兄の彼女/弟の彼女

逢波弦

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弟の彼女

2.弟の彼女⑦

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「わ、見て。大きいマンボウ」
横顔の美しいロングヘアーの女が、赤いリップの引かれた唇を開いて、無邪気にはしゃいでいる。
いつもは知的で大人びている彼女が、素直に嬉しそうにしている様は純粋に可愛らしかった。
水族館の巨大な水槽の照り返しが、彼女のメイクをより華やかに演出している。

都内の水族館。
休日というのもあり、チケット売り場から賑わいを見せていて、館内は人を掻き分けて魚を鑑賞するのも一苦労だった。
客層はファミリー層と学生、それと俺らと同じ大学生のカップルが中心だった。

薄暗い館内で、天井から照らされた光を浴びながら、水槽の中の生物を眺める。
今日のデートのために新調したのであろう、華やかなワンピースとヒールを纏う彼女が、人波に飲まれないように、横に立つ。
はぐれないように繋いだ手には、可愛らしい色のネイルが施されていた。

目の前を悠々と泳ぐマンボウをぼんやりと見つめる。
分厚いガラスの前を、見るからに固そうな灰色の皮膚が横切っていく。
目では魚を追っているのに、俺の脳内は全く別のことで支配されていた。

――ここ数週間、弟を休日に行為に誘っても、断られることが続いている。
用事あるから、受験近いから勉強すると、何かにつけて避けられていた。
別にセックスでなくて、今度の休みレコード見に行こうぜと声を掛けても、彼の返答は芳しくないものだった。

そんな状況に不満と苛立ちを募らせていた頃、大学の休み時間、彼女に「今度の休日、出掛けない?」と提案された。
イラついた気持ちのまま休日を過ごすのも嫌だなと思ったので、その提案に乗っかる事にした。

元々は俺が率先してデートの計画を立てたり、彼女をリードすることが多かった。
今回の提案も、最近デートを切り出してこない俺に、寂しさを覚えて彼女の方から言ってくれたのだろう。彼女にそうさせていることに、少し申し訳なさを感じる。

……けれど、以前ほど彼女とのデートの予定に心が躍っていなかった。
自分の心の中に芽生え始めてる、何かの萌芽ほうが
それを認識してしまったら、より肥大化する。
今までの経験でそれを知っていた俺は、見て見ぬふりをする事で今の平穏を保ちたかった。


「ね、今度はあっち見てみよう」
繋がれた手を引っ張られて、我に返る。彼女の方を見ると、クラゲの水槽の方だろうか、そちらを指している。分かった、と了承してマンボウを見たがる後方の人々を掻き分けて、通路へ出る。

うっとおしい人混みの中、クラゲの水槽の方へなんとか歩みを進めていると、水槽を眺める見知らぬ赤の他人の中に、見知った奴がいた。

見覚えのある黒髪の後頭部。
赤いチェックのネルシャツと古いジーンズ。

いや、まさか、と目を凝らしてみるが、見れば見るほど知っている男の後ろ姿そっくりで、言葉を失った。
そういえば俺が今朝出掛ける時には、もう弟の靴はなくて、駐輪場の自転車も無くなっていた。

男の姿を注視してみると、後ろに寝ぐせがあったり、ネルシャツの裾が捲れている。
彼なりに身だしなみを整えて出かけたのだろうが、そんな部分があいつらしいと思った。
人混みに慣れていないのだろう、よたよたと水槽の前を移動している。

そして、弟を追うように人混みから出てきた、膝丈のスカートとセーターを纏った素朴な女が、彼の隣へ向かった。
弟は、横の女を気に掛けながら、二人連れ添って水槽の前へ移動した。

時折、女の方が弟に話しかけ、それに弟が応えて笑いあっている。
一体クラゲの何が面白いのか、二人は幸せそうに微笑んでいた。

観察する視線は嫌に冷静なのに、胸の中では汚泥のような感情がぐらぐらと湧き出ている。
そんな二人の様子を、電池の切れた玩具のように見つめていると、
「正樹、どうしたの?」と隣の彼女が不審そうに尋ねてきた。

「…いや……弟が」
自分のものと思えないほど、強張った声が出る。
「あ、ほんとだ。弟君」
彼女も俺と同じ方向へ視線を向けた。

「一緒にいるの彼女さんかな?かわいいね」
そう微笑む隣の女の言葉が、大学のつまらない講義の様に感じ、音が膜を張ったかのように遠くに聞こえる。
そのまま女は何かを喋り続けているみたいだったが、内容が一切入ってこなかった。
『彼女』というワードが起因して、自分でも信じられないぐらいの仄暗く激しい感情が頭を支配した。弟の隣の幼い女を八つ裂きにしてやりたいとすら思った。

弟が土日の誘いを断り続けていること。
目の前の笑いあう二人の高校生。
それらが、まるでこうあることが自然かのように結びつく。

薄暗い館内で、天井のライトを浴びながら呆然と立ち尽くした。




日が傾きかけた空。
自室のベッドに座っていると、ガチャリと玄関のドアが開く音がした。
そして階下から、ただいまーと聞き慣れた幼い男の声がする。
階段を上がってくる奴の気配を感じながら、部屋のドアを開けた。

