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52.消えてなくなりたい
しおりを挟むクリスティアンがいつものように学院で車から降りた時、ふわりと梔子のような香りがした。
今は、梔子の季節ではない。
オメガのフェロモンの香りであろうか。心惹かれる芳しい香りだ。
そう考えて身構えたクリスティアンであったが、香りのする方を見ると、ラトリッジ侯爵家の車が止まっている。
これはアラステアの香りに違いない。
梔子のような香りを感じ取ったクリスティアンには、そのように不思議な確信があった。それは、いつもアラステアの傍にいるクリスティアンのアルファの本能に刷り込まれたものだったのかもしれない。
護衛に声をかけてラトリッジ侯爵家の車の前に足を運んだ瞬間にクリスティアンが見たのは、ちょうどアラステアのプラチナブロンドの髪が揺れ、倒れようとする場面だった。
「アラステア!」
クリスティアンはアラステアに駆け寄って、その華奢な体を抱きとめた。
医務室で緊急薬を飲んだのち、用心のために早退したクリスティアンの私室へ、アルフレッドがやってきた。
「アルフレッド兄上、お帰りが早いのではないですか?」
「我の可愛い弟の体調不良だからな。既に単位は修得済みであるから、大丈夫だ」
アルフレッドの言葉は、心配しているのか揶揄っているのかわからないものだ。その王族らしい微笑を見てため息をついたクリスティアンは、侍従に茶を淹れさせると、会話の聞こえない位置まで下がらせた。
「其方らしくない行動であったな。しかし、愛しいオメガの香りがしたのであれば、仕方ないことなのか。
我も、ローランドの香りであったのならその場に駆け込んでおったのかもしれぬ」
「アルフレッド兄上……、王族として不注意な行動をとりました。反省しております」
「まあ良い。相当数の護衛を伴っておったのだから、其方も危険は回避できると判断していたのであろう。
事後についても、緊急薬はよく効いておるし、アラステアにはローランドがついていったことであるしな」
真顔のアルフレッドから遠回しに行動を咎められたと判断したクリスティアンは、自分の非を認めた。オメガフェロモンの香りがする場所へ自ら足を運んだのだ。その香りがトラップであり、陥れられる可能性もあったのだから、クリスティアンの行動は迂闊であったと言えるだろう。
ただ、アルファには、自分のものだと決めたオメガの香りを嗅ぎ分ける能力があるといわれている。そのため、今回は自分の婚約者であるアラステアの危機だと判断し、護衛を連れてその場に足を運んだのだ。おそらく、問題とされることは無いだろう。
その後、国王である父に今回の件について報告したときも、問題事象として受け止められてはいないようであった。
しかし今後、アラステアのフェロモンを真似て作ったトラップが仕掛けられる可能性は高まったといえる。オネスト王国の第三王子は、婚約者の危機であれば駆けつけるということを、周囲に見せてしまったのだ。
これからのクリスティアンは、より身辺に注意をしていかなければならない。
◇◇◇◇◇
熱くなっていく体を抱きとめてくれたのは、僕の婚約者。
赤い瞳と黒い髪が見えた。とても綺麗な人。大好きな人。
大好きな人の、大好きな香りがする。
離れたくない。だけど、ここにいてはいけない。
僕の体がおかしくなっている。
だから、ここにいてはいけない。いけない。
クリスティアンさま……
良い香り。大好き。
クリスティアンさまから離れたくない。
いつか、離れないといけないの?
いやだ。
離れたくない。離れたくない。
口の中にほのかに甘い薬が入れられた。教えられた通り噛んで飲み込む。
嫌だ、この香りは僕のものだ。離れたくない。
……僕を、離さないで。お願い。お願い。
「さあ、アラステア、これをあげよう」
「ローランド、ありがとう……。うふふ」
ローランドが大好きな人の香りを手渡してくれた。
ああ、優しいローランド。これで安心。大好きな人の香りを、胸いっぱいに吸い込む。
これで大丈夫。頭がぼんやりとしてきた。
車の中で僕の頭を優しく撫でてくれる。これは、ローランド?
とても気持ち良い。
さっきローランドがくれたものから、クリスティアン様の良い香りがする。
また、胸いっぱいにその香りを吸い込んで安心する。
体が熱いのが、収まってきた。
もう大丈夫なのかな……
なんだか、眠い……
「アラステアは、クリスティアン様のことが好きなのかな?」
「うん……。だいすき……」
「それは良かった。これでわたしも安心だ」
「ローランドがあんしん……?」
「薬が効いてきたようだね。ゆっくりお休み、アラステア」
「ローランド……、おやすみなさい……」
アラステアが目を覚ますと、自分のベッドの天蓋が見えた。
頭も体もぼんやりとしているのを感じながらゆっくりと起き上がり、カーテンを捲ると、侍女のエイミが控えている。
エイミは、アラステアの顔を見ると、ぱっと表情を明るくした。
「アラステア様、お目覚めになられましたか! ご気分はいかがでしょうか?」
「え、大丈夫……かな」
「では、奥様をお呼びしてきますね」
エイミは嬉しそうな笑顔をアラステアに向けると、急ぐように寝室のドアから出ていく。
エイミの少し落ち着きの無い様子に、何かあったのかとアラステアは首を傾げた。ふと、ベッドの自分が眠っていた辺りに目をやると、制服の上着が見える。
アラステアは、その上着を手元に引き寄せてみる。それは、アラステアのものよりも大きく見える。
これは、自分のものではない。
そう思ったアラステアは、その上着をよく見ようと持ち上げる。すると、好ましい香りがふわりと立ち上った。
「……あっ!」
ぼんやりとした頭で眠る前のことを考えていたアラステアは、その香りを感じるとともに学院での出来事を思い出した。
離れたくないと言って、クリスティアンにしがみついていたことを。
子どものように駄々をこねていたことを。
ローランドからこの上着をもらって喜んでいたことを。
「ああああああああ! 僕は、なんて恥ずかしいことを……」
自分がとった行動のあまりの恥ずかしさに、アラステアは上着に顔を埋めてベッドの中を転がった。
そのようなことをしても、どうにもならないのだが。
「ああもう、この世から消えてなくなりたい……!」
アラステアは羞恥のあまり、心の底からそう願ったのだった。
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