アンダーストリングス

百草ちねり

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第一章

EP3・波に乗って 4

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 4


 右へ左へ、迷路のように入り組んだ低層スラムの街中を駆けめぐり、追っ手をまいて、私たちはようやく8番街に到着した。パイロープはコキコキと肩を鳴らしてサーシャ・アベニューへと入る。パイロープは脇目も振らずに此処まできた。ということは、彼女の目的地は此処だったのだろう。
 私はパイロープに先ほど助けてもらった礼を言おうと口を開いた。しかし彼女が被せるように、先に私に質問を投げてくる。
「アンタら、アタシが家に戻れって言っても戻らなかったよな」
「え、えと、そうですね」私の代わりにパセリが答える。
「オマケにそのバカでかい荷物。サルベージ隊のエンブレムが付いた薄手のジャケット。そっちのお嬢ちゃんはまあ置いといて、アンタ、海に出るつもりだったんだろ」
 チラリとこちらを振り返り品定めするパイロープに、私はハッと自分の姿を確認した。
急いでいて気がつかなかったが、仕事に出る時と全く同じ格好だ。こんな姿では『今から海に逃げます』と宣言しているようなものだ。警察から発砲されても文句は言えまい。
 私服が少ないため他は仕方ないにせよ、せめてエンブレムの付いたジャケットだけは着用するべきではなかった。己の迂闊さに頭を抱える私に、パセリが「まあまあ」と慰めをかけてくる。やめてくれ、アンタに慰められると惨めさに拍車がかかるんだ。
「ほら此処だよ」
 自己嫌悪に浸っていると、いつのまにかパイロープの目的地についた。私は建物にぶら下がった看板に目を見張る。喫茶〈波止場〉。サーシャの店だ。驚いてパイロープに顔を向けると、彼女は私にニヤリと笑いかけ、ゆっくりとドアを開けた。
「パセリ! パセリなの!? エルピスは一緒!?」
 店内に踏み込んだ瞬間、パイロープはサーシャからの熱い抱擁を受けた。「グエッ」と喉を押し潰したような声が彼女から漏れ出る。
「あぁパセリ、エルピス、無事でよかったわ。もう2番街まで警察が来たって聞いたから、貴女たちにもしものことがあったんじゃないかと心配して」
「ああどけっての!」しがみついてくるサーシャの頭をぐいぐいと押しやって、パイロープが嫌そうに唸った。
「サーシャの探し人はアタシの後ろだ!」
 パイロープは力任せにサーシャを引き剥がした。「あら? 2人にしては身長が高すぎるわ」サーシャが驚いた顔で目を瞬かせると、パイロープはついに堪忍袋の尾が切れたのか、サーシャの頭を引っ叩いた。
「いたた、」目尻に涙を浮かべるサーシャにパセリが飛びつく。
「サーシャさんただいま! ちゃんとエルちゃん連れてきたよ!」
 サーシャは目を開けて、胸元に顔を埋めて抱きついているパセリを見た。そして次に、パイロープの斜め後ろに控えている私を見て、またパセリへと視線を戻し、ポロポロと大粒の涙を流してパセリを抱きしめた。ぎゅうっと慈しみのこもった抱擁に、パセリは「苦しいよぉ」と幸せそうに呻く。
「まったく、見せつけてくれるねぇ」
 パイロープは眼前の微笑ましい状況から目を背けて、照れ臭そうにポリポリと人差し指で頬を掻いた。外にいた時は月と星の灯りしか光源がなく彼女の容姿を曖昧にしか捉えることができなかったが、店内のライトの下で見る彼女の髪は、少し赤味の入った綺麗なブリュネットだった。洗練された雄鹿のような体躯、健康的に焼けた肌に明るいブラウンの瞳。目尻の皺はまだ少ない。ということは、歳はサーシャより少し若い30代手前だろう。柔らかくも品のあるサーシャとはまた違った魅力のある女性だ。
「あの、助けて頂いてありがとうございます」
 私はパイロープの隣に並び、先ほど言い損ねた礼を述べて軽く頭を下げた。パイロープはシッシと左手を振った。
「別に礼なんかいらないよ。目的地が偶然一緒だったから、ついでに拾っただけさ」
「それでも助かったのは事実です。アンタがいなけりゃ、私はあそこで人生の幕を下ろしていた」
「『海に出ることもできずに』かい?」
 パイロープは胸の前で腕を組むと、片眉を上げて挑戦的な笑みを浮かべた。私は「ええ」と、彼女のブラウンの瞳を真っ直ぐに見つめた。「ふーん?」興味深そうに腕を組んだまま、右手で口元を覆って何かを思案するパイロープの仕草が、2番街で見たクラウンの姿に重なる。
「不躾な質問だとは思いますが……」
 テンプレートな前置きを添えて私はパイロープに尋ねた。
