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85.頑張らないで甘えて欲しい
しおりを挟むアラステアはベッドの上で目を覚ました。
眠る前の記憶が曖昧だ。今日の予定は何だっただろうかと思って体を起こしたところで、腰に気怠い痛みがあることに気づいた。
「あれ……僕……?」
アラステアの脳裏に眠る前の記憶が蘇る。しかし、それはまるで夢の中のことのような気がする。
発情期になったアラステアが、クリスティアンの香りを求めて彼のクロゼットに籠ったこと。
クリスティアンの香りに酔いしれながら激しく求めたこと。
項を噛むようにねだって、番になったこと。
「そうだ、番に……」
アラステアが自分の項に手をやると、指先にガーゼの感触がある。首の噛み痕に手当てがなされているのだろう。
どうやら、番になったのは夢の中でのことではなく、現実のことのようだ。
やっと番になれたのだと思うと、うれしい気持ちがこみ上げてくる。
夜着もシーツも清潔なものになっているのは、いつものようにクリスティアンが取り換えてくれたのだろうとアラステアは思った。
しかし……
「クリスティアン様は、どこ……?」
婚姻を結んでから後、ともに夜を過ごした次の朝に、クリスティアンがアラステアの傍らにいなかったことは一度もなかった。
ようやく番になれたのに……
発情期が収まりかけているものの、アラステアはまだ精神的に不安定だった。
「クリスティアン様、どこ……、どこにいるの……」
アラステアの目からぽろりと涙が零れる。
居ても立ってもいられなくなったアラステアは、泣きながらベッドから下りた。裸足のまま寝室にある浴室やクロゼットの扉を順に開けていくが、クリスティアンの姿はどこにもない。
「クリスティアン様、お部屋から、出て行ってしまったの……? 僕を置いて……?」
そう呟きながら、アラステアは控えの間に続く寝室の扉へ向かう。アラステアはクリスティアンの名を呼びながら、扉を開けた。
そこに置かれた椅子には、黒髪の美しい人が腰かけて書類を見る姿があった。その人はふと顔を上げ、アラステアの姿を見ると、慌てたように駆け寄って来たのだ。
「アラステア……!」
アラステアは名前を呼ばれ、温かい腕に抱きしめられた。そして、愛しい人の芳しい香りに包まれる。
アラステアは自分を抱きしめたその人を、ぎゅうと抱きしめ返した。
「クリスティアン様……、やっと見つけた」
「アラステア、そんな薄着で歩き回ってはだめじゃないか」
「だって、クリスティアン様がいないから」
「ああ、傍から離れてごめんね、アラステア。さあ、寝室へ戻ろう」
クリスティアンは薄い夜着一枚しか身につけていないアラステアの肩を抱いて、寝室へ戻った。
このような姿を、廊下にいる護衛に見せるわけにはいかない。そう思いながら。
そしてアラステアをソファに腰かけさせると、ガウンを持ってきて、着せかける。
クリスティアンに温かいお茶を淹れてもらい、アラステアはようやく落ち着きを取り戻した。落ち着いてくると、クリスティアンの姿が見えないだけで取り乱してしまった自分のことがひどく恥ずかしい。
クリスティアンはといえば、自分の姿が見えないだけで探し回るアラステアのことが愛しくてたまらない。
「え、ではあれからもう五日も経っているの?」
「ああ、そうか、アラステアは発情期だったからよく覚えていないのかな?」
「はい……」
アラステアはお茶を飲むふりをして俯く。発情期の間にクリスティアンを求めていたことは断片的には覚えているのだが、時間感覚がまったくなくなっているのだ。
この五日の間は、抱き合っている合間に、クリスティアンがアラステアに食事をさせ、浴室で身体を洗い、シーツを換えて過ごしていたという。発情期のオメガの世話をするのは、アルファの本能だ。クリスティアンが語るその内容に、アラステアは赤面した。
そう、クリスティアンに何もかも世話をさせていたのだ。あれもこれも。
アラステアはそれをものすごく恥ずかしいと思っているのだが、クリスティアンがあまりにも嬉しそうなので、仕方ないかとも思ってしまう。
ようやく冷静になってきたところで、アラステアの頭には別のことが思い浮かんだ。
「ああっ、急に発情期になってしまったのだけど、仕事はっ」
「発情期の三日目ぐらいからは、アラステアが眠っている間に急ぎの仕事だけ指示していたから大丈夫だよ」
発情期に入るとわかって、すぐに家令に指示を出していたため、その間の仕事も滞ってはいない。
クリスティアンも、番になってすぐの頃には完全に理性を失っていた。しかし、発情期の三日目頃にはアラステアのフェロモンの量も減少してきたため、アラステアが深い眠りについているときに薬を飲んで仕事をしていたという。
アルファとオメガはこんなに違うのかと思うと、アラステアは少し落ち込んだ。
「可愛いオメガを守るために働くのはアルファの務めだ。甘えてくれた方が嬉しいよ」
しょんぼりしているアラステアも可愛らしくて、クリスティアンはその身体を抱き寄せてこめかみにキスをする。
「わたしたちは番になったのだ。遠慮しないで存分に甘えて良いのだよ」
「クリスティアン様、はい、頑張って甘えます」
アラステアはクリスティアンの言葉を聞いて、ようやく番になったのだという実感が湧いてきた。そして、ローランドが言っていた『思い切り甘える』のは、この場面なのだと思ったのだ。
そう、頑張って甘えようと、アラステアはそう考えたのであるが。
「アラステア、わたしは頑張らないで甘えて欲しいかな」
「え? 頑張っては駄目なの?」
「いや、甘えるのは頑張るものではないだろう」
「そういうものなの……?」
「そうだね……」
クリスティアンの言葉を聞いてきょとんとするアラステアもとても可愛らしい。しかし、頑張って甘えるというのは何か違うだろうとクリスティアンは思う。複雑な気持ちを抱えながら、クリスティアンは愛しいアラステアを抱き寄せて、額にキスをした。
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