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終章
終章
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去り行く母親を引き留められずに見送った老女は、ため息をついて教会の扉を閉ざした。
長く一人にしてしまった子供の元へ小走りに戻れば、小さな椅子の上で所在なく身を丸くした子供は眠ってしまっているようだった。その眦に滲んだ涙の跡を見てしまえば、老いた胸に悲しみの炎が灯る。
ため息をついてその子を抱き上げれば、ふと、薄闇の中に声がした。
『マリー』
かつて、共に過ごした人々に先立たれてからは、久しく呼ばれることのなかった己の名。
自分を、まだそんな風に呼ぶ者のいることに驚いて振り向いたマリーは、その目に映った美しい姿の青年に虚を突かれて、優しい緑の瞳を瞬いた。
『お久し振りです、お美しいリトルマザー』
『あなたは……』
『貴方が助命を嘆願してくださった、ヴァルフォーレの末弟です』
その節はお世話になりました、と。育ちの良い貴族の子弟そのものの礼を捧げられて、マリーは何と答えたものか解らなくなってしまう。咄嗟に周囲を見回せば、折よく近場に同輩たちの気配はなく、騒ぎになる心配は遠そうだと判断して軽く息をついた。
ヴァルフォーレは、今はマリーだけが胸に抱える悪魔の名前だ。――愛を知る悪魔は、マリーが命を助けた後は、人の味方となって戦ってくれたのだった。
両世界の害悪であった魔王が滅び、世界が美しく二分された今になって、悪魔の姿を目にするとは思っていなかったマリーは戸惑う。何事かと問い掛ければ、青年は無防備なほどに優しくにこりと微笑んだ。
『その子を私にくれませんか?』
私の運命の相手なんです、と。美しい瞳に小さな子供を映して、愛しそうにそんなことを口にする悪魔の姿に、マリーが面食らう。
『愛して、大切にして、可愛がって。絶対に悲しい思いはさせませんから』
ね? と。笑う瞳は優しく眩く、愛に満ちて柔らかい。
つい先ほどまで、相対していた母親の瞳に、その愛の欠片なりとも映っていたならば。断ることができたかもしれない悪魔の言葉に心が揺らいでしまったマリーは、眠っているのに緊張して強張っている小さな体を、老いた腕できゅうと抱きしめた。
『人に愛されなかったことは、この子の魂に傷を残すことでしょう。……私がこの子を愛しますから、あなたはもう少し、待っていてください』
『あなたがそう仰るなら。……でも、少しだけ。その子に触っていいですか?』
あまりに素直に引き下がられて、惑ったマリーは少しだけ考え込み、どうぞ、と。小さく頷いた。
嬉しそうに微笑んだ青年が、マリーの前に膝をつく。子供の涙を丁寧に拭い、痩せた頬に指を這わせて。身を屈めるようにしながら、優しく耳に囁いた。
『可愛い、愛しい、私の運命。……私の愛は、あなたのためだけに』
ちゅ、と。可愛らしく唇を触れ合わせると、子供の眉間から険しさが抜け落ちた。強張って丸くなっていた体から力が抜けて、柔らかく無防備に緩む様を、腕の中に確かに感じる。
すうすうと、安らかな寝息を立て始めた幼子を、不思議に穏やかな気持ちで見つめて。マリーは小さく微笑んだ。
『この子を愛してくださってありがとう。……あなた方のような悪魔となら、私はお友達になれたような気がするの』
『今からでもなれますよ、マリー』
悪魔はみんな、あなたのことが大好きですよ、と。
美しいばかりの笑顔で、悪魔の貴公子にそんなことを言われた聖女は、おかしくなって笑ってしまった。
ジュゼは銀の手鏡を前に、深呼吸をして緊張を緩めた。
