上 下
52 / 88

52.消えてなくなりたい

しおりを挟む

 クリスティアンがいつものように学院で車から降りた時、ふわりと梔子のような香りがした。

 今は、梔子の季節ではない。
 オメガのフェロモンの香りであろうか。心惹かれる芳しい香りだ。

 そう考えて身構えたクリスティアンであったが、香りのする方を見ると、ラトリッジ侯爵家の車が止まっている。

 これはアラステアの香りに違いない。

 梔子のような香りを感じ取ったクリスティアンには、そのように不思議な確信があった。それは、いつもアラステアの傍にいるクリスティアンのアルファの本能に刷り込まれたものだったのかもしれない。
 護衛に声をかけてラトリッジ侯爵家の車の前に足を運んだ瞬間にクリスティアンが見たのは、ちょうどアラステアのプラチナブロンドの髪が揺れ、倒れようとする場面だった。

「アラステア!」

 クリスティアンはアラステアに駆け寄って、その華奢な体を抱きとめた。




 医務室で緊急薬を飲んだのち、用心のために早退したクリスティアンの私室へ、アルフレッドがやってきた。

「アルフレッド兄上、お帰りが早いのではないですか?」
「我の可愛い弟の体調不良だからな。既に単位は修得済みであるから、大丈夫だ」

 アルフレッドの言葉は、心配しているのか揶揄っているのかわからないものだ。その王族らしい微笑を見てため息をついたクリスティアンは、侍従に茶を淹れさせると、会話の聞こえない位置まで下がらせた。

「其方らしくない行動であったな。しかし、愛しいオメガの香りがしたのであれば、仕方ないことなのか。
 我も、ローランドの香りであったのならその場に駆け込んでおったのかもしれぬ」
「アルフレッド兄上……、王族として不注意な行動をとりました。反省しております」
「まあ良い。相当数の護衛を伴っておったのだから、其方も危険は回避できると判断していたのであろう。
 事後についても、緊急薬はよく効いておるし、アラステアにはローランドがついていったことであるしな」

 真顔のアルフレッドから遠回しに行動を咎められたと判断したクリスティアンは、自分の非を認めた。オメガフェロモンの香りがする場所へ自ら足を運んだのだ。その香りがトラップであり、陥れられる可能性もあったのだから、クリスティアンの行動は迂闊であったと言えるだろう。
 ただ、アルファには、自分のものだと決めたオメガの香りを嗅ぎ分ける能力があるといわれている。そのため、今回は自分の婚約者であるアラステアの危機だと判断し、護衛を連れてその場に足を運んだのだ。おそらく、問題とされることは無いだろう。
 その後、国王である父に今回の件について報告したときも、問題事象として受け止められてはいないようであった。

 しかし今後、アラステアのフェロモンを真似て作ったトラップが仕掛けられる可能性は高まったといえる。オネスト王国の第三王子は、婚約者の危機であれば駆けつけるということを、周囲に見せてしまったのだ。
 これからのクリスティアンは、より身辺に注意をしていかなければならない。
 


◇◇◇◇◇



 熱くなっていく体を抱きとめてくれたのは、僕の婚約者。
 赤い瞳と黒い髪が見えた。とても綺麗な人。大好きな人。
 大好きな人の、大好きな香りがする。
 離れたくない。だけど、ここにいてはいけない。
 僕の体がおかしくなっている。
 だから、ここにいてはいけない。いけない。

 クリスティアンさま……
 良い香り。大好き。
 クリスティアンさまから離れたくない。
 いつか、離れないといけないの?
 いやだ。
 離れたくない。離れたくない。

 口の中にほのかに甘い薬が入れられた。教えられた通り噛んで飲み込む。

 嫌だ、この香りは僕のものだ。離れたくない。
 ……僕を、離さないで。お願い。お願い。

「さあ、アラステア、これをあげよう」
「ローランド、ありがとう……。うふふ」

 ローランドが大好きな人の香りを手渡してくれた。
 ああ、優しいローランド。これで安心。大好きな人の香りを、胸いっぱいに吸い込む。
 これで大丈夫。頭がぼんやりとしてきた。


 車の中で僕の頭を優しく撫でてくれる。これは、ローランド?
 とても気持ち良い。
 さっきローランドがくれたものから、クリスティアン様の良い香りがする。
 また、胸いっぱいにその香りを吸い込んで安心する。
 体が熱いのが、収まってきた。
 もう大丈夫なのかな……
 なんだか、眠い……

「アラステアは、クリスティアン様のことが好きなのかな?」
「うん……。だいすき……」
「それは良かった。これでわたしも安心だ」
「ローランドがあんしん……?」
「薬が効いてきたようだね。ゆっくりお休み、アラステア」
「ローランド……、おやすみなさい……」




 アラステアが目を覚ますと、自分のベッドの天蓋が見えた。
 頭も体もぼんやりとしているのを感じながらゆっくりと起き上がり、カーテンを捲ると、侍女のエイミが控えている。
 エイミは、アラステアの顔を見ると、ぱっと表情を明るくした。

