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第1話 夢
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今日、僕は目覚める。
「どうした、不安か?」
どこか意地悪そうに目を細め、僕を見る瞳はいつにも増して深い黄金色をしている。
「そうだね」
問いかける声の主を見上げながら僕は答えた。
ー巨大な黒猫ー
一言で表すと、声の主はそのような風貌をしている。
体長はおおよそ3メートルはあるだろう。
立ち上がれば、僕の身長の倍はあり、長毛であるが故の豊かな尻尾などは人ひとりの長さを有に超える。
豪奢な天蓋付きの広いベッドに優雅に横たわるその大きな黒猫の柔らかな腹に埋もれて、僕はぼんやりと思いを巡らせていた。
「お前と過ごしてもう3年か。時が経つのは早いものだな」
巨大な黒猫は、その大きな尻尾で僕の頬を優しく撫でながら言った。
「うん。暁月にはとても感謝している」
ふわふわと頬に当たる尻尾を優しく抱き寄せて、僕はさらに深く黒猫の腹に体を沈ませる。
「現実の僕の部屋は、ここと同じように変わっていないといいな。そうしたらこの夢の続きをずっと見ていられる気がする」
「安心しろ、シエルレイン。お前の部屋はあの日のまま、ここと変わらない。お前も相変わらずこの豪華なベッドに横たわったままだ。ああ、身長と髪は随分伸びたがな」
「そう…」
首を傾け、遠くに目を遣る。
寝室の壁一面が硝子張りになっており、よく景色が見渡せた。
硝子越しの外は月明かりと星の海。
外のテラスには月の光でできた細やかな細工の手すりが影を落としている。
そこに大地はなく、この寝室のみがまるで星空の中にぽっかりと浮かんでいるようだ。
ここは精神が作り出す夢の中。
僕が知っているもの、記憶にあるものは全て思い通りの形になる。
逆然り、知らないもの、想像できないものはこの世界には存在できない。
傍にいる暁月もそうだ。
僕は現実で会ったことがない。
暁月に初めて会った時は光る丸い玉だった。黒い長髪に金色の瞳をしている、と自分の容姿を僕に告げた瞬間、僕の心に真っ先に浮かんだのが金色の瞳をした猫。
その途端、光る丸い玉は大きな黒猫に姿を変え、以来暁月はそのままの姿で過ごしている。
なぜ巨大な猫になったのか、それはおそらくこの夢の中をひとり孤独に過ごすうちに、知らず知らず誰かの暖かさに飢えていたのだろう。
寂しい、怖い、不安。
自分を抱きしめて、安心させて、守ってくれる何かを求めていたのかもしれない。
僕は起き上がり、ゆっくりと窓辺に近づいた。
月明かりが僕の顔を照らし、反射してガラスに自分の姿が映る。
染みひとつない白磁のような白い肌。
肩に届くほどの髪は絹のように滑らかで、黎明の光の如く輝く朱金色。
朝と夜を分ける空の境界のような紫色の瞳。
細く長い手足と、しなやかで繊細な線を描く身体。
この奇跡のような美しさをもった一国の皇子シエルレインを人は皆
「明けの明星」
と呼んでいた。
数百年に一度、先祖返りとして皇家にはこのような容姿を持って生まれる者がいる。
老若男女、見境なく全ての人が目心を、理性を奪われずにはいられなくなるほど、明けの明星と謳われる存在はまるで神のように、そして悪魔のように人々を狂わせるほどに美しい奇跡の皇子。
明けの明星を我が物にしたいとあらゆる権力者が謀略をめぐらし、貴族たちは皇子の婚約者にと娘を、あまつさえ自身の身や妻、息子まで夜伽の戯れのお相手にと差し出す始末。
身の回りの世話をする下女の中には、シエルレインを欲望のままに穢そうという者もいた。
「ねぇ、暁月には僕はどう見える?」
白いシーツの上、優雅に横たわる黒い影に目をやる。
薄暗い室内の大きなベッドの上に光る2つの金色の瞳が、真っ直ぐにこちらを見ていた。
「どう…とは?」
シエルレインが何を言いたいか、本当はわかっているのだろう。
少し含みを持たせた声色で答える。
「僕はあの日までの僕しか知らない。13歳のあの瞬間の僕までしか。ここに映る僕の時は止まったまま、成長もしていないし何も変わらない。
