突っ切って通過したこと自体が驚きだが、その程度の損害ならば何もただちに砲門ほうもんを開いて大戦争を起こすことでもなかろう……。
 東京の米国大使館でもソウルズベリー書記官などが「自分のような外国人が通読つうどくして、到底『道理のある話』とは思えない」と繰り返し、大いに疑問を抱いた点である。

 ここで第二章の末節で触れた、独立守備第二大隊の島本正二しまもとしょうじ隊長による証言と、奉天特務機関次席であった花谷正はなやただし少佐の『手記』を想起したい。
 芳澤やソウルズベリーが首をかしげるまでもなく、花谷が“暴露”した、「線路の爆破を合図に関東軍が北大営へ攻め込んでいく」という証言には、誰が読んでも無理がある。
 爆破直後に現場から逃げ去る複数の人影と、これに対する鉄道守備隊の発砲。それにこうして逃げた側からの反撃と、線路沿いの高梁コウリャン畑から起こった激しい銃撃……。
 この下りを欠いたなら、関東軍の北大営襲撃は到底成立しない。それなのに、なぜみんなして鉄道線路爆破のことばかりにこだわるのだろうか?

 詳しいいきさつは知らないが、日本の朝野ちょうやがすっかり花谷の『手記』に引きずられ、歴史が塗り替わったあとの昭和四十八(一九七三)年八月、独立守備第二大隊のOBである室井兵衛むろいひょうえ氏が、『満洲独立守備隊』という著書を出版した。
 室井氏ご自身は昭和七年十二月の入営であるから北大営襲撃そのものには参加していない。だが昭和七年ならばまだ部隊には事件にまつわる戦場伝説や武勇伝、裏話も飛び交っていたことと推察される。板垣征四郎いたがきせいしろう石原莞爾いしはらかんじらが“秘密裏”に進めたはずの「謀略」が、酒のさかなとなってあらぬ噂としてひろまり、東京の外務省を経て建川美次たてかわよしつぐ作戦第一部長の渡満とまんとなったことは、すでに書いた。もし事件当夜の戦闘に参加した部隊に世間をアッと言わせる“裏話”があったならば、何故もっと早い段階で新聞などへ“たれ込まれ”なかったのだろうか?
 室井氏は同夜のことに触れるにあたって、東京裁判における石原莞爾中将の次の証言を引用する。

 「再三述べます通り、(中略)武力衝突必至ひっしということは決して働きかける意味ではありませぬ。結局は向こうからわれわれの弱点に向かってぶつかってくるものであるという一つの恐れを持っておったのであります。
  検事のおっしゃっていることは私の誤解かも知れませぬが、武力衝突ということは、日本からけしかけていくようにどうもお考えになるのではありませんか。われわれ関東軍といたしましては、その前に河本こうもと大佐の事件がありまして、河本大佐が処罰され、軍司令官が罷免ひめんされ、歴代の軍司令官が厳重にいましめられて、このことは決して出してはいかぬ。そのかわりに向こうがやってきたならば、武人の態度を絶対引かない。堅持してゆく、こういう態度を堅持していたのであります」

 何度も言うように、「事件は関東軍の謀略云々」という噂は当初からあった。毎日新聞出身の池田一之氏が二〇〇〇年四月に出版した『記者たちの満洲事変』には、渡邊洸三郎と同じく事変直後に内地からやって来た野中成童(盛隆?)という記者が、「鉄道爆破は日本軍が自ら行い、民国側の仕業しわざとして兵営を襲った」という線で現場をぎまわり、憲兵隊から「好ましからぬ人物」と目され事情聴取を受けた下りが紹介されている。野中記者の努力もむなしく、“噂の真相”は記者の取材に掛かってはこなかった。
 『手記』が出るまで、ついぞ噂は“うわさ”の域を出なかったのである。

 すでに廃刊となった月刊誌が何を書こうとも、事変の当事者である「独立守備第二大隊」は事変当夜の様子を次のように記録している。
 
 「午後十時過ぎごろ、同(河本》中尉が北大営の南方約六、七百メートルのレンガ焼場付近に達した時、突如、後方に一大爆音がとどろき、直ちに反転北進した際、数名の支那兵が鉄道を爆破し北大営方向に走行するのを認めた。さっそくこれに向かい射撃し、これを追撃中、爆破地点の北方二、三百メートル、北大営構内に連なるコーリャン畑内より猛射を受けた」
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