「あの黒い男、クラウン・ウッドマンとは知り合いなんですか」
「ああ、あの男かい? そうだねぇ……」
 パイロープはそのままの姿勢で、静かに私を見つめてくる。彼女の瞳が冷たい光を帯びたような気配を感じて、私は小さく身震いした。これは、失敗したな。彼女の琴線に図々しく触れてしまったようだ。
 さてどう切り抜けるべきか。私は乾いた唇を舌で舐めて湿らし、思考を巡らす。
「エルちゃん!」
 突如、溌剌とした声がかけられた。パセリだ。周囲の空気なんぞ一切読まないパセリが、この凍え切った空間を打破した。サーシャとの抱擁を満喫し終えた彼女は、パタパタとサンダルを鳴らして私とパイロープの前まで来た。
「えっと、パイロープさん! さっきはありがとう! 貴女がいなかったら今頃パセリもエルちゃんも死んでいたわ」
 パセリは両手を腹の前に添えてペコリと深くお辞儀をした。パイロープは首を左右に振る。
「偶然助けただけだから、そんなたいそうに言われる義理はないよ」パイロープはそう言うと、奥にいるサーシャに声をかけた。「この子たち船に乗せるんだろ。準備はもう整ってんのかい?」
 サーシャは両手を腰に当てて力強く頷いた。
「もちろん、必要になりそうな物資は積み込み済み。元は私のお婆様の所有物だったから少し年季が入ってるけど、メンテナンスは欠かさなかったからしっかり動いてくれるわ」
「そりゃあ頼もしいね」
 ヒュゥー。パイロープは「さすがだ」とサーシャを称賛し口笛を吹いた。私も思わず「おお」と感嘆の声を漏らす。パセリに至っては拍手喝采だ。
「さてと」
 サーシャは真面目な態度に切り替わった。
「知り合いの情報じゃもう5番街も警察に蹂躙じゅうりんされたらしいわ。8番街までくるのも時間の問題よ。もたもたしてる暇はないわ」
 サーシャの真剣な表情に私たちは頭から糸で吊るされたように背筋を伸ばす。
「パセリ」サーシャがパセリに顔を向けた。「荷物は私が用意しておいたわ。早く着替えてらっしゃい」
「うぇ!? は、はーい!」
 パセリはギョッと驚いた表情を浮かべて、焦りながら店内の隅にある階段を駆け上っていった。そういえば色々濃い出来事のせいで忘れていたが、アイツ、ネグリジェのままだったな、と私は思い出した。というか──、
「結局パセリもついてくるんですね」
 げっそりと、私が萎びた声を出すと、サーシャは「だってあなた1人だと不安だもの」と当然のように答えた。私はそんなに頼りなく見えるのか?
「さっきも足がすくんでたもんなぁ?」
 読心術でも使えるのか。パイロープが私の心情を読んで追い討ちをかけてくる。サーシャも「そうなのよぉ。この子必死に大人ぶってるけど、本当はとっても寂しがり屋でね」とケラケラ笑った。
 頭の上を飛び交う井戸端会議に私は顔を伏せて耐える。今に見ていろよ。私はいつか、アンタらが舌を巻くような立派な女になるんだから。
「パセリったら遅いわねぇ。もしかして余計な物を持って行こうとしてるんじゃないかしら……。ちょっと様子を見てくるわ」
 サーシャは時計を確認すると、呆れた顔で2階へと消えていった。私はホッと息を吐く。いつまでも話のネタにされ続けるのは勘弁だったので、パセリが鈍臭くてノロマで助かった。
 パイロープはサーシャが消えた階段を数秒見つめると、おもむろに興味を無くし表情をこそげ落として、ジーンズのポケットから〈タバコ〉とライターを取り出した。私は彼女の手の中の、白い棒に視線を奪われる。
「それ……、」
「ああ〈タバコ〉? 闇市でよく買ってんのよ。違法だし、そのうち肺が使い物にならなくなるから、アンタは真似すんなよ?」
 パイロープは左手の人差し指と中指で挟んだ〈タバコ〉を咥えると、右手でライターを持ち慣れた手つきで〈タバコ〉の先端を炙った。点火しやすいように少し俯く彼女の顔はオレンジ色の光を浴びて、彫りの深い場所に陰を生み出す。〈タバコ〉の先端から煙が上がり始めると、彼女はライターをポケットに仕舞い込み、代わりに銀色の小さなポシェットのようなものを取り出した。
 パイロープは咥えた場所からスーッと音を立てて吸い込む。直後、〈タバコ〉を口から離して息を吐いた。白い狼煙がゆらゆらと立ち昇って、空気に混じって消えていった。
「17の時だったかな、好奇心で吸ったんだわ。依存性があるって知らなくてね。今じゃ重度のリピーターさ」
 パイロープはまた〈タバコ〉を吸って、煙を吐いて、途中でポシェットの中に灰を捨てて。それを何度も繰り返した。店内が少しずつ煙臭くなる。依存性のある毒物の、どこか甘い匂い。