でも暁月は…現実の僕を見ている。知っている。僕が僕だと思う姿で、貴方は僕を見ていない」
暁月は黙ったまま、ゆっくりと瞬きを繰り返す。
「暁月…貴方に、僕はどう映っているの…?」
熱くて固いものが込み上げ、胸と喉を締め付ける。
うまく声が出せない。
息が詰まる。
だめだ、泣いてしまう。
怖い。
怖い。
怖い。
知りたくないけれど、知っておかなければいけない。
この夢が覚める前に、現実に戻る前に自分の状況を認知しておかなければ。
心の準備を、しなくては。
泣きだしそうな衝動を堪えて、シエルレインは続けた。
「なぜ僕が3年間も夢の中に居続ければならないのか…あなたは初めに教えてくれた。だから大抵のことは分かっているつもりだ。大変な怪我をして、その苦痛を除くために治療が終わるまでは眠らせておくことにした、と」
「3年も眠ったままにしておかなければいけないような怪我など、どれ程のものか想像できないけれど、おそらく完治したとしてもなんらかの障害や後遺症が残るのではないかと思っている。身体のどこかに欠損があったり、容姿が変わっていることだって…」
暁月は静かに聞いている。
「僕が僕であると覚えているこの姿から、どのように変わってしまっているのか…目覚める前に、教えてほしい」
シエルレインの夢の世界に突然現れた暁月は、事故で大怪我を負ったシエルレインを現実世界で治療していると言っていた。
自分のことはほぼ語らない暁月。
魔術と医術、治癒術を扱える者とだけシエルレインに告げた。
魔力を持ち、魔術を会得する者が稀であるのに加えて高度な知識と技術を必要とされる医術、さらに魔術とは相対する力である治癒術を同時に使役できる能力。
そのような者がいることは聞いたことがない。
おそらく世界を探してもほんのひと握りしかいないのではないだろうか。
精神に感応し、夢の中で対話をする。
意識のない者との意思疎通を図るのに、魔術の中では常用の手段だ。
それを用いて暁月は精神世界でシエルレインと遣り取りをしつつ、現実世界で傷ついた体の治療をする。
さらに目覚めた後、皇族としての責務を果たすのに支障がないよう、学問や剣術、皇位継承のための帝王学を教えるなど、教師のような役割も果たしていた。
「初めて聞いたな、シエル」
起き上がり、猫特有の伸びをする。
足音もなく窓辺のシエルレインへと近づき、傍に座る。
目線の高さを合わせてじっと美貌の皇子を見つめ、しばらくの沈黙の後に口を開いた。
「肉塊」
紫色の瞳が、ほんの少し見開かれる。
「あの日初めてお前を見た時の印象はそれだった。正直、生きているとは思わなかったな」
低く甘やかな声で暁月は続ける。
「初めの頃に話しただろう?お前の幼馴染が戯れに作った穴に落ちて怪我をしたと。あの時はそれ以上詳しく語らなかったが、それはただの穴ではなく、酸の沼だった」
シエルレインの背中を冷たいものが伝い落ちる。
「彼女に悪気はなかった。ただ、自分が見つけた魔術書に書かれていた魔術を試したかっただけ。ただの悪戯心で落とし穴を作って、お前とお前の妹を驚かせようとしただけだった」
「事故の後、その魔術書を調べたが…魔術の名と効果が書き換えられていてな。幼い彼女はそれに気づくことが出来なかった」
「お前は妹が穴に落ちそうになったところを庇い、落ちた」
僕はよく公爵家の令嬢である幼馴染と皇女である妹と余暇の時間を過ごす事が多かった。
僕たちで作った秘密の抜け穴から皇城の裏にある湖へ行くのが好きで、時折、護衛の目を盗んでは3人で抜け出していた。
あれは確か、父に来客があるという日で。
何故か城内の雰囲気は従来の謁見準備より緊迫しており、城内の警備もいつもより厳重だった。
普段なら城内を自由に出歩けるのだが、その日は自室で過ごすようにと厳しく言い渡されていた。
シエルレインの願いで自室に集まることを許された3人は、各々好きな時間を過ごしていた。
シエルレインは窓辺で本を読み、幼馴染の少女と妹は髪を結いあったり、お茶やお菓子、他愛のないお喋りを楽しんでいた。
突然、自室の扉の向こうで重い物が当たったような鈍い音と、何かが引きずられるような音がした。
