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第二章
第二章第十五節(事変の真相2)
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十五
満洲事変を「帝国主義日本による大陸侵略の嚆矢」と位置付けた東京裁判は、二年六カ月余りの歳月をかけた裁判中、最も多くの時間を「満洲事変」の審理に費やした。それでも「事変を仕掛けたのが旧軍閥軍側である」との認識を改めることはなかった。
その一方で、事変直後から“関東軍陰謀説”もささやかれ続けた。
昭和二十五年には事変当時の奉天総領事代理、森島守人が回想録を発表し、事件はもともと九月二十八日に行われる予定だったことをはじめ、板垣、石原ら極少数の首謀者が重藤千秋大佐や橋本欣五郎中佐など東京の参謀本部にいる同志の協力を得て起こしたこと、そして線路爆破の下手人が特務機関付の今田準太郎大尉だったとする“関東軍犯行説”を公にした。
その後の詳しい事情は承知していないが、今日森島の陰謀説をもって「関東軍の謀略」を論評する論文や書籍にお目にかかることは、まずないと言って差し支えない。昭和二十五年当時の日本がまだ連合軍の占領下にあって、自由な言論や出版など望めなかった中での“暴露話”だったからなのだろうか? むしろ彼の回想録から引用されるのは、事変当時における奉天の空気を評して、「あたかも噴火直前の休火山の麓にいて爆発を心配し、時限爆弾をいだいているような気持ちであった」という部分のみである。もっとも彼のような外務官僚がいくら軍部批判を重ねたところで、筆者個人の耳には所詮、「満洲における“主導権”を一夜にして軍部へ奪われてしまった官僚の恨み言」といった体の、ひねた話にしか聞こえないのだが……。
ともあれ、関東軍の陰謀が再び“暴露”され、文字通り“世の中がひっくり返る”のは昭和三十一年十二月※のこと。事変当夜、奉天特務機関長代行を務めていた花谷正少佐(当時)の「手記」なる記事が、月刊誌『知性』に掲載されたのがきっかけとなった。何せ、事変当時から“首謀者”のひとりと目されてきた当人がついに真相を告白したのであるから、もう疑う余地はなくなった--という訳である。
※手許に現物がないので、果たしてこの日付をとっていいのかについては自信がない。とにかく「十二月号」であるとされている。
以来、満洲事変を巡る研究は「何故このような事変が起こったのか」と言う、相手あっての因果関係を脇に置き、やれ「関東軍は自作自演の線路爆破を口実に、大陸侵略の魔の手を着々と伸ばしていった」とか、「北一輝や大川周明の唱える国家社会主義思想に傾倒する少壮の青年将校らが、満洲の地に彼らの理想とする国を建てた」といった、日本陸軍の“独り相撲”へと論点が変わっていく。
そして不可解なことに、日本の現代史に大きな転換をもたらした重要な“告白”であったにも関わらず、花谷の「手記」を学術的に慎重に検証するという作業が行われたという痕跡が、どうも見当たらないのだ。そればかりか、昭和の歴史を塗り替えた重要な証拠物であるはずなのに、記事を掲載した雑誌そのものが世の中から忽然と姿を消し、国会図書館にすら所蔵されていないのである。
それでも世の中には奇特な方がいらっしゃるもので、ご自宅の蔵に眠っていた古い雑誌を発見し、インターネット上に全文を公開してくれている。ここに感謝の意を表すとともに、重要な部分を借用していくつか抜粋させてもらう。
「我々は最初鉄道爆破を九月二十八日に行う予定であった。爆音を合図に、奉天駐屯兵舎(歩兵第二十九連隊)内に据え付けた二十八糎要塞砲が北大営の支那軍兵舎を砲撃する。同時に在奉天部隊が夜襲をかけてこれを占領するというのである」
