上 下
50 / 466
第三章ジュネーブ

第三章第十六節(待ち人来たらず)

しおりを挟む
                 十六
 
 一日千秋いちじつせんしゅうの思いで待ちがれた幣原外相の電報が、ようやく届いた。

 英国のフランシス・リンドレイ駐日大使が外相を訪ねてきて、満州事変に関する情報を提供してくれるよう求めてきたとのことだった。外相は、「わずか一万人の守備隊が常時二十二万人の敵兵に包囲されている。この危機を脱するため、機をいっせず奉天城内はじめ軍略上重要な地点を占拠した。吉林出兵も同様の趣旨によるもので、当面の脅威が取り除かれればすぐにも撤退する予定である」と答えたのだそうだ。
 午前の理事会で芳澤が、独自の判断に基づいて発言した内容と同じことを伝えたことになる。

 これでは「弾薬が不足しているから補充してくれ」と要請したら、慰問袋を送って寄こしたようなものではないか。日本とヨーロッパを隔てる時差があるのは仕方ないというものの、認識や感覚までがこうもズレてしまうものなのだろうか。
 電文には「日本としては満洲のいかなる部分に対しても領土的および政治的野心はない」など、政府の立場を繰り返し述べたともあった。だがその政府は十九日に「事件を拡大しない」と公約したにもかかわらず、事態はむしろ悪化の一途いっとをたどっているではないか。聯盟の疑念は膨らむばかりだし、民国の施肇基しちょうき代表は、議場において本国から毎日送られてくる電報を振りかざしつつ、日本軍の暴状ぼうじょう声高こわだかに叫んでいる。そして「一刻もはやく聯盟から勧告を出すべきだ」とあおりたてている。
 ジュネーブの日本代表部はいま、肩身の狭い思いで轟々ごうごうの非難を浴びている。それなのに……。今さらこんな話を聞かされて何になる?
 
 苛立いらだつ気持ちをおさえて芳澤は、民国代表が聯盟による紛争の調停を促す「規約第十五条」や対日制裁を可能にする「第十六条」に基づく理事会の招集を求めようとしていることや、米国のウィルソン元大統領が理事会の周辺をウロついて何やらたくらんでいるらしいことなどを報告し、本省の危機感を呼びまそうとした。また理事会で日本代表部が孤立を深めている苦境を訴えつつ、五人委員会が提起してきた満洲への「調査員」派遣に対する政府の回答を、「是非とも二十四日までにあおぎたい」と懇請こんせいした。
 この時の芳澤の焦燥感は、次の言葉に表されている。

 「訓令未着くんれいみちゃくの理由をもってその場を糊塗ことし得ざる窮地きゅうちに立てり」

しおりを挟む

処理中です...