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第三章ジュネーブ

第三章第一節(レマン湖)

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                第三章
 
                 一
 
 レマン湖のほとりに「国連人権高等弁務官べんむかん事務所」という、いかめしい名の建物がある。第二帝政期様式と呼ばれる荘厳そうごんなたたずまいの建築物は、かつて「パレ・ウィルソン」と呼ばれた。国際聯盟の設立を提唱したアメリカ大統領の名にちなんだもので、実際、一九三六年まで聯盟が本部を置いた場所である。
 国際聯盟は毎年一回の総会のほか、五月、九月、十二月の理事会を例会とした。日本外務省の当時の決まりで、パリの駐仏全権大使が聯盟の日本代表理事を兼ねることになっていた。
 芳澤謙吉よしざわけんきち厦門アモイの二年間を皮切りに、上海へ二年四カ月、牛荘ぎゅうそうで二カ月半、漢口かんこうに一年、その後は北京に参事官として二年半、公使で六年二カ月を過ごし、本省の政務局政務局へ戻ってからも取り扱った事務の大半が大陸に関わる問題だった。いわばその道の古強者ふるつわものである。その芳澤が全く畑違はたけちがいのフランス駐箚ちゅうさつ全権大使に任命されるのは、昭和四年九月のこと。正式な辞令が出る前に仏領インドシナを視察し、昭和五年四月に家族四人と看護婦、女中、コックの大部隊を引き連れて「箱根丸はこねまる」で横浜港を出帆しゅっぱんした。
 東京帝大の英文科を出た芳澤は、英語には多少の自信があったもののフランス語となるとさっぱりで、辞令を受けたときは正直「これは弱った」と思った。まあ横浜からヨーロッパへは船で一月近くかかる。船中で少しでも勉強しようと上海に寄港した折、同地で発行されていた新聞『エコー・ド・シーヌ(Echo de Chine)』を大量に買い込み、船室へこもって辞書を片手に格闘した。
 パリの大使公邸は凱旋門近くのアヴェニュー・オッシュ七番街にあった。昭和六年の夏まではこれといって大きな問題もなく、ロシニオーという婦人を家庭教師に雇ってフランス語を学んだり、週末のゴルフを楽しんで過ごした。九月の聯盟理事会が近づくと、家族を連れて早々にスイスへ移り、夏を過ごすのも楽しみだった。その年も七月からジュネーブの北十キロほどのところにある、レマン湖右岸のヴェルソワに瀟洒しょうしゃな別荘を借りて英気を養った。
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