「そして高梁が刈取られた後が作戦に好適である(高梁が繁茂していると、匪賊がかくれても発見しがたい)という見地から九月二十八日が選定されたのであった」
「手記」においても高梁畑の存在が意識されていた点に注意を促したい。(そして関東軍による極秘の謀であるはずなのに、なぜかそこに「匪賊がかくれ」る可能性を示唆しているのも不自然ではないか)。その後、突如事情が変わって計画は繰り上げられる。
「九月十五日、かねてから連絡打ち合わせをしていた橋本(欣五郎)中佐から『計画が露顕して建川が派遣されることになったから迷惑をかけないように出来るだけ早くやれ。建川が着いても使命を聞かない内に間に合わせよ』という電報が特務機関に舞い込んできた」
事変当夜の下りは、次のように記述されている。
「島本大隊川島中隊の河本末守中尉は、鉄道線路巡察の任務で部下数名を連れて柳条溝へ向かった。北大営の兵営を横に見ながら約八百メートルばかり南下した地点を選んで河本は自らレールに騎兵用の小型爆薬を装置して点火した。時刻は十時過ぎ、傲然たる爆発音と共に、切断されたレールと枕木が飛散した」
「爆破と同時に携帯電話機で報告が大隊本部と特務機関に届く。地点より四キロ北方の文官屯に在った川島中隊長は直ちに兵を率いて南下北大営に突撃を開始した。
今田大尉は直接現場付近にあって爆破作業を監督した元々剣道の達人、突撃に当たって自ら日本刀を振りかざして兵営に切り込んだ」
「特務機関では、何も知らずに宴会から帰って熟睡していた島本大隊長が急報であわててかけつけて来た所へ板垣が軍司令官代理で命令を下す。第二十九連隊と島本大隊は直ちに、兵を集合させて戦闘へ参加する。
北大営ではシナ側は何も知らないで眠っている者が多かった上、武器庫の鍵をもった将校が外出していて武器がなくて右往左往している内に日本軍が突入してくる。かねてから内通していたシナ兵も出て来るという調子。そこへ二十八サンチ重砲が轟音と共に砲撃を始めたので大部分のシナ兵は敗走し、夜明迄には、奉天全市は我が手に帰し……」
満洲事変を「帝国主義日本による大陸侵略の嚆矢」と位置付けた東京裁判は、二年六カ月余りの歳月をかけた裁判中、最も多くの時間を「満洲事変」の審理に費やした。それでも「事変を仕掛けたのが旧軍閥軍側である」との認識を改めることはなかった。
その一方で、事変直後から“関東軍陰謀説”もささやかれ続けた。
昭和二十五年には事変当時の奉天総領事代理、森島守人が回想録を発表し、事件はもともと九月二十八日に行われる予定だったことをはじめ、板垣、石原ら極少数の首謀者が重藤千秋大佐や橋本欣五郎中佐など東京の参謀本部にいる同志の協力を得て起こしたこと、そして線路爆破の下手人が特務機関付の今田準太郎大尉だったとする“関東軍犯行説”を公にした。
その後の詳しい事情は承知していないが、今日森島の陰謀説をもって「関東軍の謀略」を論評する論文や書籍にお目にかかることは、まずないと言って差し支えない。昭和二十五年当時の日本がまだ連合軍の占領下にあって、自由な言論や出版など望めなかった中での“暴露話”だったからなのだろうか? むしろ彼の回想録から引用されるのは、事変当時における奉天の空気を評して、「あたかも噴火直前の休火山の麓にいて爆発を心配し、時限爆弾をいだいているような気持ちであった」という部分のみである。もっとも彼のような外務官僚がいくら軍部批判を重ねたところで、筆者個人の耳には所詮、「満洲における“主導権”を一夜にして軍部へ奪われてしまった官僚の恨み言」といった体の、ひねた話にしか聞こえないのだが……。
ともあれ、関東軍の陰謀が再び“暴露”され、文字通り“世の中がひっくり返る”のは昭和三十一年十二月※のこと。事変当夜、奉天特務機関長代行を務めていた花谷正少佐(当時)の「手記」なる記事が、月刊誌『知性』に掲載されたのがきっかけとなった。何せ、事変当時から“首謀者”のひとりと目されてきた当人がついに真相を告白したのであるから、もう疑う余地はなくなった--という訳である。