 パイロープの口から放たれる煙を吸ってじんわりとのぼせていく脳みそが、ふと、入り口付近の壁に飾られたたくさんの写真のうちの1枚に興味を示す。私はその1枚に吸い寄せられるように近づいた。男が2人、女が2人。薄っぺらな紙の中で、4人が和気あいあいと横に並んで肩を組んでいる。1番左端にいる、ブロンドの髪をひとつに束ねた女性はサーシャだろうか。顔に皺が一切なく、元気に満ち溢れた笑顔は今よりもずっと若い。
「懐かしいね。こんなのまだ残ってたんだ」
 私の隣にパイロープが移動してきた。〈タバコ〉の長さが半分になっている。彼女は指の間に挟んだ〈タバコ〉を指示棒のように動かした。
「1番左がサーシャ、その隣がアタシ」そんで、とサーシャは〈タバコ〉を右へと移動させる。「私の右にいるのがクラウン、1番右端がリコルド。私とサーシャ、そんでクラウンは幼馴染。リコルドは9年前くらいに知り合ったんだよ。きっと想像もつかないだろうけどさ、アタシたち4人、バカみたいに仲がよかったんだよ?」
 リコルド。私はパイロープの言葉を口の中で反芻はんすうする。逞しい身体に短く切り揃えられた髪、いかにもボーイスカウトをやっていましたという温厚な雰囲気の男が、リコルド。そして彼の隣で真っ白なシャツと細身のジーンズに身を包み、濡羽色の髪を風に遊ばせて淡く微笑む男が、クラウン。
 ──今日、友人を殺した男と、友人に殺された男。
 私の耳は頭からスーッと血が引く音を拾った。ライトは煌々と店内を照らしているというのに、なぜか目の前が薄暗い。きっと顔も青褪あおざめていることだろう。
「ほんと、おかしいよな」パイロープは自嘲気味に頬を歪めた。
「クラウンは小さい頃から海が好きだった。そして5年前、海の亡霊に取り憑かれた。でもアタシたちは誰1人としてアイツを見捨てなかった。とくにリコルドなんか、毎日甲斐甲斐しくクラウンの支離滅裂な戯言に付き合ってたよ」
 パイロープはふうーっと煙をふかす。〈タバコ〉の長さはもう4分の1しか残っていない。
「アタシたちはみんな気づいていた。この国がに人間を海から遠ざけようとしていることくらい。きっと海に何か隠してるんだってな。だからサーシャが抜け道を作ったんだよ。祖母から受け継いだ財産を投資して、ここいらの道路と土地を買い取って」
「大きな出費ですね。そんな事をしても、海の亡霊に取り憑かれる人が増えるだけですよ」
「まあね、でもそれがアタシたちの目的だったから」パイロープはポシェットに灰を落とす動作で私の意見を軽くあしらった。
「クラウンが本格的におかしくなったのは3年前」
「リコルドが消えてから?」
「そそ。喪に服すってやつ? 黒い服しか着なくなったし、アタシらともつるまなくなった。リコルドが海に攫われたと思ってんのか、それとも入水自殺したいのか。海への執着はさらに酷くなるし」
 そこまで喋ると、リコルドは吸い終わった〈タバコ〉をポシェットに捨てて、ポケットからまた新たに1本取り出した。
「〈タバコ〉だよ」
「……はい?」
 パイロープの突飛な発言に私は戸惑った。パイロープは写真の前に〈タバコ〉を掲げて、眩しそうに観察している。
「遺物に、海の亡霊に似てるだろ? 依存して、強く求めて、そして最後は毒にやられて破滅する。クラウンとおんなじさ」
 ぐしゃり。パイロープは〈タバコ〉を握り潰す。──ああ、あの1本でいったい何ネロするんだろうか。私は場違いな勘定を始めて意識を逸らそうと試みる。彼女のうれに満ちた感情が、ひしひしと肌を刺して辛かったのだ。
「アンタはさあ、海に何を求めてるわけ?」
「私ですか……、」数秒空けて私は答えた。「アナタたちと同じく、人類のために海の真実を暴こうと思ったんです」
「ダウト」
 パイロープは私の回答をバッサリと切り捨てて、2本目の〈タバコ〉に火を点けた。
「それは建前だろ。私はアンタのをきいてんのさ。取り憑かれてるわけでもない。なのに海に出たがってる。アンタは海に、何を求めてんの?」
「……笑わないですか」
「笑わない」
「夢を、夢を見るんです。毎日。夢の中で誰かが私を呼んでいる。海に来てって、海で待ってるって……。だから私は海に出る」
「……まあ、それで納得してやるよ」
 パイロープは煙をふかし、私の顔を真っ直ぐに見つめた。対する私は口を真一文字に閉じてその場に立ち尽くす。彼女の、私の本心を探る眼差しが、私の未熟な精神を突き刺すのだ。
 パイロープは何も言わない。私も何も言えない。

 ──海にいる間だけ、私は両親の残り香に浸れるから──
 成熟しきった彼女に、こんな幼稚な本心を晒すのは恥ずかしくて。私は連日の悪夢を免罪符にして逃げた。
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