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第一章第六節(青服の男)

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                 六

 車窓に見入っていた洸三郎の傍らを、青い大掛児にソフト帽をかぶった男が通り過ぎた。男は通りしなに洸三郎の隣の座席へ何かを放り投げた。バサリと落ちたのは四つ折りにした新聞だった。国民党の機関紙として知られる『民国日報』である。満州のこんな外れまで配達されるのかと感心したが、日付は前日のものだった。
 洸三郎はそれを拾い上げ、広げた。真っ先に飛び込んできたのは、題号より大きな活字で「国際公法に違反し、東亜の平和を破壊す」、「日本軍、昨夜瀋陽(奉天)を強占」、「自ら満鉄線路をこぼち、我が軍の所為せいなりと誣言ふげんす」、「我軍無準備、無抵抗、瀋陽全城遂に陥落す」と六段抜きで書かれた大見出しだった。
 日本軍は自ら満鉄線路を破壊しながら、それを「『民国側の仕業しわざだ』と言いふらしている」という。事変の一報を聞いた洸三郎の頭をかすめたのもこのことだった。関東軍には張作霖爆殺の前科がある。果たして今回も自作自演なのか? 
 張作霖の当時はまだ学生だったから真相など知る由もなく、敢えて探求しようという意欲もわかなかった。だが、今回は新聞記者として現場へ乗り込もうというのだ。何だか自分が天から“歴史の証人”という使命を授かったような気がしてきた。
 急ぎ青い大掛児の後ろ姿を目で追ったが、すでに隣の車輛を移ってしまっていた。洸三郎を日本人と見るや、当てつけに記事を読ませようとしたに違いない。これも何かの縁なのであろう。

 その新聞には、事変の知らせを受けた張学良から南京政府へ宛てた電報のことを報じた北京発の記事が載っていた。

 「ただ今、瀋陽より、藏(式毅)主席、榮参謀長の電に接せり。その電に言う。『日本兵、昨(十八日)夜十時よ り、突如我が北大営に攻撃を開始せり。我軍は飽く迄無抵抗主義を採り、豪も之に応ずるの挙に出でず。(中略) 我々は日本領事に対し、再三厳重なる談判をしたが、軍隊の行動は外交官直接之を制止する能わずというのであ  る。実に甚だしき欺瞞である。更に言う。吾軍(支那)の満鉄線路破壊に起因すとは甚だしき捏造なり。(中略) 日本側の宣伝、我軍満鉄線路襲撃爆発せるに因り、日本軍進撃を開始せりとの事は、事実上我に於ては絶対に覚え なし。即ち日本軍我が北大営を侵せる時も亦、豪末も抵抗せしことなし。国民政府に電告す。 張学良』」

 敵が無抵抗主義であったなら、南嶺における戦闘で戦死者五十二人を出したという報道と辻褄が合わなくなる。華人の宣伝上手は今に始まったことではない。天平の時代から明治の開国まで、日本人が隣接する大陸へ抱いたイメージは、論語や漢詩、水墨画に描かれる悠久の歴史と文化に表象された奥深い精神を有する人々というものであった。だが開国とともに庶民レベルの交流が始まり、生身の人間どうしが接してみると、どうも調子が狂った。自分が実際に接する相手からは、そうした奥深さなど微塵も感じられなかったのである。ただやかましく、不潔な人々であった。(大変失礼な言い方になったが、明治の日本人に華人蔑視の口調が現れたのは、明治五年ごろ横浜ではやった都々逸どどいつが最初のことで、内容は衛生観念の違いにあったという)。
 先ずはその認識の落差が失望を呼び、失望は時を経ずしてさげすみへと転じた。この事実は否めないが、この部分だけを切り取って拡大するのも公平ではない。相手方から言わせれば、「日本人が勝手な妄想を抱き、勝手に失望しておきながら、人を蔑むなど言語道断である」となるだろう。確かにその通り。だがその部分を十分に割り引いたとしても、やはり事ごとに何かとわめきたて、自己の主張を押し通そうとする異民族は、日本人の目から見てひたすらに“やっかい”な人々に映った。
 洸三郎の祖父も父も、また洸三郎自身も、彼らを愛しうやまい、付き合うとともに、彼らに手を焼き、泣かされた。ましてこれは国民党の機関紙ではないか。到底字義通りに受け取る訳にはいかない。
それなのに、洸三郎の胸中には何か割り切れないものがくすぶった。
「まあエエがな」
 そうつぶやいたら、また眠気が襲ってきた。

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