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第一章第三節(リンゴ園)

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                 三

 翌朝一番の関釜かんぷ汽船に駆け込んだ。
 小脇に抱えた新聞を広げる。状況は時々刻々と変化していた。政府は臨時閣議を開き「事変を拡大させない方針」に決定したという記事が載っていた。奉天、吉林、黒龍江省を合わせた「東三省とうさんしょう軍」の武装解除があっさり進んだこともあって、乗船客たちは「この分では釜山プサンに着く頃には片が付いてしまっているかもしれない」と言っていた。
 その一方で、長春からさらに北へ約二百七十キロ行ったハルビンの治安が悪化して、長春=ハルビン間の通信が不通になっていると伝えられた。また、林銑十郎司令官率いる朝鮮駐留軍は、すでに独立飛行隊第二中隊の偵察機六機と戦闘機六機を奉天へ出動させ、陸上部隊も関東軍支援に向かっているとあった。もっとも部隊は政府の「事件不拡大方針」を受けて、国境の手前で足止めを食らっているという。
「オッ、ひょうたんやないか」
 パラパラ新聞をめくっていた洸三郎は手を止めて、思わず声を上げた。「戦いの最前線へ、本社記者の一番乗り」という大見出しに交じって、以前東亜部の同僚だった田中香苗の写真が載っていた。当時の新聞は、目玉記事に担当記者の顔写真を載せることが多かった。記事は田中が北大営戦跡せんせきを探訪したルポルタージュである。
これによると、記者が現場へ到着したのは「時にわが軍占領後わずかに四十分」のこと。「天に沖する黒煙、北大営の火薬庫が爆破するものすごい響き……」。その中を兵士が鈴なりになったトラックがもうもうと土ぼこりを上げて走り去っていく。現場の臨場感を「これでもか!」と盛り込んでいた。
 また、北大営占領の立役者である海城砲兵聯隊の河村聯隊長に、「君らが付属地から初めての人だ」と言われたという記者の自慢話も挿入してあった。一分一秒を争う報道の世界では、誰が一番に現場入りしたかでしのぎを削る。そしてその競り合いを堂々と紙面に誇示した。「ウチが一番に情報を届けます!」というスピード競争である。その結果、同じ現場に「一番乗り」が複数現れるという珍現象が起こることもしばしばであった。
 読者が記事の内容に関心を寄せるとするならば、洸三郎は「一番乗り」という文言に先ず目をせた。そこに付された「奉天 田中特派員」の署名が「渡邉特派員」となる日を夢見た。

 対馬海峡を渡って釜山で手に入れた新聞は一日遅れで役に立たなかった。
 ここから京釜本線で一路京城(ソウル)へと向かう。
 列車が動き出してしばらくすると、右側の車窓に朝陽を浴びた翠緑すいりょくが広がった。大邱だいていのリンゴ園である。せた土地を開墾し、ここまでにしたという苦労話を以前どこかで読んだことがある。整然と並んだ木々から、丹精込めて育ててきた農園主の思いがしのばれた。朝鮮のリンゴは内地のものに比べやや小ぶりで甘酸っぱい。果実はまだ小さく青いようで、車窓からは確認できなかった。農園主はきっと、その枝に赤い実がたわわに実る日を心待ちにしていることだろう。
 リンゴ園を過ぎると水田風景が延々と続いた。秋空は清く晴れ渡り、すがすがしかった。朝が早かったこともあって、洸三郎は大きなあくびを一つした。そしていつしか眠りに落ちていた。
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