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第六章(十月理事会)

第六章第二節(書簡)

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                                                  二

 芳澤が気持ちを新たにした頃、東京では十月理事会へ向けた前哨戦ぜんしょうせんがすでに始まっていた。
 十月五日、中華民国の蔣作賓しょうさくひん駐日公使から幣原外相のもとへ一通の書簡が送られてくる。

 「以書翰啓上致候陳者いしょかんけいじょういたしそうろうちんしゃ本月四日……」

 “書をもって謹んで申し上げます”との頭語とうごで始まる書簡の本文にはこうあった。

 「日本政府代表は国際聯盟理事会の最終決議において、今月十四日の理事会再開前に日本軍はすべて撤退すると述べた」

「はて?」
 幣原外相は記憶の糸をたぐってみたが、いくら思い返しても心当たりが浮かばない。
(さては芳澤の奴め、本省に無断で軍の撤退時期云々を公言したというのか?)
 そんな疑念すら頭をよぎった。しかし、ジュネーブからの新聞報道にもそのような話は一切出てこない。狐につままれた思いで先を読んだ。

 「本政府は同月二日、東三省とうさんしょうにおいて各地軍隊を統率する長官を選任し、日本軍撤退後の各地の引継ぎを受け、(中略)日本軍が破壊した各地の治安を恢復かいふくするよう電命した(中略)いては出先軍隊に対し、我が方から派遣する引継ぎの長官と打合せ、必ず本月十四日までに引継ぎを完了するように措置ありたし」
 
 落ち着いて見てみれば、何とも馬鹿々々しい内容ではないか。荒唐無稽こうとうむけいにもほどがある。だが沈黙は“是認”となってしまうから、きちんと反論しておかなければ……。何といっても相手方は虚実きょじつの区別なくあらゆることを宣伝の材料とするカルチャーを持つ国柄なのだから。
 錦州問題で世情が揺れるなか、日本政府は九日付の反論書を送達そうたつする。

 「過般かはん貴国から受領した書簡に、『十月十四日の理事会再開以前に日本軍はすべて撤退すると述べた』との記述があるが、(中略)九月三十日の理事会決議には(中略)理事会再開前に日本軍を撤退すべきことなど定めていない」

 張学良ちょうがくりょうは事変勃発に際して「無抵抗主義」を声明した。それは事実である。だが実際は随所で武力衝突が起きて、日本軍側にも多数の死傷者を出している。たとえ治安維持部隊の引継ぎだったとしても、民国の正規軍が山海関さんかいかんを越えてくれば満洲に新たな火種をくことけ合いだ。この機に乗じて政権の復活を図ろうとする張学良の好き勝手になどさせないためにも、日本側から逆提案する必要がある。

 「帝国政府の所見しょけんによれば、目下の急務は日華双方が協力して国民感情の緩和を図るべきではないか」

 沸騰する国民感情に押されて、南京政府が対日強硬姿勢を貫かざるを得ない事情は分からないでもない。しかし輿論よろんなら日本側にだってある。しかも相当熱くなったやつが……。
 民主国家の政策が輿論の上に成り立つ以上、先ずは国民感情の鎮静化を図るのが第一だろう。そのためにも、「平常な関係を確立する基礎となるべき、数点の大綱たいこうを協定するのが先決だ」。
 ところが、暖簾のれんに腕押しとはこのことか――。

 民国政府はこの回答を等閑視とうかんししたのか、十一日付で再度「今週中に民国政府が引き継ぐべき地域をご通知ありたし、(中略)即刻現地司令官へ伝令し、ただちに現地との打ち合わせを開始せられたし」と送ってきた。さすがにこのときは黙殺したが、十月の理事会をはさんで二十七日にも三度みたび同じ趣旨の書簡を送ってきた。今度は即座に「すでに十月九日付で回答した通り(中略)、日華間の平常な関係を確立させる基礎となる大綱協定と撤兵問題に関する直接交渉をはじめるよう希望する」と反論したが、この頃になると聯盟理事会も混じって話は三つどもえの様相を呈し、あわやこのまま押し切られるか――という局面すら現出してしまう。
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