恐る恐る扉を開け、外を確認すると、警護の兵士がどこにもいない。
不思議に思ったが、部屋を抜け出すのにこの時をを逃すまいと、3人はシエルレインのベッドに枕を仕込み寝ているかのように見せかけて部屋を出た。
いつものように秘密の抜け穴から外に向かう
その途中、その事故は起きたのだった。
突如現れた穴に落ちそうになった妹の手を咄嗟に引き寄せた後からは記憶がない。
暁月の話から察するに、おそらくあまりの痛みと恐怖で、脳が記憶することを拒否したのだろう。
「穴に落ちたお前は両の足と体、片腕、顔の半分を酸で溶かされた。幸い魔術は不完全だったようで、お前が落ちてすぐに消滅したそうだが…そうでなければそのまま生きながらにして溶かされ、骨も残らず死んでいただろう」
「不完全にしても、強力な魔術だ。強い酸の沼はお前を肉塊に変えるのには充分だった。溶けた四肢は癒着し、おおよそ皮膚というものはなく、骨や臓器が見えるところもあったな」
シエルレインのアメジストのような美しい瞳は激しい動揺で揺れ、表情は凍りついたように動かなかった。
「皇帝と謁見中にお前の妹が泣き喚きながら現れてな、必死に助けを請われた。皇帝も城のものも皆ものすごい形相であったな。急いで駆けつけてお前を見つけた。醜い肉塊に美しい半顔を残したお前をな」
あの日、シエルレインの父の来客というのはまさしく暁月だったのだ。
それにも驚いたが、それよりも今は自分の状況を聞くことが重要だった。
「………そ、それで…い、いまの…僕は……?」
血の気を失い、青ざめた唇を震わせながらシエルレインは暁月に問う。
「安心するがいい。完全に元通りとはいかぬが、生きるのに支障がない程度には治療できている。だが、あまりにも溶けた範囲が広く、傷も深かったからな、皮膚の再生は不可能だった。赤黒い肉が露呈してはいるが、血管や神経も修復したし、骨も内臓も戻しておいた。ああ、それと睾丸は無いが生殖器もな。それとして使えるかどうかはわからんが、なくては排泄に困るだろう」
想像を絶する今の自分に眩暈がした。
明けの明星と謳われた自分に決して自惚れていたわけではない。
それにより人の欲望に散々翻弄され、心に傷を負うことも多かったから。
しかし突きつけられた現実はあまりにも残酷で、受け入れ難いものだった。
吐き気がする。
気が遠くなる。
体が震えて力がはいらない。
よろけて倒れそうになったシエルレインを、暁月が前足を使って自分に抱き寄せる。
その瞬間、大きな黒猫は妖しく美しい青年に変わった。
見たことのない異国の服を身に纏う長身の青年。
血の気のない青白い肌。
腰まで届く黒髪は烏の濡羽のように艶かしくなびく。
長い前髪から覗く黄金色の瞳は、雲間から姿を現した満月のよう。
形の良い薄い唇は、紅く妖艶であった。
「あ…暁月……?」
夢の世界の主人の記憶にないものはここでは実体化できないはず。
もちろん今まで、現実の暁月に会ったことがあるはずもなく、このような容姿を想像したことすら無い。
あまりに急に訪れた衝撃や暁月への疑問に心が千々に乱れ、シエルレインは混乱していた。
暁月は腕の中で動揺しているシエルレインを見つめ、どこか満足そうに微笑んだ。
そしてゆっくりと耳に触れるか触れないかの距離に唇を近づけて、吐息混じりの声で囁く。
「これが私だ、シエル。お前は私を大きな黒猫だと言っていたが、この世界での私は私のままであることを分かっていたか?」
「え……どういう…こと?」
「お前が私を黒猫として見て接していても、私は私の姿のまま、現実世界で認識しているお前と触れ合っていたということだ」
「お前が私を猫として撫で愛でているつもりでも、私は人としてお前に愛撫を受けていたし、お前が私を抱いて眠るときは私は人としてお前を抱いて眠っている。変わり果てた姿のお前を、だ」
「あ…」
そうだ。
夢の世界はお互いの認識で作られている。
だったら暁月の中の僕は、暁月の認識で作られるはずだ。
僕は暁月を猫として具現化してしまったからうっかり忘れていた。
暁月は、人だということを。
夢の中では、痛みはなくとも何故か触感は現実と変わらない。
