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第二章

第二章第八節(吉林出兵)

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                 八
 
 十九日の深夜零時、奉天屈指の旅館のひとつである「瀋陽館しんようかん」の二号室に関東軍幕僚たちが顔を揃えた。板垣大佐が寓居ぐうきょとするこの部屋に集まったのは、三宅光治みやけみつはる参謀長以下石原中佐、新井匡夫あらいまさお少佐、武田壽少佐、中野良次なかのりょうじ大尉と片倉大尉の各参謀である。当面の作戦を練り直した幕僚の意見は、もとより吉林出兵に決まっている。問題は本庄繁ほんじょうしげる司令官だった。
 本庄司令官は事変勃発とともに旅順から奉天へと向かう列車の中で、石原参謀ら幕僚の説得を受けていったんはハルビン侵攻を決意する。ところが政府の不拡大方針を受けてその考えをひるがえした。この部分だけを切り出したならば、いかにも本庄繁という人物が優柔不断意に映る。だが、前任の菱刈隆ひしかりたかし大将も前々任の畑英太郎はたえいたろう大将も、過去の関東軍司令官は在満邦人が華人官憲からどんなに理不尽な仕打ちを受けても、自分の部下が東北軍に侮蔑ぶべつされても、見るべきものから目をそららし、ただひたすらに「隠忍自重いんにんじちょう」を唱え続けた。
 それに引き換え本庄司令官は、今年八月に着任するや事態が急迫しているのを察知。形式上は「将兵を厳に戒め軽挙妄動けいきょもうどうを禁じる」としながらも、他方においては「通常の軍務に従事するなかで、もし両軍に衝突が起こったならば、積極果敢に機敏な行動をもって各人の任務を成しげるよう」訓令くんれいする。これを聞いた幕僚以下将兵は「今までの司令官とは違う」と小躍りし、すぐさま新任司令官に全幅ぜんぷくの信頼を寄せた。

 まずは三宅参謀長が先陣を切って浴衣ゆかたのまま司令官が起居ききょする七号室を訪ねたが、にべもなく追い返されてくる。それでもこのまま竜頭蛇尾りゅうとうだびに終わったのではやんでも悔やみきれないとの思いから、「もう一度行ってみる」と言って立ち上がった。そしてほどなく戻ってきた。
「だめだ。まったく歯が立たない」
「石原参謀、作戦主任の立場から丁寧に説明して見てはどうかな」
 振られた石原は短く刈り上げた頭をつるりとでて、渋い顔をした。
「いや、すでに参謀長が二度も説得されたのに首を縦に振らないんじゃあ、自分が行っても同じことです。どうせ行くのなら、幕僚全員で行った方がいいと思いますよ」
「それもそうだ。よし、ひとつ皆で行ってみようじゃないか」
 行動派の板垣が音頭を取って、全員私服のまま七号室へと向かった。

 本庄司令官は幕僚たちがやって来るのを予期していたようで、窓際に置かれた籐の椅子に深々と腰かけていた。新井少佐が次鋒じほうとなって吉林の状況を説明する。司令官はすでに何度も状況説明を受けてきた。それでも相手の言うことを途中でさえぎらず、最後まで聞いた。石原中佐も用兵ようへい上の観点から吉林派兵の必要を説く。しかし本庄は表情を変えず、参謀たちが語るに任せた。
 「暖簾のれんに腕押し」とはこのことか。そこにいた誰もがそう思った。すると板垣がこぶしを振り上げ、「断じて所信しょしんを貫くべし」と持論を熱く語りはじめた。これまで慎重に慎重にことを運んできたのに、ここで引き下がってはすべてが徒労とろうに終わる。そうした思いが言葉の選び方を粗雑にした。何の気なしに発した「軍がぐらついては」の一言に、司令官の表情が険しくなった。板垣の一言が琴線きんせんに触れた本庄は色をなして抗弁した。そして他の幕僚たちを退室させ、二人で延々二時間、激論を重ねた。
 二号室へ戻った幕僚たちは、その間ただオロオロするばかりだった。そして時計の針が午前三時を指した頃、板垣が戻ってきた。本庄はついに吉林出兵を決断した。
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