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序章
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灰色の空に、鐘が鳴り響く。
葬送の鐘に送られるのは、棺に納められた小さな老女だ。聖女とも、聖母とも呼ばれ慕われた彼女の名前はマリーと言って、遠い昔に魔王を討ち果たした人間の一人だった。
悪辣と暴虐の魔王に立ち向かい、地上の安寧を守るために戦った勇者たち。彼らを支えた癒しの乙女は、今その生命を全うし、永の眠りに着いた。
魔物も魔王も、今は物語の中に姿を消して、剣と魔法の昔語りはなお遠退く。暗黒の時代を知る者は涙に濡れて老女の棺に縋り付き、光の時代を生きる世代もまた、彼女の何物にも替え難き優しさを偲んで頬を湿らせた。
彼女が終の住み処と定めた教会前の大広場で、司祭が長い祝詞を読み上げる。華美な進物を決して受け取らなかった彼女のために、彼女が暮らした土地の人間はこぞって花を手に携えて、棺に捧げる献花の列を為した。
葬送の儀式が行われる祭壇上では、永久の乙女に従う供物に選ばれた生け贄の子羊たちが、まだ生きたまま炎にくべられている。断末魔とも呼べぬ弱々しい鳴き声に――優しい彼女は決して、このような送られ方を望んではいなかっただろうに、と。心ある者たちは涙を重ね、彼女にこの鳴き声が聞こえぬようにと、広場には葬送の讃歌が溢れた。
喪に服して俯く人々の間に、ただ一人、凛と顔を上げた青年がいる。その全身を、気配と共に黒いローブに覆い尽くした彼に気付ける者はこの場になく、目を惹く長身にも関わらず村人らの目が向くことはない。
フードに埋もれた瞳で祭壇を見上げた青年は、火葬にはあまりにも火勢の足りない祭壇を見上げ、憐れに鳴く羊を瞳に映して眉をひそめた。刹那、フードから微かにこぼれた赤い瞳を見つけたものがいたならば――もう二度と、目を離すことは出来なかっただろう。それほどまでに美しい瞳に祭壇を映した彼が口中で何事かを呟けば、たちまち炎が火勢を増して、供物の子羊たちは吐息を漏らす間もなく息絶えた。
突如として、目前に燃え上がったその炎に気付いたのは、祝詞を捧げる司祭ただ一人だ。彼は突然の出来事に目に見えて動揺し、祈りの声を途切れさせたが、祭壇から目を逸らしていた村人たちに動揺はない。ただ、悲痛な鳴き声の途絶えた安堵に、ほっと気配を緩ませた。
葬儀に相応しからぬ雑音の絶えたことを悟って、青年は己の所業に満足したように小さく微笑む。目映いばかりに美しい眼差しを黙祷に伏せて、微かな声で囁いた。
「――安らかに、マリー」
優しさを帯びたその声もまた、聞く者の心を蕩かすような魅惑に満ちて美しい。
ふと、何かに気を惹かれたように顔を上げた彼は、人混みに埋もれながら熱心に黙祷を捧げる子供たちの集団に目を向けた。
穏やかで裕福な土地に暮らす子供らしい、素朴ながらに小綺麗な子供たちの集団の中。一人目立って痩せ細って見える、小柄な黒髪の少年を瞳に映して。彼を閉じ込めるように、瞳を瞑って微笑んだ。
「あの子は、私が大切にしますからね」
そう囁いた青年の姿が、陽炎のように歪んで薄れる。
そこに誰かがいたことなど、誰も信じないだろう。昼間の夢の影のように、美しい青年はその場から姿を眩ませた。
葬送の鐘に送られるのは、棺に納められた小さな老女だ。聖女とも、聖母とも呼ばれ慕われた彼女の名前はマリーと言って、遠い昔に魔王を討ち果たした人間の一人だった。
悪辣と暴虐の魔王に立ち向かい、地上の安寧を守るために戦った勇者たち。彼らを支えた癒しの乙女は、今その生命を全うし、永の眠りに着いた。
魔物も魔王も、今は物語の中に姿を消して、剣と魔法の昔語りはなお遠退く。暗黒の時代を知る者は涙に濡れて老女の棺に縋り付き、光の時代を生きる世代もまた、彼女の何物にも替え難き優しさを偲んで頬を湿らせた。
彼女が終の住み処と定めた教会前の大広場で、司祭が長い祝詞を読み上げる。華美な進物を決して受け取らなかった彼女のために、彼女が暮らした土地の人間はこぞって花を手に携えて、棺に捧げる献花の列を為した。
葬送の儀式が行われる祭壇上では、永久の乙女に従う供物に選ばれた生け贄の子羊たちが、まだ生きたまま炎にくべられている。断末魔とも呼べぬ弱々しい鳴き声に――優しい彼女は決して、このような送られ方を望んではいなかっただろうに、と。心ある者たちは涙を重ね、彼女にこの鳴き声が聞こえぬようにと、広場には葬送の讃歌が溢れた。
喪に服して俯く人々の間に、ただ一人、凛と顔を上げた青年がいる。その全身を、気配と共に黒いローブに覆い尽くした彼に気付ける者はこの場になく、目を惹く長身にも関わらず村人らの目が向くことはない。
フードに埋もれた瞳で祭壇を見上げた青年は、火葬にはあまりにも火勢の足りない祭壇を見上げ、憐れに鳴く羊を瞳に映して眉をひそめた。刹那、フードから微かにこぼれた赤い瞳を見つけたものがいたならば――もう二度と、目を離すことは出来なかっただろう。それほどまでに美しい瞳に祭壇を映した彼が口中で何事かを呟けば、たちまち炎が火勢を増して、供物の子羊たちは吐息を漏らす間もなく息絶えた。
突如として、目前に燃え上がったその炎に気付いたのは、祝詞を捧げる司祭ただ一人だ。彼は突然の出来事に目に見えて動揺し、祈りの声を途切れさせたが、祭壇から目を逸らしていた村人たちに動揺はない。ただ、悲痛な鳴き声の途絶えた安堵に、ほっと気配を緩ませた。
葬儀に相応しからぬ雑音の絶えたことを悟って、青年は己の所業に満足したように小さく微笑む。目映いばかりに美しい眼差しを黙祷に伏せて、微かな声で囁いた。
「――安らかに、マリー」
優しさを帯びたその声もまた、聞く者の心を蕩かすような魅惑に満ちて美しい。
ふと、何かに気を惹かれたように顔を上げた彼は、人混みに埋もれながら熱心に黙祷を捧げる子供たちの集団に目を向けた。
穏やかで裕福な土地に暮らす子供らしい、素朴ながらに小綺麗な子供たちの集団の中。一人目立って痩せ細って見える、小柄な黒髪の少年を瞳に映して。彼を閉じ込めるように、瞳を瞑って微笑んだ。
「あの子は、私が大切にしますからね」
そう囁いた青年の姿が、陽炎のように歪んで薄れる。
そこに誰かがいたことなど、誰も信じないだろう。昼間の夢の影のように、美しい青年はその場から姿を眩ませた。
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