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83.巣作り

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「アラステア様はもうお休みになりました」

 外出から帰って来たクリスティアンは、侍従からそう伝えられた。アラステアは夕食も食べなかったという。
 アラステアは、王宮のローランドのところに行っていたはずであるが、しゃべりすぎて疲れたのだろうか。
 ファクツ皇国に仕掛けていることについて、アラステアとローランドには、まだ話してはいない。二人とも自分たちが何か動いていることには気づいているだろうが、国の機密に関するような可能性にあることについては触れてこない。ローランドはファクツ皇国に関することだと薄っすら気づいているだろうし、アラステアはコートネイ商会が関係していることを知っているだろう。だが、お互いの情報もすり合わせてはいないだろう。もっともアラステアとローランドが王宮でそのような話をしていれば、アルフレッドとクリスティアンもすぐに知るところになるのであるが。

 クリスティアンはそのようなことを考えながら、眠っているアラステアの顔を見ようと寝室の扉を開けた。
 部屋の中から梔子の花のような香りが流れて来て、クリスティアンの鼻を掠める。これまでも幾度か感じたことのある、アラステアの香りだ。

「アラステア……、発情期が始まるのか……?」

 クリスティアンは愛しいオメガのフェロモンの香りに、思わず笑みを浮かべて呟いた。
 漂ってくる香りが薄いので、本格的な発情期は始まっていないのだろう。
 婚姻を結んで初めての発情期が来たのだと、クリスティアンの胸は躍る。これならば、明日の朝には本格的な発情期に入るだろうと予測して、明日以降、しばらく仕事を休む設定をしなければならないとクリスティアンは考えた。
 家令にその旨を伝える前にアラステアの様子を見ようと、クリスティアンはベッドに歩み寄る。

「アラステア……?」

 ベッドには誰もいない。上掛けを捲って手を当ててみてもシーツは冷たくなっている。
 クリスティアンが灯りをつけて部屋を見渡すと、ローテーブルの上に空になった水差しとコップがある。アラステアの姿はどこにもない。
 アラステアとクリスティアンは、ほとんどの夜を伴侶の寝室のベッドで過ごしてはいるが、それぞれの部屋にもベッドは備えられている。
 自分の部屋のベッドで眠っているのかもしれない。
 そう考えたクリスティアンは、アラステアの部屋に続く扉を開けた。ひんやりした室内には人の気配はない。そして、アラステアのフェロモンの香りもほとんどしない。
 ここにはいない……

「どこに行った。アラステア……」

 しかし、寝室にたどり着くまでアラステアのフェロモンの香りはしなかったため、寝室からは出ていない可能性が高いのではないかとクリスティアンは思った。
 廊下にいる護衛にも確認したが、アラステアは廊下には出ていないとのことだ。窓も内側から施錠されている。
 アラステアが見つかったら、このまま発情期を過ごすことになるかもしれない。
 護衛に家令を呼んでくるように伝言をして、クリスティアンは寝室から自分の部屋へ続く扉を開けた。

「え……?」

 扉の向こうは、寝室よりも濃い梔子のような香りがした。
 アラステアはここにいるのか、ここを通ってどこかへ移動したのか。そう思ったクリスティアンはまず自分のベッドに足を運ぶ。そこはベッドメイクされたままの状態で、使われた形跡はなかった。試しに廊下へ出る前の控えの間への扉を開けたが、そこにはアラステアの香りはない。クリスティアンの部屋にだけこれだけアラステアのフェロモンが濃厚に香っているからには、この部屋のどこかにいるに違いない。クリスティアンはそう考えた。
 その梔子のような香りを吸い込むたびに、クリスティアン自身の身体の熱が上がっていくのがわかる。
 早くアラステアを見つけなければ。この間にも、発情期の熱に苦しんでいるかもしれないのだ。
 クリスティアンは少しばかりの焦りを感じていた。

 やがて部屋にやって来た家令に、クリスティアンは今夜から明日以降の仕事や連絡先に指示をする。

「は、かしこまりました。でもアラステア様は、その、本当にこちらにいらっしゃるのですか?」
「ああ、アラステアの香りが濃くなっているから間違いないと思う。もしも、探しても見つからなかったら声をかけるが、何もなければそのまま発情期休暇に入ったと皆に伝えてくれ」
「承知いたしました。食事と飲み物はワゴンにのせて、ベータの侍従に寝室の控えの間に運ばせます」
「ああ、それで頼む。他に必要なものがあれば、控えの間にメモを置いておく」

 家令はベータでフェロモンの香りを感じることはできない。アラステアが見つかっていないという言葉に戸惑いながらもクリスティアンの言葉に頷いた家令は、静かにその場を辞した。
 そして、クリスティアンは落ち着いている場合ではない。この部屋のどこかにいるはずのアラステアを探さなければならないのだ。

「どこだ……、アラステア」

 クリスティアンは、ベッドの裏やソファの陰など、部屋中を探す。そして、部屋の中を歩き回っているうちに、ふと香りの濃くなっている場所を見つけた。
 そこは、クリスティアンのクロゼットだ。

「ここか?」

 クリスティアンはクロゼットの扉を開けた。
 扉を開けた途端に、ぷわりとこれまでで一番濃厚なフェロモンが匂い立つ。梔子のような甘い、アラステアの香りだ。
 クロゼットの中の衣服は床に落ちていて、丸く並べられている。その真ん中で、もぞもぞと動く姿が見えた。

「アラステア……?」

 クリスティアンは愛しいアラステアの名前を呼ぶと、積み上げられた自分の衣服をかき分ける。
 オメガの巣作りだ。
 そう考えたアルファは、自分の身体の中の温度が一気に上がるのを感じる。
 巣の真ん中にいるのはプラチナブロンドの髪の美しいオメガだ。クリスティアンはその頭を撫で、華奢な身体を抱き寄せた。アラステアの腕には、クリスティアンのシャツとジャケットが抱えられている。

「アラステア、こんなところで何をしているの?」
「うふふ。ここはね、とても良い匂いがするの。ねえ、良い匂いに囲まれて、幸せ……」
「そう、巣を作ったのかな?」
「そうなの……! 上手にできているでしょう? クリスティアン様の良い匂いでいっぱい……」
「ああ、上手にできている……」

 喜びに満ちたクリスティアンの問いに、アラステアはうれしそうに頬を染めて答える。紫色の瞳は潤み、その身体からは得も言われぬ芳香が漂っている。
 これはたまらない。
 クリスティアンはアラステアが愛しすぎて、脳が焼き切れそうだった。
 アラステアは本格的な発情期に入っているのだ。クリスティアンは、自分もこの香りで我を忘れてしまう前に寝室へ移動しなければならない。その肌を撫で、顔を埋めたいという衝動を懸命に振り払う。

「アラステア、寝室に行こう」
「え、いや……。ここがいいの。良い匂いなの……。巣も上手にできたの……」
「アラステア、もっと良い匂いをあげるから、ね」

 クリスティアンはそう言うと、アラステアを抱き寄せてその顔を自分の襟もとへ寄せた。するとアラステアはすぐに大人しくなって、一生懸命深呼吸を始めた。クリスティアンはその可愛らしさにくらりとしたが、クロゼットの中で発情期を過ごすわけにはいかない。
 鉄の意思を持ってアラステアを抱き上げたクリスティアンは、クロゼットを出ると、寝室へ向かった。




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