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第二章

第二章第六節(出先の暴走)

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                 六

 差し当っての難題をひとまずはやり過ごしたところへ、午後五時四十分、関東軍から重要な電報が届く。
 『関参第三七六号』である。
 同電は、関東軍が全満洲を軍事占領する決意を陸相、総長宛に送ってきたものと伝えられ、文中には内地から三個師団の派兵を求める文言も記されていたという。今日、その現物が保存されていないのは誠に残念至極であるが、関東軍参謀の片倉衷かたくらただし大尉が残した『満州事変機密政略日誌』は、続く『関参第三七八号』電において作戦の細部を説明したと記している。注目すべきはその文中にある、作戦続行にかかる予算の手当てに触れた部分であろう。出先の軍隊がいくら独断専行しようが、軍資金がなければ戦争は継続できない。関東軍はこの電報を通じて、「将来(関東)軍が満洲全域の治安維持に従事する場合には、その経費は自給自足でまかなう」と中央へ啖呵たんかを切ってみせたのだった。
 これと同時刻、朝鮮軍の林司令官からも「間島かんとう方面の情勢がいよいよ不穏となり、第十九師団を同方面へ向かわせる準備を始めた」との電報が入る。間島地方は朝鮮半島の付け根に位置し、鴨緑江おうりょくこうの西、満洲側の東端とうたんに広がる。地理的、歴史的経緯から約三十万人の朝鮮族が暮らしていて、昔から華人とのめごとが絶えなかった。
 また、この地方では早くから共産主義者たちが活発に活動を繰り広げ、日本の朝鮮統治に対する反抗運動の根拠地となってきた。昭和五年五月には共産系朝鮮人らによる武装蜂起が起こり、約七千名が検挙され、七百名余りを起訴、うち二十二名が死刑判決を受ける事件も起こっている。彼らは「不逞鮮人ふていせんじん」と呼ばれ、日華双方の治安当局から厳しい取り締まりの対象となった。

 清朝末期から満洲への移住をはじめた朝鮮人は、満洲全土で約百万人を数えた。『対華二十一箇条要求』の交渉では、袁世凱えんせいがい側が日本人による土地所有を認めず、日本側も土地取得の代わりに「土地租借権そしゃくけん」を取得するという線で妥協した。ところが歴史的経緯から土地を所有できた朝鮮人は、「日韓併合」で日本国籍を得ており治外法権も持っていたから、「これは朝鮮人に対する特権だ」となって華人地主や地方官憲らの不興ふきょうを買った。根深い民族的差別意識や、「日本の勢力伸長の手先」という悪感情も手伝って、在満朝鮮人は真っ先に華人による迫害の標的となった。
 日本側が在満朝鮮人の安全や生活の保障を確保すべく奔走したのは、単に人道的な理由に基づいたばかりではない。日本政府が彼らに十分な保護と安心感を与えられなければ、朝鮮半島の統治に支障をきたすという事情があった。前年に発生した「間島武装蜂起かんとうぶそうほうき」にも見られたように、日本への帰属意識が薄れればそこへ共産勢力が入り込む余地が生まれる。東アジアにおける共産勢力への“防波堤ぼうはてい”を任じる日本政府は、こうした動きに敏感に対処しようとした。
 
 前日の林司令官の独断行動に苦い思いをしつつ参内を終えたばかりの金谷総長にとって、この時の朝鮮軍はまさに“鬼門きもん”であった。林司令官からの出動命令の要請を、「国外出動は別命あるまで断じて行うべからず」と厳しい口調で退しりぞけた。
 だが朝鮮軍も簡単には引き下がらなかった。午後十時三十分、三たび電報を送ってくる。

 「将来のため、いま部隊が国境に待機させられている理由を問いたい」

 今日一日、今村課長は現地出先軍の最良の理解者として奮闘してきた一人である。しかし、この電報にはいささか気を悪くした。第一、軍紀をあまりに軽視しすぎている。中央作戦課の命令、指示に対しその理由を問うてくるなど、陸軍はじまって以来のことだ。本来、このようなものは破り捨てても構わないのだが、軍の中には勇躍前進ゆうやくぜんしんしなければならない局面で尻ごみする司令官や兵もいる。その点で今回の関東軍や朝鮮軍の意気込みと行動力は高く評価しなければならないだろう。
(それはそうなのだが……)。
 組織人としての手順をまったく無視した振る舞いを、そのまま放置する訳にはいかない。参謀本部内にも次第に愛想を尽かす者や距離を置く者、なかには憤慨する者すら出てきた。
(この際、一度理を尽くして出先軍憲のはやる気持ちを緩和させるのも、現下の情勢にあっては必要かもしれない)。
 そう思い立って自ら文案の作成に取りかかった。
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