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第二章

第二章第十一節(九月二十二日案)

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                 十一

 夜半になっても参謀本部は翌日の閣議へ向けた準備に追われていた。朝鮮軍の独断越境に与党民政党は激昂げっこうしている。閣議で統帥権干犯とうすいけんかんぱん難詰なんきつを受けるのは、避けられそうもない。もしそうなった場合……。
 今村課長は、「もしそうなったなら、南陸相、金谷参謀総長ともに職を辞し、軍の意志を示すべし」と強硬な方策を起案する。陸相の辞任は閣内不一致による内閣の瓦解がかいを意味する。政府が陸軍の意思を無視するならば、倒閣も一向に辞さないという訳だ。
 自分の指揮下にあるはずの出先部隊が命令にふくさず勝手な行動を取り、自らの去就きょしゅうを部下が差配さはいする……。金谷総長は失意の底にあった。その夜遅く補佐課長の河辺中佐を自宅へ呼び、辞表の準備をする。堀場の言葉を借りれば、その様子は「悲壮なる当時の空気を記憶するを要す」ほどであったという。

 陸軍中央は袋小路ふくろこうじに入った感があったが、奉天の関東軍もまた、行き詰っていた。
 石原参謀の緻密ちみつな計画により、兵力二十倍以上の敵をわずか一日で制圧せいあつするという、世界の軍事史上にるいを見ない大奇襲きしゅう作戦を成功させたものの、政府の事変不拡大方針により作戦は頓挫とんざした。東京からは吉林へ出動した第二師団を長春へ帰還させるよう催促さいそくである。
 若い参謀などは「これでは三年前の張作霖爆殺事件の二の舞にのまいではないか」と、嘆息たんそくらした。もとはと言えば、奉天の林久治郎はやしきゅうじろう総領事が発した「事変の背後に関東軍の策動さくどうあり」という電報が政府の不拡大方針を招いた。同じ外務省でもハルビンの大橋忠一おおはしちゅういち領事からは、現地の情勢悪化にともなう居留民現地保護を理由に度々派兵を求めてくる。それでも中央は北進を認めない。まして若槻首相は天皇を前に、「ハルビンおよび間島については状況が危急を告げても、居留民の現地保護は行わない」と政府方針を言上ごんじょうする。
 作戦の抜本的な見直しが余儀なくされた。

 二十二日に開かれた関東軍の軍議は、石原中佐が持論としてきた全満洲の軍事占領という構想を放棄し、今後の方針を政略せいりゃくへ転ずるものとなった。ここにおいて、その後の対満洲政策を決定づける『満蒙問題解決』が決議される。
 その基本方針は次の文言に表されれている。

 「我国の支持を受け東北四省および蒙古もうこ(内モンゴル)を領域とする、宣統帝せんとうてい頭首とうしゅとした支那政権を樹立し在満蒙各種民族の楽土らくどとする」

 つまり、武力を用いず民政を通じて実質的に全満洲を管理下に置くということである。これなら十九日の夕方に南陸相から受け取った訓電の内容とも齟齬そごはない。政府は「内政干渉は絶対にいかん」と言うが、実質的に政略は軍中央においても容認された方針であった。
 そのためには、奉天、吉林、黒竜江、熱河の「東北四省」および内モンゴルにそれぞれ独立政権を樹立し、清朝皇帝を擁立ようりつしてこれらを統治する。そして、国防および外交、交通通信などについては、新政権から委託されるかたちで日本が行うというのが計画の概要である。
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