67 / 466
第五章(乱石山)
第五章第一節(電信課1)
しおりを挟む
第五章
一
洸三郎が奉天へやって来て、早ひと月が経とうとしている。
満洲の治安は依然として定まらず、なかでも朝鮮人集落を狙った匪賊の襲撃事件は引きを切らなかった。関東軍は吉林出兵を最後に、大規模な軍事行動へはひと区切りを付けた――。とは言うものの、今なお各地に出没する匪賊討伐のために東奔西走している。
事態はまったく収まっていないのだが、匪賊討伐は比較的地味だったから事変報道には一服感が見られた。そこで大毎本社は、奉天支局へ送った援軍を三々五々帰国させることにした。気づいてみれば、続々と内地から駆け付けた応援部隊のなかで残ったのは、洸三郎ただ一人となった。
「満洲事変を現場で取材できる」――。そんな期待に胸を膨らませて奉天へとやって来た彼だったが、赴任初日に公会堂で日本人大会を取材したのを最後に、外へ出る機会はとんとなくなった。あれ以来、支局の電信課に籠って同僚の記者や連絡員たちが持ち込んでくる原稿を頼信紙※へ転記する作業に明け暮れる日々を送っている。
※頼信紙=電報を打つときに電文を書く所定の用紙。
♪後から来たのに追い越され……。
自分より後から来た記者たちが今日はどこ、明日はどこと、現場を飛び回っては記事を上げてくる。それを横目に彼のところへは一向にお鉢は回ってこなかった。そんな同僚たちも、一人、また一人と帰って行った。
小学生の頃、彼はこんな作文を書いたことがある。
「僕は今大臣になろうとも、大将になろうとも思っていません。ただ中学生になりたいと思っています。中学から高等学校へ、そして大学へと、段々に人の望みは進んでいくものでしょう。僕は一歩一歩と進んでいくつもりです。一足飛びに大臣や大将になろうと思っても駄目でしょう。だから今は小さな望みしか持っていません」
立身出世こそが人生最大の目的とされていた時代である。同級生はいずれも“末は博士か大臣か”とばかりに野心的な夢物語を綴ったが、洸三郎だけはまるで“一隅を照らす”といった心境を書いて大人たちを苦笑いさせた。
では、と言って今の境遇にある彼が「立派な電信員になる」とでも言ったかというと、さすがにそれはない。彼は先ず一人前の記者になりたかったのだから……。
そんな洸三郎を電信課へ籠らせたのは、「“三代目”の身にもしものことがあっては」と案じる三村の“親心”であった。当人にとって甚だ迷惑な話だが、大人の事情というやつが邪魔をして、洸三郎はまだ「小さな望み」をすらつかみ損ねていた。
「ひょうたんよぉ、そろそろ現場へ出してくれるよう支局長に言ってみてくれんかのぉ」
原稿を持ち込んできた旧知の田中香苗を相手に、洸三郎は愚痴をこぼした。
ある程度の我慢は覚悟していたものの、こう来る日も来る日も原稿用紙の上で“のたくる”文字と、頼信紙の睨めっこでは気が滅入る。まさか布施部長もそのつもりで自分を奉天へ送り出した訳ではあるまい。現場へ出られないもどかしさは日に日に募り、逸る気持ちだけが先走っていった。
「俺の口からそんなこと言える訳ないやろ。そう腐らんと、これ、頼むで」
そう言って洸三郎の手に原稿を押し込むと、振り向きざまにこう付け加えた。
「あとでメシでも食いに行こうや」
そしてそのまま、いそいそと下の階へ戻っていった。
田中にしても洸三郎の気持ちは痛いほど分かる。逆の立場だったらと思えばなおさらだ。だが田中自身も支局の中ではまだ新参者の部類である。とてもポンと胸を叩いて請け合える立場にはなかった。
一
洸三郎が奉天へやって来て、早ひと月が経とうとしている。
満洲の治安は依然として定まらず、なかでも朝鮮人集落を狙った匪賊の襲撃事件は引きを切らなかった。関東軍は吉林出兵を最後に、大規模な軍事行動へはひと区切りを付けた――。とは言うものの、今なお各地に出没する匪賊討伐のために東奔西走している。
事態はまったく収まっていないのだが、匪賊討伐は比較的地味だったから事変報道には一服感が見られた。そこで大毎本社は、奉天支局へ送った援軍を三々五々帰国させることにした。気づいてみれば、続々と内地から駆け付けた応援部隊のなかで残ったのは、洸三郎ただ一人となった。