この3年間の黒猫暁月に対する自分の行動を人に置き換えて思い返すと、まるで恋人のそれのようなひとときも多くあった。
シエルレインは暁月の胸を両の腕で押し退け、抱き止められていた腕から逃れた。
気まずそうに少し頬を赤らめて俯く。
そして悲しそうに目を細めた。
「ごめん…暁月…。醜く変わってしまった僕が…その…馴れ馴れしく君に触れてしまって。さぞかし不快な思いをしていただろう…」
暁月はその形の良い唇に妖しい微笑みを浮かべて言った。
「お前は以前と変わらず美しい」
両の手でシエルレインの頬を包み込み、顔を上げさせる。
暁月の瞳に映るのはグロテスクに溶けて赤黒く醜い四肢と顔の半分、もう半分は透き通る白い肌、朱金の髪と紫水晶の瞳を持つ世にも美しい皇子。
両極端な外見をもつ、なんとも危うい存在。
明けの明星と謳われ持て囃され、誰も彼もから欲しがられたその存在は今や、誰も彼もに忌み嫌われ、避けられ、疎まれるに違いない。
「安心しろ、シエル。お前の見た目がどんなに変わろうとも、醜くあろうとも、私はお前の側にいる。そのために、私は3年前にお前の国を訪れたのだからな」
シエルレインの腕を引き、再び胸に抱き寄せる。
間近に見える暁月の瞳。
それに映る自分が、段々と変化していった。
顔の半分は溶け出し、暁月に触れている腕は赤黒い肉がさらけ出されていく。
「あか…つき…」
片方しかない紫色の瞳から、一筋の涙が伝い落ちる。
「さあ、シエル。そろそろ時間だ。何もかも、私に預けるがいい。お前の痛みも、悲しみも、流す涙も、全て私の糧、私のモノとなる」
体が重くなる。
立っていられなくなる。
酷い目眩に似た睡気が襲う。
片方は潰れ、もう片方は涙でよく見えなくなった視界に、暁月の美しい顔がゆっくりと近づいてくるのが見えた。
意識が、薄れていく。
「おやすみ、シエル」
眠りに落ちる前、漆黒の夜に光る黄金の月を見た気がした。
唇に熱い吐息と冷たく柔らかな感触。
そのまま、僕は暗闇に溶けていった。
「どうした、不安か?」
どこか意地悪そうに目を細め、僕を見る瞳はいつにも増して深い黄金色をしている。
「そうだね」
問いかける声の主を見上げながら僕は答えた。
ー巨大な黒猫ー
一言で表すと、声の主はそのような風貌をしている。
体長はおおよそ3メートルはあるだろう。
立ち上がれば、僕の身長の倍はあり、長毛であるが故の豊かな尻尾などは人ひとりの長さを有に超える。
豪奢な天蓋付きの広いベッドに優雅に横たわるその大きな黒猫の柔らかな腹に埋もれて、僕はぼんやりと思いを巡らせていた。
「お前と過ごしてもう3年か。時が経つのは早いものだな」
巨大な黒猫は、その大きな尻尾で僕の頬を優しく撫でながら言った。
「うん。暁月にはとても感謝している」
ふわふわと頬に当たる尻尾を優しく抱き寄せて、僕はさらに深く黒猫の腹に体を沈ませる。
「現実の僕の部屋は、ここと同じように変わっていないといいな。そうしたらこの夢の続きをずっと見ていられる気がする」
「安心しろ、シエルレイン。お前の部屋はあの日のまま、ここと変わらない。お前も相変わらずこの豪華なベッドに横たわったままだ。ああ、身長と髪は随分伸びたがな」
「そう…」
首を傾け、遠くに目を遣る。
寝室の壁一面が硝子張りになっており、よく景色が見渡せた。
硝子越しの外は月明かりと星の海。
外のテラスには月の光でできた細やかな細工の手すりが影を落としている。
そこに大地はなく、この寝室のみがまるで星空の中にぽっかりと浮かんでいるようだ。
ここは精神が作り出す夢の中。
僕が知っているもの、記憶にあるものは全て思い通りの形になる。
逆然り、知らないもの、想像できないものはこの世界には存在できない。
傍にいる暁月もそうだ。
僕は現実で会ったことがない。
暁月に初めて会った時は光る丸い玉だった。黒い長髪に金色の瞳をしている、と自分の容姿を僕に告げた瞬間、僕の心に真っ先に浮かんだのが金色の瞳をした猫。
その途端、光る丸い玉は大きな黒猫に姿を変え、以来暁月はそのままの姿で過ごしている。
なぜ巨大な猫になったのか、それはおそらくこの夢の中をひとり孤独に過ごすうちに、知らず知らず誰かの暖かさに飢えていたのだろう。