このところ、毎日勉強していた魔法を思い切って実践してみれば、鏡の中に夜空が映る。
――夜空に輝く星の中から、一番綺麗な星を選ぶ。
彼が囁いた通りに、一番、美しいと。そう思った星に、躊躇いながら手を伸ばした。
大丈夫、大丈夫、と。否応なしに緊張して震える指を叱咤して、触れた星に優しく魔力を注ぎ込む。黒く染まっていた鏡に銀色の輝きが戻り、ぼんやりと。優しい白い光の中に、美しい赤い瞳が煌めいた。
(……あ、)
鏡の中の瞳が、ふと、ジュゼの姿を捉えた気がして。ドキリとしたジュゼが鏡を取り落とした弾みで、未熟な術は解けてしまった。
慌てて拾い上げて覗き込んでも、銀色に輝く手鏡が映してくれるのは、当然のようにジュゼの姿だけで。
けれど確かに、一瞬でも。見間違えるはずのない美しい姿を、映してくれた。
「……レーヴェ」
優しい、愛しい、美しい悪魔。彼だけが、ジュゼを見つけてくれた。
運命の相手の名を囁いて、涙に濡れてしまった頬を鏡にすり寄せる。嬉しくて、ほっとして、幸せだった。
彼がジュゼの運命であったことが、こんなにも嬉しい。
愛しい気配が、部屋に近付いてくるのを察して、喜びに潤んでいた瞳に焦りが浮かぶ。
彼の姿を覗き見たことがバレてしまったから、何をしていたのか問い詰められてしまうかもしれない。正直に答えるにはあまりにも恥ずかしい気がして、ジュゼはおろおろと身の回りを見渡した。
隠れる場所に心当たりもないまま、部屋の扉がかちゃりと音を立てて。慌てたジュゼは、小さな子供のように布団を被って隠れてしまう。当然ながら、そんなお粗末な隠れ方では気休めにもならず、くすくすと笑う声と足音は真っ直ぐに寝台に近付いてきた。
「ジュゼ」
笑い声と共に布団を引き剥がされて、赤くなった顔ごと、胸に抱き込んだ鏡も見つかってしまう。
誰が映りましたか? と。戯れるように尋ねられて、答えに窮した唇に、暖かい唇が優しく触れた。
長く一人にしてしまった子供の元へ小走りに戻れば、小さな椅子の上で所在なく身を丸くした子供は眠ってしまっているようだった。その眦に滲んだ涙の跡を見てしまえば、老いた胸に悲しみの炎が灯る。
ため息をついてその子を抱き上げれば、ふと、薄闇の中に声がした。
『マリー』
かつて、共に過ごした人々に先立たれてからは、久しく呼ばれることのなかった己の名。
自分を、まだそんな風に呼ぶ者のいることに驚いて振り向いたマリーは、その目に映った美しい姿の青年に虚を突かれて、優しい緑の瞳を瞬いた。
『お久し振りです、お美しいリトルマザー』
『あなたは……』
『貴方が助命を嘆願してくださった、ヴァルフォーレの末弟です』
その節はお世話になりました、と。育ちの良い貴族の子弟そのものの礼を捧げられて、マリーは何と答えたものか解らなくなってしまう。咄嗟に周囲を見回せば、折よく近場に同輩たちの気配はなく、騒ぎになる心配は遠そうだと判断して軽く息をついた。
ヴァルフォーレは、今はマリーだけが胸に抱える悪魔の名前だ。――愛を知る悪魔は、マリーが命を助けた後は、人の味方となって戦ってくれたのだった。
両世界の害悪であった魔王が滅び、世界が美しく二分された今になって、悪魔の姿を目にするとは思っていなかったマリーは戸惑う。何事かと問い掛ければ、青年は無防備なほどに優しくにこりと微笑んだ。
『その子を私にくれませんか?』
私の運命の相手なんです、と。美しい瞳に小さな子供を映して、愛しそうにそんなことを口にする悪魔の姿に、マリーが面食らう。
『愛して、大切にして、可愛がって。絶対に悲しい思いはさせませんから』
ね? と。笑う瞳は優しく眩く、愛に満ちて柔らかい。
