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第四章政略
第四章第十二節(ワシントン)
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十二
錦州爆撃の余波は、大陸を巡る利害関係とは直接関係のないアメリカにも及んだ。
「『不戦条約』や『九カ国条約』の提唱者として、何らかの措置に出るべきだ」
そういう声が一層かまびすしくなり、この国の輿論はもはや単なる“傍観者”ではなくなった。その成り行きを憂慮した出渕勝次大使が国務省にキャッスル次官補を訪ねると、面会場に現れたのはスチムソン長官であった。
「アメリカの政界には、日本に対して極めて厳しい意見があるのをご承知かと思います」
表情を強張らせた長官は、感情を押し殺した声で呟くように言った。
「自分はこれまで、日本政府の声明を信頼してきました。どんなに同僚から酷評を受けようとも、事態はいつかきっと良くなると信じてきました……」
出渕は針の筵に座った気持ちでスチムソン長官の苦言を浴びていた。一体何がどうなってこのような事態になったのか--、出渕自身にも詳細が分からないから反論する術もなかった。
「ところが事態は一向に改善しないどころか、本庄司令官は政府方針と相いれない『軍は張学良を徹底的に排斥する』などの声明を出し、実際に日本軍機は奉天から何百キロも離れた錦州を爆撃して無辜の市民を巻き添えにした。これでは日本政府の声明が果たして前線の軍隊に伝わっているのかどうかすら疑わざるを得ません」
自分が長官の立場だったなら、同じ苦言を呈することだろう。何よりこのことは、国務省内におけるキャッスル次官補の立場を悪くして、対日強硬派のスタンリー・ホーンベック極東部長の発言権が高まることを意味する。それはまずい。本当にまずい。出渕は言葉の接ぎ穂を探したが、適当な言葉を見つけられないまま、黙って続きに聞き入るしかなかった。
「昨日、政府部内において慎重に協議を重ね、先ずは幣原外相の真意を確かめることにしました。そして、東京のネビル代理大使に日本政府の意思を確かめるよう命じたのです」
事変の一報を耳にするや、休暇の予定を即時取りやめ任地へとどまった出渕とは対照的に、同じく休暇入り直前に事態を知ったキャメロン・フォーブス駐日大使は、仕事よりもプライベートを優先して予定通り休暇に入ってしまった。このため駐日米国大使はしばらく不在の状態にあったのだ。
「果たして日本政府は本庄司令官の声明を是認するのか、錦州爆撃を是認するのか――の二点について、外相のご意向を確かめたところです。今朝その回答を受け取った訳ですが、我々はその内容に痛く失望させられた次第です」
そう言って長官は肩をすくめた。出渕にはまったく寝耳に水である。外相は何も知らせてくれなかった。いったいどんな回答をしたのか――、掛け値なしに気になった。
「幣原男爵は張学良氏を国民政府代表としてお認めにならず、善後処置の協議は別の人物との間で行いたいとのご意向です。爆撃に関しても、あくまで出先軍隊の取った行動であり、大したことはないとのご評価でした。つまり、大まかに男爵は出先軍隊の行動を是認していると認められます。錦州爆撃のような行為にも、格別の関心をもっておいでではないご様子に見受けられました」
本庄司令官の声明は、軍部による外交への口出しに他ならない。政府部内でも評判が悪いが、出渕個人としても忸怩たる思いがあった。それだけに外相が錦州爆撃を是認するなどとは、どうしても合点がいかなかった。
「本庄司令官の声明はもちろん言語道断ですが、錦州爆撃のごときを幣原外相が是認するとは到底考えられません」
確証はないものの、直感的にネビルの報告なるものは受け入れ難かった。
「そもそも国務大臣たる幣原男爵が軽々しく自己の明確な意思表示を示すなど、その立場に照らして考え難い」
出渕はネビルの側に何らかの誤解があったに違いないと邪推して、「代理大使からの一片の電報をもって日本政府が既定方針を変更したように誤解されては困る」と反論した。そして自分からあらためて幣原外相へ確かめ、長官へ報告すると申し出た。そもそもは自国大使の不手際に端を発することでもあるから、長官の側も一歩譲って「それではよろしくお願いします」と答えた。
「ところで……」
帰りしな、出渕が思い出したように切り出した。
「新聞報道によりますと、貴政府は近く本件に関して何らかの措置を講じられるとのことですが……」
「……」