※手許に現物がないので、果たしてこの日付をとっていいのかについては自信がない。とにかく「十二月号」であるとされている。
以来、満洲事変を巡る研究は「何故このような事変が起こったのか」と言う、相手あっての因果関係を脇に置き、やれ「関東軍は自作自演の線路爆破を口実に、大陸侵略の魔の手を着々と伸ばしていった」とか、「北一輝や大川周明の唱える国家社会主義思想に傾倒する少壮の青年将校らが、満洲の地に彼らの理想とする国を建てた」といった、日本陸軍の“独り相撲”へと論点が変わっていく。
そして不可解なことに、日本の現代史に大きな転換をもたらした重要な“告白”であったにも関わらず、花谷の「手記」を学術的に慎重に検証するという作業が行われたという痕跡が、どうも見当たらないのだ。そればかりか、昭和の歴史を塗り替えた重要な証拠物であるはずなのに、記事を掲載した雑誌そのものが世の中から忽然と姿を消し、国会図書館にすら所蔵されていないのである。
それでも世の中には奇特な方がいらっしゃるもので、ご自宅の蔵に眠っていた古い雑誌を発見し、インターネット上に全文を公開してくれている。ここに感謝の意を表すとともに、重要な部分を借用していくつか抜粋させてもらう。
「我々は最初鉄道爆破を九月二十八日に行う予定であった。爆音を合図に、奉天駐屯兵舎(歩兵第二十九連隊)内に据え付けた二十八糎要塞砲が北大営の支那軍兵舎を砲撃する。同時に在奉天部隊が夜襲をかけてこれを占領するというのである」
「そして高梁が刈取られた後が作戦に好適である(高梁が繁茂していると、匪賊がかくれても発見しがたい)という見地から九月二十八日が選定されたのであった」
「手記」においても高梁畑の存在が意識されていた点に注意を促したい。(そして関東軍による極秘の謀であるはずなのに、なぜかそこに「匪賊がかくれ」る可能性を示唆しているのも不自然ではないか)。その後、突如事情が変わって計画は繰り上げられる。
「九月十五日、かねてから連絡打ち合わせをしていた橋本(欣五郎)中佐から『計画が露顕して建川が派遣されることになったから迷惑をかけないように出来るだけ早くやれ。建川が着いても使命を聞かない内に間に合わせよ』という電報が特務機関に舞い込んできた」
事変当夜の下りは、次のように記述されている。
「島本大隊川島中隊の河本末守中尉は、鉄道線路巡察の任務で部下数名を連れて柳条溝へ向かった。北大営の兵営を横に見ながら約八百メートルばかり南下した地点を選んで河本は自らレールに騎兵用の小型爆薬を装置して点火した。時刻は十時過ぎ、傲然たる爆発音と共に、切断されたレールと枕木が飛散した」
「爆破と同時に携帯電話機で報告が大隊本部と特務機関に届く。地点より四キロ北方の文官屯に在った川島中隊長は直ちに兵を率いて南下北大営に突撃を開始した。
今田大尉は直接現場付近にあって爆破作業を監督した元々剣道の達人、突撃に当たって自ら日本刀を振りかざして兵営に切り込んだ」
「特務機関では、何も知らずに宴会から帰って熟睡していた島本大隊長が急報であわててかけつけて来た所へ板垣が軍司令官代理で命令を下す。第二十九連隊と島本大隊は直ちに、兵を集合させて戦闘へ参加する。
北大営ではシナ側は何も知らないで眠っている者が多かった上、武器庫の鍵をもった将校が外出していて武器がなくて右往左往している内に日本軍が突入してくる。かねてから内通していたシナ兵も出て来るという調子。そこへ二十八サンチ重砲が轟音と共に砲撃を始めたので大部分のシナ兵は敗走し、夜明迄には、奉天全市は我が手に帰し……」
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