つい先ほどまで、相対していた母親の瞳に、その愛の欠片なりとも映っていたならば。断ることができたかもしれない悪魔の言葉に心が揺らいでしまったマリーは、眠っているのに緊張して強張っている小さな体を、老いた腕できゅうと抱きしめた。
『人に愛されなかったことは、この子の魂に傷を残すことでしょう。……私がこの子を愛しますから、あなたはもう少し、待っていてください』
『あなたがそう仰るなら。……でも、少しだけ。その子に触っていいですか?』
あまりに素直に引き下がられて、惑ったマリーは少しだけ考え込み、どうぞ、と。小さく頷いた。
嬉しそうに微笑んだ青年が、マリーの前に膝をつく。子供の涙を丁寧に拭い、痩せた頬に指を這わせて。身を屈めるようにしながら、優しく耳に囁いた。
『可愛い、愛しい、私の運命。……私の愛は、あなたのためだけに』
ちゅ、と。可愛らしく唇を触れ合わせると、子供の眉間から険しさが抜け落ちた。強張って丸くなっていた体から力が抜けて、柔らかく無防備に緩む様を、腕の中に確かに感じる。
すうすうと、安らかな寝息を立て始めた幼子を、不思議に穏やかな気持ちで見つめて。マリーは小さく微笑んだ。
『この子を愛してくださってありがとう。……あなた方のような悪魔となら、私はお友達になれたような気がするの』
『今からでもなれますよ、マリー』
悪魔はみんな、あなたのことが大好きですよ、と。
美しいばかりの笑顔で、悪魔の貴公子にそんなことを言われた聖女は、おかしくなって笑ってしまった。
ジュゼは銀の手鏡を前に、深呼吸をして緊張を緩めた。
このところ、毎日勉強していた魔法を思い切って実践してみれば、鏡の中に夜空が映る。
――夜空に輝く星の中から、一番綺麗な星を選ぶ。
彼が囁いた通りに、一番、美しいと。そう思った星に、躊躇いながら手を伸ばした。
大丈夫、大丈夫、と。否応なしに緊張して震える指を叱咤して、触れた星に優しく魔力を注ぎ込む。黒く染まっていた鏡に銀色の輝きが戻り、ぼんやりと。優しい白い光の中に、美しい赤い瞳が煌めいた。
(……あ、)
鏡の中の瞳が、ふと、ジュゼの姿を捉えた気がして。ドキリとしたジュゼが鏡を取り落とした弾みで、未熟な術は解けてしまった。
慌てて拾い上げて覗き込んでも、銀色に輝く手鏡が映してくれるのは、当然のようにジュゼの姿だけで。
けれど確かに、一瞬でも。見間違えるはずのない美しい姿を、映してくれた。
「……レーヴェ」
優しい、愛しい、美しい悪魔。彼だけが、ジュゼを見つけてくれた。
運命の相手の名を囁いて、涙に濡れてしまった頬を鏡にすり寄せる。嬉しくて、ほっとして、幸せだった。
彼がジュゼの運命であったことが、こんなにも嬉しい。
愛しい気配が、部屋に近付いてくるのを察して、喜びに潤んでいた瞳に焦りが浮かぶ。
彼の姿を覗き見たことがバレてしまったから、何をしていたのか問い詰められてしまうかもしれない。正直に答えるにはあまりにも恥ずかしい気がして、ジュゼはおろおろと身の回りを見渡した。
隠れる場所に心当たりもないまま、部屋の扉がかちゃりと音を立てて。慌てたジュゼは、小さな子供のように布団を被って隠れてしまう。当然ながら、そんなお粗末な隠れ方では気休めにもならず、くすくすと笑う声と足音は真っ直ぐに寝台に近付いてきた。
「ジュゼ」
笑い声と共に布団を引き剥がされて、赤くなった顔ごと、胸に抱き込んだ鏡も見つかってしまう。
誰が映りましたか? と。戯れるように尋ねられて、答えに窮した唇に、暖かい唇が優しく触れた。
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