寂しい、怖い、不安。
自分を抱きしめて、安心させて、守ってくれる何かを求めていたのかもしれない。
僕は起き上がり、ゆっくりと窓辺に近づいた。
月明かりが僕の顔を照らし、反射してガラスに自分の姿が映る。
染みひとつない白磁のような白い肌。
肩に届くほどの髪は絹のように滑らかで、黎明の光の如く輝く朱金色。
朝と夜を分ける空の境界のような紫色の瞳。
細く長い手足と、しなやかで繊細な線を描く身体。
この奇跡のような美しさをもった一国の皇子シエルレインを人は皆
「明けの明星」
と呼んでいた。
数百年に一度、先祖返りとして皇家にはこのような容姿を持って生まれる者がいる。
老若男女、見境なく全ての人が目心を、理性を奪われずにはいられなくなるほど、明けの明星と謳われる存在はまるで神のように、そして悪魔のように人々を狂わせるほどに美しい奇跡の皇子。
明けの明星を我が物にしたいとあらゆる権力者が謀略をめぐらし、貴族たちは皇子の婚約者にと娘を、あまつさえ自身の身や妻、息子まで夜伽の戯れのお相手にと差し出す始末。
身の回りの世話をする下女の中には、シエルレインを欲望のままに穢そうという者もいた。
「ねぇ、暁月には僕はどう見える?」
白いシーツの上、優雅に横たわる黒い影に目をやる。
薄暗い室内の大きなベッドの上に光る2つの金色の瞳が、真っ直ぐにこちらを見ていた。
「どう…とは?」
シエルレインが何を言いたいか、本当はわかっているのだろう。
少し含みを持たせた声色で答える。
「僕はあの日までの僕しか知らない。13歳のあの瞬間の僕までしか。ここに映る僕の時は止まったまま、成長もしていないし何も変わらない。
でも暁月は…現実の僕を見ている。知っている。僕が僕だと思う姿で、貴方は僕を見ていない」
暁月は黙ったまま、ゆっくりと瞬きを繰り返す。
「暁月…貴方に、僕はどう映っているの…?」
熱くて固いものが込み上げ、胸と喉を締め付ける。
うまく声が出せない。
息が詰まる。
だめだ、泣いてしまう。
怖い。
怖い。
怖い。
知りたくないけれど、知っておかなければいけない。
この夢が覚める前に、現実に戻る前に自分の状況を認知しておかなければ。
心の準備を、しなくては。
泣きだしそうな衝動を堪えて、シエルレインは続けた。
「なぜ僕が3年間も夢の中に居続ければならないのか…あなたは初めに教えてくれた。だから大抵のことは分かっているつもりだ。大変な怪我をして、その苦痛を除くために治療が終わるまでは眠らせておくことにした、と」
「3年も眠ったままにしておかなければいけないような怪我など、どれ程のものか想像できないけれど、おそらく完治したとしてもなんらかの障害や後遺症が残るのではないかと思っている。身体のどこかに欠損があったり、容姿が変わっていることだって…」
暁月は静かに聞いている。
「僕が僕であると覚えているこの姿から、どのように変わってしまっているのか…目覚める前に、教えてほしい」
シエルレインの夢の世界に突然現れた暁月は、事故で大怪我を負ったシエルレインを現実世界で治療していると言っていた。
自分のことはほぼ語らない暁月。
魔術と医術、治癒術を扱える者とだけシエルレインに告げた。
魔力を持ち、魔術を会得する者が稀であるのに加えて高度な知識と技術を必要とされる医術、さらに魔術とは相対する力である治癒術を同時に使役できる能力。
そのような者がいることは聞いたことがない。
おそらく世界を探してもほんのひと握りしかいないのではないだろうか。
精神に感応し、夢の中で対話をする。
意識のない者との意思疎通を図るのに、魔術の中では常用の手段だ。
それを用いて暁月は精神世界でシエルレインと遣り取りをしつつ、現実世界で傷ついた体の治療をする。
さらに目覚めた後、皇族としての責務を果たすのに支障がないよう、学問や剣術、皇位継承のための帝王学を教えるなど、教師のような役割も果たしていた。
「初めて聞いたな、シエル」
起き上がり、猫特有の伸びをする。
足音もなく窓辺のシエルレインへと近づき、傍に座る。
目線の高さを合わせてじっと美貌の皇子を見つめ、しばらくの沈黙の後に口を開いた。