「満洲事変を現場で取材できる」――。そんな期待に胸を膨らませて奉天へとやって来た彼だったが、赴任初日に公会堂で日本人大会を取材したのを最後に、外へ出る機会はとんとなくなった。あれ以来、支局の電信課に籠って同僚の記者や連絡員たちが持ち込んでくる原稿を頼信紙※へ転記する作業に明け暮れる日々を送っている。
※頼信紙=電報を打つときに電文を書く所定の用紙。
♪後から来たのに追い越され……。
自分より後から来た記者たちが今日はどこ、明日はどこと、現場を飛び回っては記事を上げてくる。それを横目に彼のところへは一向にお鉢は回ってこなかった。そんな同僚たちも、一人、また一人と帰って行った。
小学生の頃、彼はこんな作文を書いたことがある。
「僕は今大臣になろうとも、大将になろうとも思っていません。ただ中学生になりたいと思っています。中学から高等学校へ、そして大学へと、段々に人の望みは進んでいくものでしょう。僕は一歩一歩と進んでいくつもりです。一足飛びに大臣や大将になろうと思っても駄目でしょう。だから今は小さな望みしか持っていません」
立身出世こそが人生最大の目的とされていた時代である。同級生はいずれも“末は博士か大臣か”とばかりに野心的な夢物語を綴ったが、洸三郎だけはまるで“一隅を照らす”といった心境を書いて大人たちを苦笑いさせた。
では、と言って今の境遇にある彼が「立派な電信員になる」とでも言ったかというと、さすがにそれはない。彼は先ず一人前の記者になりたかったのだから……。
そんな洸三郎を電信課へ籠らせたのは、「“三代目”の身にもしものことがあっては」と案じる三村の“親心”であった。当人にとって甚だ迷惑な話だが、大人の事情というやつが邪魔をして、洸三郎はまだ「小さな望み」をすらつかみ損ねていた。
「ひょうたんよぉ、そろそろ現場へ出してくれるよう支局長に言ってみてくれんかのぉ」
原稿を持ち込んできた旧知の田中香苗を相手に、洸三郎は愚痴をこぼした。
ある程度の我慢は覚悟していたものの、こう来る日も来る日も原稿用紙の上で“のたくる”文字と、頼信紙の睨めっこでは気が滅入る。まさか布施部長もそのつもりで自分を奉天へ送り出した訳ではあるまい。現場へ出られないもどかしさは日に日に募り、逸る気持ちだけが先走っていった。
「俺の口からそんなこと言える訳ないやろ。そう腐らんと、これ、頼むで」
そう言って洸三郎の手に原稿を押し込むと、振り向きざまにこう付け加えた。
「あとでメシでも食いに行こうや」
そしてそのまま、いそいそと下の階へ戻っていった。
田中にしても洸三郎の気持ちは痛いほど分かる。逆の立場だったらと思えばなおさらだ。だが田中自身も支局の中ではまだ新参者の部類である。とてもポンと胸を叩いて請け合える立場にはなかった。
0
お気に入りに追加
7
あなたにおすすめの小説
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
鈍牛
綿涙粉緒
歴史・時代
浅草一体を取り仕切る目明かし大親分、藤五郎。
町内の民草はもちろん、十手持ちの役人ですら道を開けて頭をさげようかという男だ。
そんな男の二つ名は、鈍牛。
これは、鈍く光る角をたたえた、眼光鋭き牛の物語である。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
局中法度
夢酔藤山
歴史・時代
局中法度は絶対の掟。
士道に叛く行ないの者が負う責め。
鉄の掟も、バレなきゃいいだろうという甘い考えを持つ者には意味を為さない。
新選組は甘えを決して見逃さぬというのに……。
大日本帝国、アラスカを購入して無双する
雨宮 徹
歴史・時代
1853年、ロシア帝国はクリミア戦争で敗戦し、財政難に悩んでいた。友好国アメリカにアラスカ購入を打診するも、失敗に終わる。1867年、すでに大日本帝国へと生まれ変わっていた日本がアラスカを購入すると金鉱や油田が発見されて……。
大日本帝国VS全世界、ここに開幕!
※架空の日本史・世界史です。
※分かりやすくするように、領土や登場人物など世界情勢を大きく変えています。
※ツッコミどころ満載ですが、ご勘弁を。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる