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第二章
第二章第三節(不信)
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三
首相官邸では、予定を早めて午前十時から臨時閣議が開かれた。
閣議に入る前、首相の若槻礼次郎が南次郎陸相へ「関東軍の今回の行動は本当に自衛のためと信じてよろしいな」と念を押した。陸相は「もとより然り」ときっぱり返した。
陸相は、参謀本部が今朝決議した満洲への増兵案を抱えて閣議に臨んだが、幣原外相は端から軍への対決姿勢をむき出しにしてきた。このあとのやり取りは、すでに見た通りである。
この年の七月から八月にかけて、揚子江中流域にある漢口で史上空前規模の水害が発生した。八月下旬には、北京の華字紙が「漢口の水害で我が国が疲弊しているのに乗じて、関東軍は近々満州へ攻め込む計画だ」という憶測記事を書いて話題となった。華北方面ではこの頃からすでに、「遠からず日華両軍の衝突が起こり得る」との観測が広がっていた。外務省も早くから噂に神経を尖らせ、情報収集に努めるとともに軍への猜疑心を膨らませていた。
参謀本部の建川美次第一部長が密命を帯びて奉天へ向かったのも、九月十五日に外務省アジア局の谷正之局長から陸軍省へ、「関東軍少壮の士の間に満州で東北軍をやっつける計画があるとの噂があるが、事実か」と問い合わせてきたのが発端となった。参謀本部側でも「出先軍憲が中央と連携せず、積極的な策動を図ろうとしている」との感触を得ており、不測の事態への予防線を張ろうとしていた。そこで、「上司(この場合は『天皇』の意)の大命を奉じて隠忍自重するよう」説得する目的で建川を送ったのである。
事変の興奮冷めやらぬ九月二十三日には、在郷軍人会理事の赤井春海中将が今村課長を訪ねてきて、「今回の事件は建川第一部長が秘密裏に渡満して、旅長王以哲を買収して事を起こしたものとの風説がある。本当か」と尋ねた。人の噂は千里を走る。関東軍作戦参謀の石原莞爾中佐は年の初めに『満蒙問題解決案』を練り上げ、親しい者の間で勉強会を重ねた。その過程で“極秘計画”は様々な人間の目に触れ、漏れ伝わって、尾ひれはひれの付いた憶測が広がった。なかには酒に酔って大言壮語を放つ輩もいて、噂が噂を呼ぶようになった。
当然、噂は奉天総領事の耳へと届き、谷局長や赤井中将の懸念するところとなった。
結局、閣議は「事変を現状より拡大させない」方針を決定し、陸相は温めてきた増兵案を口にすらできないまま引っ込めざるを得なかった。閣議後、安達謙蔵内相は陸相を別室へ招き寄せ、「海外の者が目下の情況を見かねて大事を決行したことは“諒”とすべきだが、今後は兵力の引き揚げが肝要だぞ」と釘を刺した。
政府が「事変不拡大方針」を表明した以上、陸軍中央の作戦計画はいったんご破算となった。それでも省部の次長、次官級で話しあった結果、今回の事件を契機に陸軍として積年の満蒙問題を解決する方針を再確認した。意味するところは、「条約に認められた既得権益の完全な確保を実現する」ということだ。
だが言葉の上では勇ましいが、イザ実際となるとやはりそこは組織人である。上司の顔や国際輿論がちらついて、一方では「問題を解決する」と言いながら、他方で「全満洲を軍事占領するものではない」と言うなど、軍部中央は玉虫色の態度をとりはじめる。これ以降、東京と奉天の間に温度差が生まれ、次第に“軋轢”へと発展していく。
首相官邸では、予定を早めて午前十時から臨時閣議が開かれた。
閣議に入る前、首相の若槻礼次郎が南次郎陸相へ「関東軍の今回の行動は本当に自衛のためと信じてよろしいな」と念を押した。陸相は「もとより然り」ときっぱり返した。
陸相は、参謀本部が今朝決議した満洲への増兵案を抱えて閣議に臨んだが、幣原外相は端から軍への対決姿勢をむき出しにしてきた。このあとのやり取りは、すでに見た通りである。
この年の七月から八月にかけて、揚子江中流域にある漢口で史上空前規模の水害が発生した。八月下旬には、北京の華字紙が「漢口の水害で我が国が疲弊しているのに乗じて、関東軍は近々満州へ攻め込む計画だ」という憶測記事を書いて話題となった。華北方面ではこの頃からすでに、「遠からず日華両軍の衝突が起こり得る」との観測が広がっていた。外務省も早くから噂に神経を尖らせ、情報収集に努めるとともに軍への猜疑心を膨らませていた。
参謀本部の建川美次第一部長が密命を帯びて奉天へ向かったのも、九月十五日に外務省アジア局の谷正之局長から陸軍省へ、「関東軍少壮の士の間に満州で東北軍をやっつける計画があるとの噂があるが、事実か」と問い合わせてきたのが発端となった。参謀本部側でも「出先軍憲が中央と連携せず、積極的な策動を図ろうとしている」との感触を得ており、不測の事態への予防線を張ろうとしていた。そこで、「上司(この場合は『天皇』の意)の大命を奉じて隠忍自重するよう」説得する目的で建川を送ったのである。
事変の興奮冷めやらぬ九月二十三日には、在郷軍人会理事の赤井春海中将が今村課長を訪ねてきて、「今回の事件は建川第一部長が秘密裏に渡満して、旅長王以哲を買収して事を起こしたものとの風説がある。本当か」と尋ねた。人の噂は千里を走る。関東軍作戦参謀の石原莞爾中佐は年の初めに『満蒙問題解決案』を練り上げ、親しい者の間で勉強会を重ねた。その過程で“極秘計画”は様々な人間の目に触れ、漏れ伝わって、尾ひれはひれの付いた憶測が広がった。なかには酒に酔って大言壮語を放つ輩もいて、噂が噂を呼ぶようになった。
当然、噂は奉天総領事の耳へと届き、谷局長や赤井中将の懸念するところとなった。
結局、閣議は「事変を現状より拡大させない」方針を決定し、陸相は温めてきた増兵案を口にすらできないまま引っ込めざるを得なかった。閣議後、安達謙蔵内相は陸相を別室へ招き寄せ、「海外の者が目下の情況を見かねて大事を決行したことは“諒”とすべきだが、今後は兵力の引き揚げが肝要だぞ」と釘を刺した。
政府が「事変不拡大方針」を表明した以上、陸軍中央の作戦計画はいったんご破算となった。それでも省部の次長、次官級で話しあった結果、今回の事件を契機に陸軍として積年の満蒙問題を解決する方針を再確認した。意味するところは、「条約に認められた既得権益の完全な確保を実現する」ということだ。
だが言葉の上では勇ましいが、イザ実際となるとやはりそこは組織人である。上司の顔や国際輿論がちらついて、一方では「問題を解決する」と言いながら、他方で「全満洲を軍事占領するものではない」と言うなど、軍部中央は玉虫色の態度をとりはじめる。これ以降、東京と奉天の間に温度差が生まれ、次第に“軋轢”へと発展していく。
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