赤いネルシャツを着た弟は、廊下で俺と鉢合わせて、一瞬気まずそうに眼を逸らそうとした。
だが、すぐに目を見開いて俺の左頬を見つめた。
「何、どうしたのそれ」
「ああ、ちょっとね」
顔の皮膚はじりじりと痛みと腫れを主張をしてくるが、こんな事はどうでも良かった。

驚愕しながらも、自分の部屋に戻ろうとする弟を引き留めるように、声を放つ。
「やっぱ彼女なんじゃん」
「…何のこと?」
俺の言葉に怪訝そうにする弟に、まだ誤魔化すのかよとイラつきを覚える。

「今日俺も水族館行った、彼女と。そこでお前のこと偶然見かけたから」
そのことを話すと、弟は少し驚いて、顔を曇らせた。
「……まだ彼女じゃないよ」
「けどデートだろ?」
自分でも驚くぐらい、低く冷たい声が出る。

そんな俺の態度に不愉快さを感じているのか、弟は苦虫を嚙み潰したような表情で言葉を返す。
「兄ちゃんが俺の恋愛に口出す事ないだろ。自分だって彼女と……」

そう言いかけた弟に無理矢理口付けて、舌を口内に捩じ込んだ。
口内を蹂躙していると、ガリと鈍い音がした。
じわじわと口内に鉄の味が広がる。
噛むなんてひどいやつだなと思うが、脳裏で「どっちが」ともう1人の自分が呟く。

痛みで思わず顔を離す。
それと同時に弟に強い力で突き飛ばされた。
流石によろけて顔を向きなおすと、奴と目があった瞬間。
時間が止まった。

―――底知れないほどの恋慕と悲嘆。

それらが入り交じり震えながら、俺を強く見据える眼。
弟の瞳は、彼の感情の全てが凝縮されたほどに、力強くも脆い輝きを放っていた。

弟は顔を歪めて、泣くのを我慢する子供のようだった。
そのまま口元を微かに震わせながら、俯いた。

孝行は――俺のことを好きだと思っていたし、事実そうなのだと感じていた。
けれど、弟は、孝行は。
俺が思っていた以上に俺を好きでいてくれたのだ。

それなのに俺は、自分の手管で乱れていやらしく喘ぐ弟に欲情するからと、その気持ちを利用していた。
あの真っ直ぐに俺を見てくれる、恋慕の乗った瞳が、自分以外の誰かに向けられる。
俺が最近弟を見て感じる、焦燥感の正体はこれだった。

――失いたくない。
あまりにも脆く美しい熱情と、今限りかもしれない彼の俺への思慕。
彼の喜びも悲哀も情欲も、全部、俺のものにしたい。
そんな純粋な独占欲が心の奥から湧き上がる。

「別れた」
俺の言葉に、え?と抜けた声で弟が返答する。

「彼女と別れた。」


――水族館で弟を見かけて以降、あまりにも上の空の俺を、彼女が咎めた。
急に隣にいる女のことがどうでもよくなり、一方的に別れ話をした。
最初は俺の様子があまりに変だからか、女は心配している様子を見せたが、別れることを撤回しない俺に呆気にとられ、次第に鬼のような形相になった。
女は、この世の罵声と罵詈雑言を集めたような声を浴びせかけ、俺の横っ面を叩いて速足で去って行った。
仮にも同じ大学に通っているのだから、もう少し跡を濁さずに別れれば良かっただろうに。
この時の俺はそんな事にも頭が回らないほどに焦っていた。

俺の発言を聞いて弟は少し目を見開いたが、そのまま眉を歪めた。
「……俺を抱けなくなるから、言ってるだけでしょ」

無言で自身の携帯電話を取り出し、彼女の名前が消えたアドレス帳を見せる。
こんな事で証明になるなんて思わないが、事実であることを僅かでも伝えたかった。

弟は少し戸惑いながら、そして俺の腫れた左頬を見つめた。

―――思えばあの時も、弟は頬を腫らしながら俺にキスをした。その後、俺のペニスを必死に口に含んでいた。
その時の力加減を間違えた罪悪感が、今別の意味を持って心の中に浮かび上がってきた。

あの時、弟を張り倒したのは俺だけど、今弟に張り倒されるべきなのは俺だ。


弟に向けて頭を下げる。
「お前の、孝行の気持ちを…蔑ろにしてごめん」

無体を働いてきた男の謝罪にどれ程の価値があるのかなど、分からない。
けれど覆水は盆に返らないのだ。
それならば、新たに水が注がれる可能性を、微かな糸口があるのであれば、がむしゃらにでもそれに縋りたかった。

少しの沈黙が辺りを満たして、微かな声が空間に響く。
「…俺、今日あの子に告白された」
そんな弟の言葉に、心臓を貫かれるような気持ちになる。
ゆっくりと顔を上げ黙ってその続きを待っていると、弟は俯いたまま口を開けた。

そして言葉を放つのを迷うように、少し口元を動かした後、音を零した。

「……まだ返事してない」
そう言って俺を見上げて、見つめる弟の瞳は。

いつかのあの昼下がり。
弟が俺の部屋に入り込んで、俺にキスした日。
ベッドの縁で俺のペニスを咥えながら、覚束ないフェラをした日。
俺の零したからかいに目を上げ、弟と目線が交わった時。
情欲と俺への思慕が混ざり合った色―――

あの時と同じ瞳をしていた。
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