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第二章
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幼い姿でも最高クラス、成体となればパルミールでも有数の魔法使いとして名を馳せることは間違いないとされる彼に、専属で身を守ってもらっているリオは余程の幸せ者だ。しみじみとそう思っていると、失礼いたします、と。屋敷の使用人と思しき青年が、リオに笑顔で話しかけてきた。
「馬車のご用意ができたそうです。ご案内させていただきますね」
「え? ……あ、ありがとうございます」
てっきり普段のように、お待たせいたしました、と。エルドラが帰ってくるものとばかり思っていたリオは瞬いたが、青年が示した窓の外には、乗り慣れた屋敷の馬車が付けている。納得はしたが、さあこちらへ、と。エスコートの手を差し伸べる彼に、ふと――違和感を覚えて。立ち止まったリオを見つめ、彼が首を傾げた。
「どうかなさいましたか?」
「あ、いえ……何でもありません」
「では、どうぞこちらへ」
何やら言い知れぬ不安が過るが、どうしようもない。公爵家の使用人を無下にもできないリオは、促されるままに馬車へと導かれた。
エルドラの姿が見えないことにも、不安が募る。中でお待ちですよと微笑む青年に曖昧な笑顔を返し、ひとまず確認してから、と。身を乗り出したリオの側面に、悲鳴のような呼び掛けが刺さる。
「――リオ様!」
「えっ? エルドラ……っ、わっ!」
どん、と。背を押されて、馬車の中に押し入れられた。先客のいない、無人の座席に倒れ込んだリオが慌てて振り向いた先で、ばたん! と。乱暴な音を立てて扉が閉められる。
呆気にとられるだけの間もなくガタガタと揺れ始める車体の中、どうにか立ち上がったリオが後部の小窓に顔を寄せれば。遠目にも怒りに燃えるエルドラと、その傍らで、先ほどまで自分の手を取っていた使用人が黒い霧となって夜の闇に溶ける様が見えた。
その霧の確保を諦めたらしいエルドラが、本物の馬車に飛び乗る様も見えたが、目視できたのはそこまでだった。
「エルドラ……っ!」
あっという間に屋敷の門扉を潜り、馬車は無人の郊外へと駆けて行く。パルミールの馬車は、一角を持つ不思議な獣が引いているのが一般的だが、この馬車からは蹄の音が聞こえて来なかった。だというのに、明らかに異常と解る速度で駆けて行くこの馬車を御しているのが誰なのか――考えたリオは、ぞっと身を竦ませる。
今さっき目にしたばかりの、どこか不吉な黒い霧が、御者席にも漂っているような気がして。リオは後部の小窓に寄る辺なく縋りついたまま、暴れる心臓をきゅっと抑えつけた。
(どうしよう)
馬車の行く先は、見当もつかない。だが、このまま連れて行かれてしまったら、二度と戻れない予感がある。今更ながらに恐怖を感じたリオは、必死になって思考した。何か、方法は。
無人の馬車の持ち主は、杳として知れない。それでも、リオを欺くためなのだろう、アスタリス邸の馬車をよく模した造りをしていた。腰を痛めないようにと、座席に贅沢に重ねられたクッションを目にしたリオは、これしかないと覚悟を決めて手に取った。
震える手を伸ばして、揺れる馬車の扉を開ければ、たちまち冷えた夜気が流れ込む。せめて閉じ込められていなかったことに安堵の息をついたリオは、かなりの速度で背後へ流れて行く外の景色に一瞬だけ逡巡して。――一番大きなクッションを抱きかかえて、夜闇の中に身を投げた。
どさりと地面に落ちた衝撃で、身体が跳ねる。クッションを下敷きに、出来得る限り衝撃は減らしたが。全身を覆うには足りない丈からはみ出した手足を痛みが襲う。
(いたたたた!)
