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第四章政略
第四章第十節(満鉄総裁2)
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十
「これまで軍閥政権がなしてきた諸々の振る舞いに鑑みるならば、今回の関東軍の行動にもいちいち頷けるものがある。だが現役の軍人を市政に当たらせるのは、いかにもやり過ぎでしょう。これを前提に鉄道の交渉を進めるとあらば、諸外国から『保障占領』のそしりを受けかねない」
政府が内田を起用したのは、満洲における鉄道を巡る奉天鉄道当局との交渉が頓挫し、膠着に陥ったからであった。だが新総裁を迎えたものの、華人特有の“遷延策”を前に交渉は遅々として進まなかった。
そこへ事変が起こった。見ようによっては、これを奇貨として交渉を前進させる好機と言えないでもない。奉天側へ掣肘を加えるのもさることながら、官僚体質の“事なかれ主義”に染まり切った満鉄社内を“一喝”する良い機会にもなる。
その半面、交渉相手国を武力で脅し条約を“強要”すれば、それは「保障占領」となる。いくら政府が「領土的野心はない」と言ってみたところで、諸外国からの干渉を招けば奉天側の態度は以前に増して硬化する恐れもある。満鉄総裁としては“痛しかゆし”といったところであろう。
「確かにその点はご指摘の通りです。しかし、奉天の為政者たちがみな、事変とともに逃亡してしまったのです。行政を引き継ぐに適当な人物も見当たらず、致し方なく現役の土肥原大佐に市政を委ねた次第です」
危急の場をしのぐためには避けられない措置であったが、満鉄総裁の言うのもうなずける。
「事態の収束を待って、行政は順次華人の手に戻していくつもりです」
「うむ。それがいい」
内田は何となく軍司令官に対して抱いてきた先入観が氷解していくのを感じた。俗に「気が合う」と言うが、目の前の人物はどうもその部類に入るようだ。もう少し探ってみよう。
「ところで、新政権樹立の暁には、どのような方針で臨まれるおつもりか?」
単刀直入--、内田は目力のある視線で「しっか」と相手を見据え、ズバリと切り込んだ。これへの受け答え次第である。この人物への評価は--。
「先ず軍として、満蒙を南京政府から分離するつもりです」
「……」
相手の嫌がるところを突いてみたつもりだった。官僚や政治家だったなら、見苦しい言い訳に終始したことだろう。だが目の前の軍人は毫も逃げずに真正面から受け止めた。先ずはそこに好感を持てた。
「次に満蒙の統一を図ること。南満と北満は一元に扱うことが絶対に必要です」
本庄は視線をそらさず、これまた「しっか」と相手を見返して、淡々と受け答えた。その腹は座っていた。少なくとも満鉄が邪魔立てしたところで、態度を変えることはなさそうだった。と、なればどうするか……。
「なお統治は華人に委ねるものの、各分野にわたって日本人が顧問となってこれを掌握します。張学良の勢力を満洲から一掃し、満・漢・蒙・日・鮮による『五族の協和』を実現するためには、このくらいの粗治療が絶対に必要との結論に至りました」
「……」
二人の間にしばし沈黙が流れた。
ややあって内田は大きくうなずいた。
「うん、うん。それがいい」
内田康哉にはこれといった政治信条がなかったと言われる。その時々の風に乗る、いわば“風見鶏”という訳だ。いま、幣原外交の負の遺産として満洲事変が起こったのを契機に、国民の間には強硬な大陸政策を求める声が高まりつつある。風見鶏の嗅覚が働いたとしてもおかしくはない。
見方によっては日本の大陸政策そのものが、猫の目のようにクルクル変わり続けたではないか。明治、大正、昭和と長きにわたり外交に携わった経験から、内田はそれをよく知っていたのかもしれない。
「近頃、新聞紙上などでは徒に国際聯盟や米国の顔色を気にして、事変の根本原因を見極めずに対策も考えず、性急に南京政府との交渉だの撤兵だのと口にする嫌いがあります。これらはただ南京政府に言質を与え、自分の立場を危うくするのみです。断じて受け入れる訳にはいきません」
軍司令官はここを先途と自説を展開した。
「いや、まったくその通りだ!本庄さん」
内田はすっかり本庄に引き込まれていった。
「ここはやはり、挙国一致でことに当たらねばなりません」
そう言って二人は、ともに満洲の未来を切り開こうと誓い合った。
どうも本庄繁という人には、人たらしの素質があったようだ。わずか一時間ほどの会談を経て満鉄総裁はすっかり本庄の虜になってしまった。