「肉塊」
紫色の瞳が、ほんの少し見開かれる。
「あの日初めてお前を見た時の印象はそれだった。正直、生きているとは思わなかったな」
低く甘やかな声で暁月は続ける。
「初めの頃に話しただろう?お前の幼馴染が戯れに作った穴に落ちて怪我をしたと。あの時はそれ以上詳しく語らなかったが、それはただの穴ではなく、酸の沼だった」
シエルレインの背中を冷たいものが伝い落ちる。
「彼女に悪気はなかった。ただ、自分が見つけた魔術書に書かれていた魔術を試したかっただけ。ただの悪戯心で落とし穴を作って、お前とお前の妹を驚かせようとしただけだった」
「事故の後、その魔術書を調べたが…魔術の名と効果が書き換えられていてな。幼い彼女はそれに気づくことが出来なかった」
「お前は妹が穴に落ちそうになったところを庇い、落ちた」
僕はよく公爵家の令嬢である幼馴染と皇女である妹と余暇の時間を過ごす事が多かった。
僕たちで作った秘密の抜け穴から皇城の裏にある湖へ行くのが好きで、時折、護衛の目を盗んでは3人で抜け出していた。
あれは確か、父に来客があるという日で。
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普段なら城内を自由に出歩けるのだが、その日は自室で過ごすようにと厳しく言い渡されていた。
シエルレインの願いで自室に集まることを許された3人は、各々好きな時間を過ごしていた。
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突然、自室の扉の向こうで重い物が当たったような鈍い音と、何かが引きずられるような音がした。
恐る恐る扉を開け、外を確認すると、警護の兵士がどこにもいない。
不思議に思ったが、部屋を抜け出すのにこの時をを逃すまいと、3人はシエルレインのベッドに枕を仕込み寝ているかのように見せかけて部屋を出た。
いつものように秘密の抜け穴から外に向かう
その途中、その事故は起きたのだった。
突如現れた穴に落ちそうになった妹の手を咄嗟に引き寄せた後からは記憶がない。
暁月の話から察するに、おそらくあまりの痛みと恐怖で、脳が記憶することを拒否したのだろう。
「穴に落ちたお前は両の足と体、片腕、顔の半分を酸で溶かされた。幸い魔術は不完全だったようで、お前が落ちてすぐに消滅したそうだが…そうでなければそのまま生きながらにして溶かされ、骨も残らず死んでいただろう」
「不完全にしても、強力な魔術だ。強い酸の沼はお前を肉塊に変えるのには充分だった。溶けた四肢は癒着し、おおよそ皮膚というものはなく、骨や臓器が見えるところもあったな」
シエルレインのアメジストのような美しい瞳は激しい動揺で揺れ、表情は凍りついたように動かなかった。
「皇帝と謁見中にお前の妹が泣き喚きながら現れてな、必死に助けを請われた。皇帝も城のものも皆ものすごい形相であったな。急いで駆けつけてお前を見つけた。醜い肉塊に美しい半顔を残したお前をな」
あの日、シエルレインの父の来客というのはまさしく暁月だったのだ。
それにも驚いたが、それよりも今は自分の状況を聞くことが重要だった。
「………そ、それで…い、いまの…僕は……?」
血の気を失い、青ざめた唇を震わせながらシエルレインは暁月に問う。
「安心するがいい。完全に元通りとはいかぬが、生きるのに支障がない程度には治療できている。だが、あまりにも溶けた範囲が広く、傷も深かったからな、皮膚の再生は不可能だった。赤黒い肉が露呈してはいるが、血管や神経も修復したし、骨も内臓も戻しておいた。ああ、それと睾丸は無いが生殖器もな。それとして使えるかどうかはわからんが、なくては排泄に困るだろう」
想像を絶する今の自分に眩暈がした。
明けの明星と謳われた自分に決して自惚れていたわけではない。
それにより人の欲望に散々翻弄され、心に傷を負うことも多かったから。
しかし突きつけられた現実はあまりにも残酷で、受け入れ難いものだった。
吐き気がする。
気が遠くなる。
体が震えて力がはいらない。
よろけて倒れそうになったシエルレインを、暁月が前足を使って自分に抱き寄せる。