肌が擦り切れるその痛みに、息を止めながらぎゅっと目を瞑る。不埒な御者にでも気付かれれば一巻の終わりだったが、人さらいの馬車は、リオの行動に気付かなかったようだ。ガラガラと車輪の音だけを立てるその馬車は遠ざかり、夜闇の中に静寂が落ちる。
このクッションも、魔法の一部であったのだろうか。役目を果たしてくれた後は、空気に溶け入るように消えてしまった。地べたに直に倒れ伏した状態で、完全に馬車の気配が消えたことを確認したリオは、痛みを訴える箇所を押さえながらそっと起き上がった。
「――う、」
ぶるりと、身震いする。――寒い。生身の身体に、冷たい風が吹き付けるのは当然だ。魔法使いの衣服は、やはり特別製なのだろう。擦り切れたり穴が空いたりすることはなかったが、服の下で、傷を負ったらしい肌がじくじくと痛んだ。
寒々しい夜の気配は、煌びやかな喧騒に疲弊していた目に優しい。だが、開けた草原に一人取り残された現状を把握した頭には、焦燥感からかさっと熱が集まった。どうしよう。
(ここから、家までは……)
徒歩では不可能だ。それだけが、はっきりと解った。
パルミールの移動は、人間の国と同じく馬車が主流だ。馬が引くか、一角の獣が引くかの違いはあれども。そして、明確な違いとしては、移動のための大規模な魔方陣がある。
不正利用や行方不明の対策に、正式に国に登録された馬車でなければ作動しないその魔方陣を潜って、リオは遠く離れた各地の夜会に参加をしている。――つまり、馬車がなければ帰れない。
(エルドラ)
きっと、血相を変えてリオを探しているのだろう侍従を思えば、胸が痛んだ。早く帰って、安心させてあげなくてはいけない。ここでじっとしていれば見つけてもらえるかも知れないが、元いた公爵邸がどの方角にあるのかも解らなくなる、支離滅裂な走行経路だった。リオを探すにしても、手掛かりがなければ難しいだろう。
徒歩も待機も現実的でないのなら、どこかで馬車を捕まえなくてはならない。辺境伯領まで行ってくれる辻馬車があるかは解らないが、それは馬車を見つけてからお願いしてみるしかなかった。
「どこか、道は……」
足を踏み出せば、ずきりと痛む。幸い骨などに異常はなさそうだが、ただ単純に擦り切れた傷と打撲が痛む。それでも痛みに怯んでいる暇もなく草原を見渡せば、幸いにして複数の道が見つかった。
往来の多さを窺わせる、最も太く整った道を選んで歩き出す。運よく繁華街にでも辿り着けば、辻馬車の一台や二台は見つかるだろう。自宅までが無理だと言うなら、公爵邸まで行ってもらえれば、エルドラに連絡を取れるはずだ。
(繁華街、か)
『――いつもは、街で……』
そう微笑んだ、眩く美しい、炎のような瞳を思い出す。
詳しい場所を教えてもらったわけでもなければ、彼を探しに行くわけでもない。都合よく会えるなんて、そんなことを期待してはいないのだけれど――彼がいるかも知れないと思うだけで、何故だか不安は遠ざかった。
一度言葉を交わしただけの彼に、思いがけない心強さを貰っていることを不思議に思いながら。動ける内に、と。リオはその道を踏みしめて歩み出した。
「馬車のご用意ができたそうです。ご案内させていただきますね」
「え? ……あ、ありがとうございます」
てっきり普段のように、お待たせいたしました、と。エルドラが帰ってくるものとばかり思っていたリオは瞬いたが、青年が示した窓の外には、乗り慣れた屋敷の馬車が付けている。納得はしたが、さあこちらへ、と。エスコートの手を差し伸べる彼に、ふと――違和感を覚えて。立ち止まったリオを見つめ、彼が首を傾げた。
「どうかなさいましたか?」
「あ、いえ……何でもありません」
「では、どうぞこちらへ」
何やら言い知れぬ不安が過るが、どうしようもない。公爵家の使用人を無下にもできないリオは、促されるままに馬車へと導かれた。
エルドラの姿が見えないことにも、不安が募る。中でお待ちですよと微笑む青年に曖昧な笑顔を返し、ひとまず確認してから、と。身を乗り出したリオの側面に、悲鳴のような呼び掛けが刺さる。
「――リオ様!」
「えっ? エルドラ……っ、わっ!」
どん、と。背を押されて、馬車の中に押し入れられた。先客のいない、無人の座席に倒れ込んだリオが慌てて振り向いた先で、ばたん! と。乱暴な音を立てて扉が閉められる。
呆気にとられるだけの間もなくガタガタと揺れ始める車体の中、どうにか立ち上がったリオが後部の小窓に顔を寄せれば。遠目にも怒りに燃えるエルドラと、その傍らで、先ほどまで自分の手を取っていた使用人が黒い霧となって夜の闇に溶ける様が見えた。
その霧の確保を諦めたらしいエルドラが、本物の馬車に飛び乗る様も見えたが、目視できたのはそこまでだった。
「エルドラ……っ!」
あっという間に屋敷の門扉を潜り、馬車は無人の郊外へと駆けて行く。パルミールの馬車は、一角を持つ不思議な獣が引いているのが一般的だが、この馬車からは蹄の音が聞こえて来なかった。だというのに、明らかに異常と解る速度で駆けて行くこの馬車を御しているのが誰なのか――考えたリオは、ぞっと身を竦ませる。
今さっき目にしたばかりの、どこか不吉な黒い霧が、御者席にも漂っているような気がして。リオは後部の小窓に寄る辺なく縋りついたまま、暴れる心臓をきゅっと抑えつけた。
(どうしよう)
馬車の行く先は、見当もつかない。だが、このまま連れて行かれてしまったら、二度と戻れない予感がある。今更ながらに恐怖を感じたリオは、必死になって思考した。何か、方法は。
無人の馬車の持ち主は、杳として知れない。それでも、リオを欺くためなのだろう、アスタリス邸の馬車をよく模した造りをしていた。腰を痛めないようにと、座席に贅沢に重ねられたクッションを目にしたリオは、これしかないと覚悟を決めて手に取った。
震える手を伸ばして、揺れる馬車の扉を開ければ、たちまち冷えた夜気が流れ込む。せめて閉じ込められていなかったことに安堵の息をついたリオは、かなりの速度で背後へ流れて行く外の景色に一瞬だけ逡巡して。――一番大きなクッションを抱きかかえて、夜闇の中に身を投げた。
どさりと地面に落ちた衝撃で、身体が跳ねる。クッションを下敷きに、出来得る限り衝撃は減らしたが。全身を覆うには足りない丈からはみ出した手足を痛みが襲う。
(いたたたた!)