「アラステア様、お目覚めになられましたか! ご気分はいかがでしょうか?」
「え、大丈夫……かな」
「では、奥様をお呼びしてきますね」

 エイミは嬉しそうな笑顔をアラステアに向けると、急ぐように寝室のドアから出ていく。

 エイミの少し落ち着きの無い様子に、何かあったのかとアラステアは首を傾げた。ふと、ベッドの自分が眠っていた辺りに目をやると、制服の上着が見える。
 アラステアは、その上着を手元に引き寄せてみる。それは、アラステアのものよりも大きく見える。

 これは、自分のものではない。

 そう思ったアラステアは、その上着をよく見ようと持ち上げる。すると、好ましい香りがふわりと立ち上った。

「……あっ!」

 ぼんやりとした頭で眠る前のことを考えていたアラステアは、その香りを感じるとともに学院での出来事を思い出した。

 離れたくないと言って、クリスティアンにしがみついていたことを。
 子どものように駄々をこねていたことを。
 ローランドからこの上着をもらって喜んでいたことを。

「ああああああああ! 僕は、なんて恥ずかしいことを……」

 自分がとった行動のあまりの恥ずかしさに、アラステアは上着に顔を埋めてベッドの中を転がった。
 そのようなことをしても、どうにもならないのだが。

「ああもう、この世から消えてなくなりたい……!」

 アラステアは羞恥のあまり、心の底からそう願ったのだった。

 
 

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

【完結】聖人君子で有名な王子に脅されている件

綿貫 ぶろみ
BL
オメガが保護という名目で貴族のオモチャにされる事がいやだった主人公は、オメガである事を隠して生きていた。田舎で悠々自適な生活を送る主人公の元に王子が現れ、いきなり「番になれ」と要求してきて・・・ オメガバース作品となっております。R18にはならないゆるふわ作品です。7時18時更新です。 皆様の反応を見つつ続きを書けたらと思ってます。

愛想を尽かした女と尽かされた男

火野村志紀
恋愛
※全16話となります。 「そうですか。今まであなたに尽くしていた私は側妃扱いで、急に湧いて出てきた彼女が正妃だと? どうぞ、お好きになさって。その代わり私も好きにしますので」

婚約破棄とか言って早々に私の荷物をまとめて実家に送りつけているけど、その中にあなたが明日国王に謁見する時に必要な書類も混じっているのですが

マリー
恋愛
寝食を忘れるほど研究にのめり込む婚約者に惹かれてかいがいしく食事の準備や仕事の手伝いをしていたのに、ある日帰ったら「母親みたいに世話を焼いてくるお前にはうんざりだ!荷物をまとめておいてやったから明日の朝一番で出て行け!」ですって? まあ、癇癪を起こすのはいいですけれど(よくはない)あなたがまとめてうちの実家に郵送したっていうその荷物の中、送っちゃいけないもの入ってましたよ? ※またも小説の練習で書いてみました。よろしくお願いします。 ※すみません、婚約破棄タグを使っていましたが、書いてるうちに内容にそぐわないことに気づいたのでちょっと変えました。果たして婚約破棄するのかしないのか?を楽しんでいただく話になりそうです。正当派の婚約破棄ものにはならないと思います。期待して読んでくださった方申し訳ございません。

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

【完結】え、別れましょう?

須木 水夏
恋愛
「実は他に好きな人が出来て」 「は?え?別れましょう?」 何言ってんだこいつ、とアリエットは目を瞬かせながらも。まあこちらも好きな訳では無いし都合がいいわ、と長年の婚約者(腐れ縁)だったディオルにお別れを申し出た。  ところがその出来事の裏側にはある双子が絡んでいて…?  だる絡みをしてくる美しい双子の兄妹(?)と、のんびりかつ冷静なアリエットのお話。   ※毎度ですが空想であり、架空のお話です。史実に全く関係ありません。 ヨーロッパの雰囲気出してますが、別物です。

あなたの子ですが、内緒で育てます

椿蛍
恋愛
「本当にあなたの子ですか?」  突然現れた浮気相手、私の夫である国王陛下の子を身籠っているという。  夫、王妃の座、全て奪われ冷遇される日々――王宮から、追われた私のお腹には陛下の子が宿っていた。  私は強くなることを決意する。 「この子は私が育てます!」  お腹にいる子供は王の子。  王の子だけが不思議な力を持つ。  私は育った子供を連れて王宮へ戻る。  ――そして、私を追い出したことを後悔してください。 ※夫の後悔、浮気相手と虐げられからのざまあ ※他サイト様でも掲載しております。 ※hotランキング1位&エールありがとうございます!

公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-

猫まんじゅう
恋愛
 そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。  無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。  筈だったのです······が? ◆◇◆  「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」  拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?  「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」  溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない? ◆◇◆ 安心保障のR15設定。 描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。 ゆるゆる設定のコメディ要素あり。 つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。 ※妊娠に関する内容を含みます。 【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】 こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)

処理中です...