スチムソンは差し当たり何の処置も考えていないが、国論が硬化していけばあるいはそうならざるを得なくなるやも知れないと、含みを持たせた。
錦州爆撃の余波は、大陸を巡る利害関係とは直接関係のないアメリカにも及んだ。
「『不戦条約』や『九カ国条約』の提唱者として、何らかの措置に出るべきだ」
そういう声が一層かまびすしくなり、この国の輿論はもはや単なる“傍観者”ではなくなった。その成り行きを憂慮した出渕勝次大使が国務省にキャッスル次官補を訪ねると、面会場に現れたのはスチムソン長官であった。
「アメリカの政界には、日本に対して極めて厳しい意見があるのをご承知かと思います」
表情を強張らせた長官は、感情を押し殺した声で呟くように言った。
「自分はこれまで、日本政府の声明を信頼してきました。どんなに同僚から酷評を受けようとも、事態はいつかきっと良くなると信じてきました……」
出渕は針の筵に座った気持ちでスチムソン長官の苦言を浴びていた。一体何がどうなってこのような事態になったのか--、出渕自身にも詳細が分からないから反論する術もなかった。
「ところが事態は一向に改善しないどころか、本庄司令官は政府方針と相いれない『軍は張学良を徹底的に排斥する』などの声明を出し、実際に日本軍機は奉天から何百キロも離れた錦州を爆撃して無辜の市民を巻き添えにした。これでは日本政府の声明が果たして前線の軍隊に伝わっているのかどうかすら疑わざるを得ません」
自分が長官の立場だったなら、同じ苦言を呈することだろう。何よりこのことは、国務省内におけるキャッスル次官補の立場を悪くして、対日強硬派のスタンリー・ホーンベック極東部長の発言権が高まることを意味する。それはまずい。本当にまずい。出渕は言葉の接ぎ穂を探したが、適当な言葉を見つけられないまま、黙って続きに聞き入るしかなかった。
「昨日、政府部内において慎重に協議を重ね、先ずは幣原外相の真意を確かめることにしました。そして、東京のネビル代理大使に日本政府の意思を確かめるよう命じたのです」
事変の一報を耳にするや、休暇の予定を即時取りやめ任地へとどまった出渕とは対照的に、同じく休暇入り直前に事態を知ったキャメロン・フォーブス駐日大使は、仕事よりもプライベートを優先して予定通り休暇に入ってしまった。このため駐日米国大使はしばらく不在の状態にあったのだ。
「果たして日本政府は本庄司令官の声明を是認するのか、錦州爆撃を是認するのか――の二点について、外相のご意向を確かめたところです。今朝その回答を受け取った訳ですが、我々はその内容に痛く失望させられた次第です」
そう言って長官は肩をすくめた。出渕にはまったく寝耳に水である。外相は何も知らせてくれなかった。いったいどんな回答をしたのか――、掛け値なしに気になった。
「幣原男爵は張学良氏を国民政府代表としてお認めにならず、善後処置の協議は別の人物との間で行いたいとのご意向です。爆撃に関しても、あくまで出先軍隊の取った行動であり、大したことはないとのご評価でした。つまり、大まかに男爵は出先軍隊の行動を是認していると認められます。錦州爆撃のような行為にも、格別の関心をもっておいでではないご様子に見受けられました」
本庄司令官の声明は、軍部による外交への口出しに他ならない。政府部内でも評判が悪いが、出渕個人としても忸怩たる思いがあった。それだけに外相が錦州爆撃を是認するなどとは、どうしても合点がいかなかった。
「本庄司令官の声明はもちろん言語道断ですが、錦州爆撃のごときを幣原外相が是認するとは到底考えられません」
確証はないものの、直感的にネビルの報告なるものは受け入れ難かった。
「そもそも国務大臣たる幣原男爵が軽々しく自己の明確な意思表示を示すなど、その立場に照らして考え難い」
出渕はネビルの側に何らかの誤解があったに違いないと邪推して、「代理大使からの一片の電報をもって日本政府が既定方針を変更したように誤解されては困る」と反論した。そして自分からあらためて幣原外相へ確かめ、長官へ報告すると申し出た。そもそもは自国大使の不手際に端を発することでもあるから、長官の側も一歩譲って「それではよろしくお願いします」と答えた。
「ところで……」
帰りしな、出渕が思い出したように切り出した。
「新聞報道によりますと、貴政府は近く本件に関して何らかの措置を講じられるとのことですが……」
「……」
スチムソンは差し当たり何の処置も考えていないが、国論が硬化していけばあるいはそうならざるを得なくなるやも知れないと、含みを持たせた。
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