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第六章(十月理事会)

第六章第二十節(からめ手)

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                 二十

 オブザーバーの招致しょうちを巡っては歩み寄れなかったものの、条約問題に関しては多少の進展が見られた。
 会談中、芳澤からブリアンへ読み聞かせたのと同じく、沢田も「最終案ではない」との前置きをして『五大綱』の内容を読んで聞かせた。ドラモンドは第一から第四項目までは異論はないが、五点目の“鉄道問題”については、「『民国側が競争を避ける』という条約上の“根拠”はどこにあるのか」を問うてきた。

 そこで沢田は一九〇五年十二月の「北京条約」とその付属協定をげ、「条約に明文化されているにもかかわらず、清朝倒壊とうかい後、民国は一方的に約束を反故ほごにし、数々の問題を引き起こしてきた」と、条約尊重論を展開してみせた。これはまとていた。ドラモンドは米国からのオブザーバー招致でいささか後ろめたさを感じていたのか、好意的にこれを受けとめ「条約の尊重は聯盟が最も重視する事項の一つです。何とかして理事会の決議案に取り入れるようにしましょう」と約束した。

 厳密に言えば、沢田が持ち出した「北京条約および付属協定」には鉄道並行線禁止事項は明記されていない。これがしるされているのは、条約に付帯する「秘密議事録」のなかである。議事録に記載された文言が条約として効力を持つのか否かは議論が分かれるところだろう。しかし、「面子めんつ」にこだわる漢民族を相手にした交渉では、こうした裏技うらわざも必要だったことを付言ふげんしておく。
 
 沢田が戻ってきたのと入れ替えに、芳澤は再びブリアンの許を訪ねた。
「今朝お示しした五大綱はいかがでしたか? もし、聯盟側にご同意いただけるのなら、外相がおっしゃる『監視員』の派遣も不要になるのではないかと考えますが……」
 芳澤が単刀直入に五大綱への感想を求めると、老外相は困った顔をした。
「聯盟が最も気をんでいるのは、撤兵問題が片付かないことです。撤兵が完了しない限り、いかなる基礎に立とうとも、民国側は直接交渉には応じないのではないかという危惧きぐぬぐい去れません」
「では、理事会は『五大綱』に反対ということですか……?」

 ブリアンはしばし考えこんだ。そしておもむろにレジェを呼び、意見を聞いた。
 最初の三項目は全く問題ないが、「第四項」と「第五項」は実務をともなうため、撤兵前の交渉としては合意に時間がかかるのではないかというのがレジェの考えだった。今度は聯盟側が渋る番となった。

 日本の国民感情は長年鬱積うっせきした怒りの表れである。この感情を緩和しなければ交渉は前へ進まないと、何度も訴えた。一方の聯盟側は国際平和維持機関としての威信いしんを保つためにも、安易あんいにこの件から手を引く訳にはいかない。それぞれが背負った事情によって両者がともに“あい路”へと迷い込み、もがけばもがくほど、大もとの原因をつくった張学良ちょうがくりょう蒋介石しょうかいせきは高みの見物を決め込むことになる。
 まさに漢民族が得意とする“からめ手”と分かっていながら、見事にそこへ落ちていきそうなのが、芳澤には歯がゆくて仕方なかった。

「第四項は居留民の生命財産の保障に関するものであり、第五項も既存条約の確認ですから、別段べつだん新しいことを持ち掛けた訳ではありません」
 芳澤の言葉にレジェは少し譲歩した。
「ではまあ、第四項は良しとしましょう。しかし、第五項の決着には相当の時間を要すると思われます」
 ブリアンもレジェも、それ以上は譲らなかった。 
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