この会談を境に満鉄は全面的に関東軍に協力するようになる。
「これまで軍閥政権がなしてきた諸々の振る舞いに鑑みるならば、今回の関東軍の行動にもいちいち頷けるものがある。だが現役の軍人を市政に当たらせるのは、いかにもやり過ぎでしょう。これを前提に鉄道の交渉を進めるとあらば、諸外国から『保障占領』のそしりを受けかねない」
政府が内田を起用したのは、満洲における鉄道を巡る奉天鉄道当局との交渉が頓挫し、膠着に陥ったからであった。だが新総裁を迎えたものの、華人特有の“遷延策”を前に交渉は遅々として進まなかった。
そこへ事変が起こった。見ようによっては、これを奇貨として交渉を前進させる好機と言えないでもない。奉天側へ掣肘を加えるのもさることながら、官僚体質の“事なかれ主義”に染まり切った満鉄社内を“一喝”する良い機会にもなる。
その半面、交渉相手国を武力で脅し条約を“強要”すれば、それは「保障占領」となる。いくら政府が「領土的野心はない」と言ってみたところで、諸外国からの干渉を招けば奉天側の態度は以前に増して硬化する恐れもある。満鉄総裁としては“痛しかゆし”といったところであろう。
「確かにその点はご指摘の通りです。しかし、奉天の為政者たちがみな、事変とともに逃亡してしまったのです。行政を引き継ぐに適当な人物も見当たらず、致し方なく現役の土肥原大佐に市政を委ねた次第です」
危急の場をしのぐためには避けられない措置であったが、満鉄総裁の言うのもうなずける。
「事態の収束を待って、行政は順次華人の手に戻していくつもりです」
「うむ。それがいい」
内田は何となく軍司令官に対して抱いてきた先入観が氷解していくのを感じた。俗に「気が合う」と言うが、目の前の人物はどうもその部類に入るようだ。もう少し探ってみよう。
「ところで、新政権樹立の暁には、どのような方針で臨まれるおつもりか?」
単刀直入--、内田は目力のある視線で「しっか」と相手を見据え、ズバリと切り込んだ。これへの受け答え次第である。この人物への評価は--。
「先ず軍として、満蒙を南京政府から分離するつもりです」
「……」
相手の嫌がるところを突いてみたつもりだった。官僚や政治家だったなら、見苦しい言い訳に終始したことだろう。だが目の前の軍人は毫も逃げずに真正面から受け止めた。先ずはそこに好感を持てた。
「次に満蒙の統一を図ること。南満と北満は一元に扱うことが絶対に必要です」
本庄は視線をそらさず、これまた「しっか」と相手を見返して、淡々と受け答えた。その腹は座っていた。少なくとも満鉄が邪魔立てしたところで、態度を変えることはなさそうだった。と、なればどうするか……。
「なお統治は華人に委ねるものの、各分野にわたって日本人が顧問となってこれを掌握します。張学良の勢力を満洲から一掃し、満・漢・蒙・日・鮮による『五族の協和』を実現するためには、このくらいの粗治療が絶対に必要との結論に至りました」
「……」
二人の間にしばし沈黙が流れた。
ややあって内田は大きくうなずいた。
「うん、うん。それがいい」
内田康哉にはこれといった政治信条がなかったと言われる。その時々の風に乗る、いわば“風見鶏”という訳だ。いま、幣原外交の負の遺産として満洲事変が起こったのを契機に、国民の間には強硬な大陸政策を求める声が高まりつつある。風見鶏の嗅覚が働いたとしてもおかしくはない。
見方によっては日本の大陸政策そのものが、猫の目のようにクルクル変わり続けたではないか。明治、大正、昭和と長きにわたり外交に携わった経験から、内田はそれをよく知っていたのかもしれない。
「近頃、新聞紙上などでは徒に国際聯盟や米国の顔色を気にして、事変の根本原因を見極めずに対策も考えず、性急に南京政府との交渉だの撤兵だのと口にする嫌いがあります。これらはただ南京政府に言質を与え、自分の立場を危うくするのみです。断じて受け入れる訳にはいきません」
軍司令官はここを先途と自説を展開した。
「いや、まったくその通りだ!本庄さん」
内田はすっかり本庄に引き込まれていった。
「ここはやはり、挙国一致でことに当たらねばなりません」
そう言って二人は、ともに満洲の未来を切り開こうと誓い合った。
どうも本庄繁という人には、人たらしの素質があったようだ。わずか一時間ほどの会談を経て満鉄総裁はすっかり本庄の虜になってしまった。
この会談を境に満鉄は全面的に関東軍に協力するようになる。
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