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第四章政略

第四章第二節(熙洽)

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                 二

 満州要人のなかで新政権樹立に最も熱心だったのは、吉林きつりん熙洽きはであった。

 もともと吉林は張作相ちょうさくそうの治下にあって、中央とは隔離されつつその勢力はあなどり難いものがあった。しかも排日の本場である。萬宝山まんぽうざん事件も鮮農せんのう圧迫問題も、すべてここから出ている。
 関東軍がその吉林へ第二師団を派遣したのは二十一日のこと。五十三輌からなる第一列車は師団司令部と主力部隊を乗せて午前十時五十分、長春駅を出発した。むかえる吉林軍は、吉林から西の一帯に陣地や堡塁ほるいを築いて徹底抗戦の構えである。まさに一触即発いっしょくそくはつの危機だった。
 多門二郎たもんじろう師団長は車中で、各部隊長へ向け「背嚢はいのうは車中に残し、軽装となっていつでも下車して戦闘に移れるよう」指示していた。

 先頭に機関車二台、後尾こうびに一台を連結した軍事列車が午後四時半、吉林から四駅手前の樺皮廠かひしょうに着くと、そこで吉林省側から派遣された軍師ぐんしと落ち合う。軍師は吉林省顧問として派遣されている大迫通貞おおさこみちさだ中佐と日本領事館の書記生、および熙洽きは参謀長の代理を務める安玉珍あんぎょくちん中将の三人。
 書記生は石射猪太郎いしいいたろう吉林総領事の代理として、事態の平和的解決を望む私信を携えてきた。そこで多門中将は、先ずは吉林軍の武装解除を条件とし、詳細は熙洽きは参謀長と会見の上で詰めることとして午後五時四十五分、無事に吉林へ到着した。
 翌日には参謀本部奉天付きの今田新太郎いまだしんたろう大尉も加わって、吉林随一の名古屋旅館で会談を開いた。こうした会談の記録は終戦時にすべて焼却されてしまったが、石射総領事は晩年に著した『外交官の一生』に次のように記している。

 「翌二三日定刻前に、熙参謀長が施(履本)交渉員と通訳をつれてまずわたしを来訪した。私は一行をつれて名古屋館に行き、師団副官の案内で二階の一室に通った。師団長と師団参謀長とを中心に、数人の参謀達が待ち受けていた。儀礼がんでが定まると、師団長がこの会談は軍事的なものであるから、外交官はママをはずしてもらいたいという。そこで私と施交渉員は別室に引き取った。
  (中略)そのうちに話がついたとみえて熙参謀長と通訳官が降りて来て、あたふたと自動車で帰った。(中略)
  間もなく張(燕卿)秘書から情報が届いた。今日の会談で、熙参謀長は吉林省の即時独立宣言を師団長から要求された。居並んだ参謀連から「独立宣言か死か」とけん銃を突き付けられての強要なので、熙参謀長は絶対絶命これを承諾した」

 石射はこの一事を『ピストル・ポイントの独立宣言』とかんむりし、熙洽きは参謀長は不本意な独立宣言を“強要された”との持論を喧伝けんでんする。だが文中にもある通り、彼の持論はあくまで「伝聞」に基づく推測なのである。
 確かに軍人が外国の軍隊から宗旨替しゅうしがえを迫られたのであるから、「ハイ、さようですか」などと寝返る訳もなく、そこには何らかの脅迫的な行為が伴ったとしても不思議はない。だが石射は大事なことを伏せたまま強引に持論へと誘導していった。
 つまり熙洽きはは元々、宣統帝せんとうてい擁立ようりつし、清朝の復興を願う「復辟派ふくえきは」の人物だということだ。また、独立宣言を決意するのも会談当日ではなく、翌日に宣統帝の従者である羅振玉らしんぎょくからせられ、さらに吉林省顧問の大迫通貞中佐から詰め寄られて悩みぬいた挙句あげくのことである。

 それを裏付けるように、ひとたび独立を宣言するや熙洽きはは他の満洲要人とは比較にならないほど積極かつ精力的に独立への地ならしにはげむ。二十六日までに省政府幹部の人選を終え、二十八日には記者発表まで開いたのである。ものすごい決断力と勇気ではないか。
 片や彼もまた、張学良ちょうがくりょうに次ぐ「満洲の副王ふくおう」と称される張作相ちょうさくそうつかえた身である。一方で関東軍へ帰順きじゅんの態度を示しつつも、他方では抜け目なく南嶺なんれいの砲兵長を張作相のもとへ送って隠密おんみつにすべてを通謀つうぼうしていた。
 さすがは大陸で生き抜いてきた知略ちりゃくと言えよう。関東軍もその点は察知していて、大迫に熙洽きはの動向を遺漏いろうなく監視させた。
 二股という難癖は付くものの、吉林が無血開城したという事実は、新政権樹立運動の推進に大きなはずみをもたらした。これで東三省のうち二省までが、日本軍と足並みをそろえた。そのことが二の足を踏み続ける張景恵ちょうけいけい張海鵬ちょうかいほうの決断をうながした。
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