その瞬間、大きな黒猫は妖しく美しい青年に変わった。
見たことのない異国の服を身に纏う長身の青年。
血の気のない青白い肌。
腰まで届く黒髪は烏の濡羽のように艶かしくなびく。
長い前髪から覗く黄金色の瞳は、雲間から姿を現した満月のよう。
形の良い薄い唇は、紅く妖艶であった。
「あ…暁月……?」
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あまりに急に訪れた衝撃や暁月への疑問に心が千々に乱れ、シエルレインは混乱していた。
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そしてゆっくりと耳に触れるか触れないかの距離に唇を近づけて、吐息混じりの声で囁く。
「これが私だ、シエル。お前は私を大きな黒猫だと言っていたが、この世界での私は私のままであることを分かっていたか?」
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「お前が私を黒猫として見て接していても、私は私の姿のまま、現実世界で認識しているお前と触れ合っていたということだ」
「お前が私を猫として撫で愛でているつもりでも、私は人としてお前に愛撫を受けていたし、お前が私を抱いて眠るときは私は人としてお前を抱いて眠っている。変わり果てた姿のお前を、だ」
「あ…」
そうだ。
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暁月は、人だということを。
夢の中では、痛みはなくとも何故か触感は現実と変わらない。
この3年間の黒猫暁月に対する自分の行動を人に置き換えて思い返すと、まるで恋人のそれのようなひとときも多くあった。
シエルレインは暁月の胸を両の腕で押し退け、抱き止められていた腕から逃れた。
気まずそうに少し頬を赤らめて俯く。
そして悲しそうに目を細めた。
「ごめん…暁月…。醜く変わってしまった僕が…その…馴れ馴れしく君に触れてしまって。さぞかし不快な思いをしていただろう…」
暁月はその形の良い唇に妖しい微笑みを浮かべて言った。
「お前は以前と変わらず美しい」
両の手でシエルレインの頬を包み込み、顔を上げさせる。
暁月の瞳に映るのはグロテスクに溶けて赤黒く醜い四肢と顔の半分、もう半分は透き通る白い肌、朱金の髪と紫水晶の瞳を持つ世にも美しい皇子。
両極端な外見をもつ、なんとも危うい存在。
明けの明星と謳われ持て囃され、誰も彼もから欲しがられたその存在は今や、誰も彼もに忌み嫌われ、避けられ、疎まれるに違いない。
「安心しろ、シエル。お前の見た目がどんなに変わろうとも、醜くあろうとも、私はお前の側にいる。そのために、私は3年前にお前の国を訪れたのだからな」
シエルレインの腕を引き、再び胸に抱き寄せる。
間近に見える暁月の瞳。
それに映る自分が、段々と変化していった。
顔の半分は溶け出し、暁月に触れている腕は赤黒い肉がさらけ出されていく。
「あか…つき…」
片方しかない紫色の瞳から、一筋の涙が伝い落ちる。
「さあ、シエル。そろそろ時間だ。何もかも、私に預けるがいい。お前の痛みも、悲しみも、流す涙も、全て私の糧、私のモノとなる」
体が重くなる。
立っていられなくなる。
酷い目眩に似た睡気が襲う。
片方は潰れ、もう片方は涙でよく見えなくなった視界に、暁月の美しい顔がゆっくりと近づいてくるのが見えた。
意識が、薄れていく。
「おやすみ、シエル」
眠りに落ちる前、漆黒の夜に光る黄金の月を見た気がした。
唇に熱い吐息と冷たく柔らかな感触。
そのまま、僕は暗闇に溶けていった。
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私は心を捨てたのに。
あなたはいきなり許しを乞うてきた。
そして優しくしてくるようになった。
ーー私が想いを捨てた後で。
どうして今更なのですかーー。
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