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第四章政略

第四章第三節(猜疑心)

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                 三

 一方の東京はというと、二十一日の閣議で「この機に満蒙問題の一併解決いっぺいかいけつす」と決めたにもかかわらず、政府は何ら具体策を示そうとはしなかった。そればかりかすでに軍事行動を停止した関東軍を槍玉やりだまに挙げ、なお不信感をあらわにする。

「奉天で関東軍が銀行を差し押さえたという。しかも差し押さえた銀行の資金を軍費ぐんぴに流用しようとしているとの噂もある。そんなことをしたら、とんでもないことになるぞ。こうしたことはげんに禁ずるよう、陸相からもとくと言ってもらいたい」
 二十五日の閣議に際して、井上準之助いのうえじゅんのすけ蔵相が南次郎みなみじろう陸相へ苦言を呈した。
「はぁ、それは初耳ですなぁ。とにかく、よく調べてみましょう」
 陸相にとっては寝耳に水のことでよくわからない。とりあえず話を預かり、陸軍省へ戻って小磯国昭こいそくにあき軍務局長へ聞いてみた。

「現地の治安が回復するまで、場合によっては銀行などの差し押さえもやむを得ないのではないでしょうか」
 軍隊ひと筋で来た南陸相は、「銀行」と聞いただけでおよび腰になってしまったが、ちょっと考えてみればそれもそうだ。大蔵大臣ともあろう者が、どうしてそんなことに気が付かないのだろうか。陸相は自分のことを棚に上げて、蔵相の不可解な苦言に首をかしげた。

 中華民国には中央銀行がない。中央銀行が発行する統一通貨もない。各地方の経済は各々おのおのほぼ独立していて、おおむね奥地の農村地帯では銅、都市部では銀を媒介にしつつ経済がいとなまれていた。通貨は鋳造された貨幣かへいのかたちをとるものもあれば、金属のかたまり欠片かけらをそのまま使うこともある。これとは別に、地元の銀行などが発行する紙幣(=銀行券)も流通していた。
 なかでも奉天政府の統治下で流通した紙幣を「奉天票ほうてんひょう」と呼ぶが、張学良ちょうがくりょう政権の悪政がたたってこの奉天票は事変前から信用力がいちじるしくとぼしかった。とくにここ数年は、通貨価値が暴落を続けて庶民の暮らしを苦しめていた。

 噂の真相は、事変の勃発によって奉天票がさらに暴落し、銀行が取り付け騒ぎを起こすのを防ごうと、軍が一時的に奉天城内の銀行に休業を命じたというものだった。また、奉天市臨時市長となった土肥原賢二どいはらけんじ大佐は、市政運営上必要な資金を銀行からの融資でまかなった。これらの事実にが付いて噂が広まった。噂自体はともかくとして、いやしくも政府の要人がいったい何をもって「差し押さえ」だの「流用」だのと難癖をつけてくるのか--。
 陸相から電報を受け取った関東軍幕僚は、「中央の誤解がはなはだだしい」と憤慨した。

 政府部内のこうした猜疑さいぎの目もあって、南陸相は二十六日の夕方、関東軍宛てに「満州の新政権樹立に干与かんよするをげんに禁ず」とする電報を発信する。
 民国への内政干渉は「九カ国条約違反」に当たる。もし発覚すれば大変な問題となるのは火を見るより明らかだ。あらかじめフタをしておくに越したことはない。
 当然と言えば当然なのだが、陸相の電報を受け取った奉天の幕僚たちは、「はて?」と首をかしげた。
 
 新政権樹立の計画は、すでに作戦第一部長の建川たてかわ少将を通じて参謀本部へ伝えられ、了解を得ているはずではないか。わずか数時間前にも二宮参謀次長から、「錦州きんしゅう政府を武力の行使によらず覆滅ふくめつする企図きとがあるか?」との照会も受けている。
 奉天側では軍中央部のコンセンサスは得られているものと認識してきた。『片倉日誌』はこのあたりを、「陸軍中央部の意向那辺なへんそんするや。(政府)声明文中『建設的方策』とは何を意味するや、諒解りょうかいに苦しむ」と記している。
 
 政府や軍中央部の口ぶりはどうも関東軍に批判的である。これでは世間の誤解を招き、将来の対策を誤るではないか。何より軍の士気に影響してしまう。このままにはしておけない……。
 そもそもことの始まりは、奉天総領事が幣原外相へ宛てた電報にある。過日の撫順ぶじゅん守備隊の件といい、満鉄木村理事のげ口といい、林久治郎はやしきゅうじろう総領事は日頃から軍にうらみでもあるかのような情報を流し続けている。少し必要がありそうだ。 
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