肌が擦り切れるその痛みに、息を止めながらぎゅっと目を瞑る。不埒な御者にでも気付かれれば一巻の終わりだったが、人さらいの馬車は、リオの行動に気付かなかったようだ。ガラガラと車輪の音だけを立てるその馬車は遠ざかり、夜闇の中に静寂が落ちる。
このクッションも、魔法の一部であったのだろうか。役目を果たしてくれた後は、空気に溶け入るように消えてしまった。地べたに直に倒れ伏した状態で、完全に馬車の気配が消えたことを確認したリオは、痛みを訴える箇所を押さえながらそっと起き上がった。
「――う、」
ぶるりと、身震いする。――寒い。生身の身体に、冷たい風が吹き付けるのは当然だ。魔法使いの衣服は、やはり特別製なのだろう。擦り切れたり穴が空いたりすることはなかったが、服の下で、傷を負ったらしい肌がじくじくと痛んだ。
寒々しい夜の気配は、煌びやかな喧騒に疲弊していた目に優しい。だが、開けた草原に一人取り残された現状を把握した頭には、焦燥感からかさっと熱が集まった。どうしよう。
(ここから、家までは……)
徒歩では不可能だ。それだけが、はっきりと解った。
パルミールの移動は、人間の国と同じく馬車が主流だ。馬が引くか、一角の獣が引くかの違いはあれども。そして、明確な違いとしては、移動のための大規模な魔方陣がある。
不正利用や行方不明の対策に、正式に国に登録された馬車でなければ作動しないその魔方陣を潜って、リオは遠く離れた各地の夜会に参加をしている。――つまり、馬車がなければ帰れない。
(エルドラ)
きっと、血相を変えてリオを探しているのだろう侍従を思えば、胸が痛んだ。早く帰って、安心させてあげなくてはいけない。ここでじっとしていれば見つけてもらえるかも知れないが、元いた公爵邸がどの方角にあるのかも解らなくなる、支離滅裂な走行経路だった。リオを探すにしても、手掛かりがなければ難しいだろう。
徒歩も待機も現実的でないのなら、どこかで馬車を捕まえなくてはならない。辺境伯領まで行ってくれる辻馬車があるかは解らないが、それは馬車を見つけてからお願いしてみるしかなかった。
「どこか、道は……」
足を踏み出せば、ずきりと痛む。幸い骨などに異常はなさそうだが、ただ単純に擦り切れた傷と打撲が痛む。それでも痛みに怯んでいる暇もなく草原を見渡せば、幸いにして複数の道が見つかった。
往来の多さを窺わせる、最も太く整った道を選んで歩き出す。運よく繁華街にでも辿り着けば、辻馬車の一台や二台は見つかるだろう。自宅までが無理だと言うなら、公爵邸まで行ってもらえれば、エルドラに連絡を取れるはずだ。
(繁華街、か)
『――いつもは、街で……』
そう微笑んだ、眩く美しい、炎のような瞳を思い出す。
詳しい場所を教えてもらったわけでもなければ、彼を探しに行くわけでもない。都合よく会えるなんて、そんなことを期待してはいないのだけれど――彼がいるかも知れないと思うだけで、何故だか不安は遠ざかった。
一度言葉を交わしただけの彼に、思いがけない心強さを貰っていることを不思議に思いながら。動ける内に、と。リオはその道を踏みしめて歩み出した。
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