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第二章
第二章第十六節(事変の真相3)
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十六
独立守備第二大隊長島本正一大佐の報告によれば、事件は線路爆破に端を発して彼我に小規模な撃ち合いが生じ、それが中隊規模の銃撃戦へと発展して、退却する敵軍を追いかける成り行きのかたちで日本軍は北大営へとなだれ込んだ。
だが花谷の「手記」に基づけば線路爆破は「北大営占領」の“口実”に過ぎず、「爆破の合図とともに第三中隊が北大営へ突撃」したのだから、高梁畑に潜む敵との間に展開された銃撃戦なるものはそもそも存在しなかった訳である。島本大隊長が記録に残した「爆破地点の北方三、四百メートル付近の煉瓦焼き場、高梁畑の中から盛んに射撃を受けた」話はウソで、急報を受けて現場へ駆けつけた川島正中隊長率いる第三中隊が直面した、「兵営(北大営)西南側の高梁畑の中から急射撃を受け、鉄道線路を挟んで射撃を交差するに至った」などの出来ごとも、うたかたの夢に過ぎなかったことになる。
さらに「第三中隊が到着し射撃を開始すると、高梁畑内の敵の大部分は漸次兵営内に逃げ込みだした」という部分も作り話で、奉天から北大営に馳せつけた島本大隊長や援軍の第一、第四中隊が「途中、前述の高梁畑中から盛んに射撃を受けた」という話も、「奉天駅との間に『モーターカー』を往復させたが、常にこの高梁畑から射撃を受けている」という記述も、すべて幻だったのだろう。
「手記」は分遣隊の河本中尉や第三中隊の川島隊長を「謀略の共犯」と指名しているから、彼らを含めた少数の者らの間に“口裏合わせ”があったと仮定するのは“良し”としよう。
だが一個中隊百六十五名から共犯者若干名を除外しても、なお百五十名余りが何も知らずに鉄道線路を挟んで銃撃戦を展開したはずではなかったのか。しかも、これまた謀略のことなど「何も知らずに宴会から帰って熟睡していた」はずの島本大隊長を含め、第二大隊主力が被った高梁畑からの射撃までをなかったことにするのは、いかな何でも無理がある。その場合、いったい誰が敵になりすまして高梁畑から射撃を繰り返したというのだろうか?
もし「花谷手記」なるものが真実だったとするならば、一連の戦闘に携わった独立守備第二大隊五百名近くの将兵全員(北大営の戦闘のさなかにやってきた撫順の第二中隊を除く)が、事変の夜から雑誌が花谷の「手記」を掲載するまで二十五年の長きに亘って、「なかったはず」のことを「あった」と言い張り続けたことになる。
それはいくら何でも現実的ではなかろう……。
筆者は何もことさらこうした“言葉遊び”をすることによって、すでに迷宮入りした線路爆破の真相を掘り起こそうなどと言う気はさらさらない。そうではなく、「手記」のインパクトがあまりに強かったせいで、いつの間にやら事変から張学良や旧奉天政府、旧奉天軍の姿がどこかへ消えて無くなってしまったと言いたいのだ。そして事変があたかも関東軍による“独りよがり”の“独り相撲”の話になってしまった点に注意を促したいのである。
戦争や紛争は決して独りでできるものではない。あくまで相手あってのたま物なのに……。
歴史を学ぶことの意義は、将来起こるかもしれない“望ましくない出来ごと”に備える「ケーススタディー」として、過去の出来ごとを様々な方面から眺め直してみることにある。もしその貴重な“経験”を目の前の何かの都合によって歪めてしまえば、貴重な事実は将来への教訓たり得なくなってしまう。それでは歴史に何も学ぶことはできないだろう。
独立守備第二大隊長島本正一大佐の報告によれば、事件は線路爆破に端を発して彼我に小規模な撃ち合いが生じ、それが中隊規模の銃撃戦へと発展して、退却する敵軍を追いかける成り行きのかたちで日本軍は北大営へとなだれ込んだ。
だが花谷の「手記」に基づけば線路爆破は「北大営占領」の“口実”に過ぎず、「爆破の合図とともに第三中隊が北大営へ突撃」したのだから、高梁畑に潜む敵との間に展開された銃撃戦なるものはそもそも存在しなかった訳である。島本大隊長が記録に残した「爆破地点の北方三、四百メートル付近の煉瓦焼き場、高梁畑の中から盛んに射撃を受けた」話はウソで、急報を受けて現場へ駆けつけた川島正中隊長率いる第三中隊が直面した、「兵営(北大営)西南側の高梁畑の中から急射撃を受け、鉄道線路を挟んで射撃を交差するに至った」などの出来ごとも、うたかたの夢に過ぎなかったことになる。
さらに「第三中隊が到着し射撃を開始すると、高梁畑内の敵の大部分は漸次兵営内に逃げ込みだした」という部分も作り話で、奉天から北大営に馳せつけた島本大隊長や援軍の第一、第四中隊が「途中、前述の高梁畑中から盛んに射撃を受けた」という話も、「奉天駅との間に『モーターカー』を往復させたが、常にこの高梁畑から射撃を受けている」という記述も、すべて幻だったのだろう。
「手記」は分遣隊の河本中尉や第三中隊の川島隊長を「謀略の共犯」と指名しているから、彼らを含めた少数の者らの間に“口裏合わせ”があったと仮定するのは“良し”としよう。
だが一個中隊百六十五名から共犯者若干名を除外しても、なお百五十名余りが何も知らずに鉄道線路を挟んで銃撃戦を展開したはずではなかったのか。しかも、これまた謀略のことなど「何も知らずに宴会から帰って熟睡していた」はずの島本大隊長を含め、第二大隊主力が被った高梁畑からの射撃までをなかったことにするのは、いかな何でも無理がある。その場合、いったい誰が敵になりすまして高梁畑から射撃を繰り返したというのだろうか?
もし「花谷手記」なるものが真実だったとするならば、一連の戦闘に携わった独立守備第二大隊五百名近くの将兵全員(北大営の戦闘のさなかにやってきた撫順の第二中隊を除く)が、事変の夜から雑誌が花谷の「手記」を掲載するまで二十五年の長きに亘って、「なかったはず」のことを「あった」と言い張り続けたことになる。
それはいくら何でも現実的ではなかろう……。
筆者は何もことさらこうした“言葉遊び”をすることによって、すでに迷宮入りした線路爆破の真相を掘り起こそうなどと言う気はさらさらない。そうではなく、「手記」のインパクトがあまりに強かったせいで、いつの間にやら事変から張学良や旧奉天政府、旧奉天軍の姿がどこかへ消えて無くなってしまったと言いたいのだ。そして事変があたかも関東軍による“独りよがり”の“独り相撲”の話になってしまった点に注意を促したいのである。
戦争や紛争は決して独りでできるものではない。あくまで相手あってのたま物なのに……。
歴史を学ぶことの意義は、将来起こるかもしれない“望ましくない出来ごと”に備える「ケーススタディー」として、過去の出来ごとを様々な方面から眺め直してみることにある。もしその貴重な“経験”を目の前の何かの都合によって歪めてしまえば、貴重な事実は将来への教訓たり得なくなってしまう。それでは歴史に何も学ぶことはできないだろう。
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