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第四章政略

第四章第七節(満蒙独立)

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                 七
 
 同じ日の午後、同じく奉天の瀋陽館しんようかんの一室に三宅参謀長以下土肥原、板垣、竹下、石原、片倉の面々が集まって軍議を開いた。

 九月二十二日に策定した『満蒙問題解決』を実行に移すための諸策を練るためである。石原参謀が起案したこの日の計画の表題は『満蒙問題解決』で、「十月二日案」とも呼ばれる。三月頃に板垣が中心となって起草した『満蒙問題解決』と同じタイトルだが、前回の「九月二十二日案」にうたった「現地政府を樹立する」という表現を洗いえ、「満洲を独立させる」との文言を遠慮会釈えんりょえしゃくなく盛り込んだことで知られる。以後、関東軍はその実行へとまい進する。

 「満蒙を独立国とし、これを我が保護下に置き、在満蒙各民族の平等なる発展を期す」

 そのための手はずとして、先ずは鄭家屯ていかとんを占領し張学良ちょうがくりょう軍の侵入を遮断しゃだんするとともに、ソ連邦が干渉してくるようならば「断固だんこたる処置にずる」と、対ソ戦もさない構えを誇示した。
 このとき石原は、「一兵たりとも国境沿いの満洲里またはポクラニチナヤへ侵入するなら、チチハル、ハルビンへ主力を送り込んでこれをたたく」とまで豪語する。

 「十月二日案」のもう一つの特徴は、これまで掲げてきた『既得権益擁護きとくけんえきようご』のスローガンが権益主義的で「五族協和ごぞくきょうわ」の理念に反するとして、これを『新満蒙の建設』へ置き換えたところにある。もし政府がこの方針を受け入れない場合は、「在満軍人有志ゆうしは一時日本国籍を離脱しても、目的の達成にまい進する」とりきんで見せたのも、見逃せない。まるで幕末の脱藩士だっぱんし気取りである。
 
 だが……。
 そんなこんなであらん限りの虚勢きょせいを張ってはみたものの、関東軍の懐具合ふところぐあいはお寒いばかりだった。九月十九日付の『関参第三七八号』では、「将来(関東)軍が満洲全域の治安維持に従事する場合には、その経費は自給自足でまかなう」などとハッタリをかましてみたものの、具体的な“あて”があった訳でもない。
 何より肝心かんじんの満鉄が軍に非協力的である……。

 前途は決して明るくなかったが、捨てる神あれば拾う神あり--。
 そんな中でも軍への協力者はいて、青年聯盟幹部の山口重次やまぐちしげじやシンパの佐藤應次郎さとうおうじろう鉄道部次長らが奔走して村上義一むらいぎいち理事鉄道部長を口説き落とし、「瀋海しんかい鉄道(奉天=海龍かいりゅう間の約二五〇キロ区間)」の復興を託されることになった。旧軍閥系の幹部は逃亡してしまい、鉄道の運行が宙に浮いて従業員らが路頭に迷っていたからである。
 山口によれば、同線の復興は奉天駅助役田中整たなかせいの発案によるもので、鉄道の実質的な株主である沿線商・農務会と従業員の「自主運営」としたことにより、従業員のモチベーションが目覚ましいばかりに高まったという。計画案は満鉄重役会にかけられ、満鉄からの支援も得られる手筈てはずになっていたのだが……、『片倉日誌』は十月二日の項にこう記している。

 「本日満鉄鉄道部次長佐藤應次郎さとうおうじろう氏、山口(十助)営業課長の来奉らいほう談にれば、先般村上理事が計画せる満洲鉄道および敷設案は重役会議にも提出し得ざる悲況ひきょうよしなり、軍は最早もはや満鉄をたよりにすることあたわざるため、瀋海線復興問題をも独力処理することとせり」

 関東軍と青年聯盟の二人三脚は山口重次の自著『満洲事変と青年聯盟』に描かれ、自主運営となった瀋海しんかい鉄道は「従業員が全員集まって昼夜兼行で復興作業を始めた」という。山口の話はやや“大風呂敷おおぶろしき”の感をぬぐえないが、大幅に割り引いても計画は満鉄側の協力を得ないまま前へ進んだようだ。
 瀋海鉄道の復興第一列車は、確かに十月十四日奉天を出発した。

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