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51.発情期

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 アラステアは、クリスティアンからの接触がどんどん増えてきていることに戸惑っていた。

 クリスティアンは婚約が決まった頃からアラステアの手を握ったり、学院で歩くときに手を繋いだりはしていた。それが最近になって、腰を抱いたり抱きしめたりといった体を接触させるような行動をする回数が明らかに増えている。
 これは、婚約者としては当たり前のことなのだろうか。そして、いずれ白紙に戻す婚約者同士としてはどうなのだろうか。
 アラステアは、クリスティアンからの身体接触を、どう考えたら良いのだろうかと思い悩んでいた。

「あら、殿下に触られるのは嫌なのかしら?」
「いえ、そういうわけではないのだけど」
「まあまあ、ステアったら、恥ずかしいのね」
「お祖母様、揶揄わないでください……」
「うふふ」

 アラステアは祖母と二人でお茶の時間を過ごしている時に、クリスティアンの行動について相談してみたのだ。そこで祖母から返って来たのは、嬉しそうな笑顔であった。

「ステアが嫌だというのなら、旦那様からクリスティアン殿下にお話をしてもらうけれど、そういうわけではないのね」
「恥ずかしい気持ちと、それと、落ち着かない感じがあって……」
「そうね、殿下はアルファでいらっしゃるし、オメガのステアが落ち着かなくなるのは本能的なものかもしれないわね。落ち着かないのならそう伝えてみたらどうかしら」
「それは、失礼にはならないの?」
「これから伴侶になるのだから、自分の気持ちを伝える練習はした方が良いわ。
 でも……、クリスティアン殿下は、ステアのことが大好きで大切なのね」

 祖母はそう言ってお茶を飲むと、少女のように楽しそうな雰囲気を纏いながら、アラステアとクリスティアンの学院生活のことを詳しく聞いてくるのだった。

 嫌なことをされているのであれば、祖父母からクリスティアンに話をしてくれるということだが、アラステアは戸惑っているだけで嫌だと思っているわけではない。
 アラステアはお茶の時間が終わるまで、祖母からクリスティアンの行動を根掘り葉掘り聞かれることになった。最後には、まるでアラステアが惚気ているような雰囲気になってしまったのだ。

 祖父母は、アラステアとクリスティアンは想いあって婚約したものだと信じている。そんな祖父母にすれば、二人は婚約者らしく仲を深めているだけに見えるのだろう。キスをしたり一線を越えたりしているわけではないのだ。
 クリスティアンがラトリッジ侯爵家を訪問している時に、アラステアの隣に体を寄せて腰かけていることも、微笑ましく思って見ているに違いない。

 祖母に話をした後のアラステアは、クリスティアンに触れられること以上に、これから婚約が白紙になった時にがっかりするだろう祖父母のことを考えて、ため息を吐いた。



「ああでも……。そうね、ステア、主治医の先生の健診だけど、回数を増やすわね?」
「……? はい、お祖母様」

 祖母との話の最後に付け加えられたそれがどういう意味なのか、その時点ではアラステアは理解できていなかった。




◇◇◇◇◇




 その日のアラステアは、目覚めたときから体が重かった。しかし、熱があるわけでもないので制服に着替えて学院に向かった。
 食欲もないし、風邪気味なのかもしれないと考えたアラステアは、ハドリーに授業の途中で迎えに来てもらうかもしれないなどと話をしながら、車に乗り込んだ。
 車の中でもぼんやりとしてはいたのだが、学院に到着して車から降りた途端に眩暈に襲われ、アラステアはその場に倒れた。

「アラステア様!」
「アラステア!」

 アラステアの耳にハドリーの声と、そして、優しくて好ましい声が聞こえる。
 ふわりと自分を抱きしめる人から好ましい香りがする。それは、アラステアが求める香りだ。
 
 体が熱い。手足に力が入らない。自分の心臓の鼓動が聞こえる。
 ああ、ばくばくと心臓の音がうるさすぎる。好ましい声が聞こえなくなるではないか。

 そんなことを考えながらアラステアが目を開けると、黒い髪をした赤い瞳の美しい人が自分を見ていた。

「クリスティアン……さま……?」
「アラステア、発情抑制の緊急薬は持っているか? いや、わたしは離れた方が良いのか」

 アラステアは、いつも落ち着いているクリスティアンが何故かひどく焦っている様子なのが不思議で仕方ない。
 そしてクリスティアンは、常ならぬアラステアの様子に困惑していた。

 潤んだ紫の瞳にうっすらと赤く染まった頬、そして濃密な梔子のような香り。いつもアラステアが愛用している薔薇の香油とは全く違う芳しい香りだ。

 クリスティアンは、アラステアが発情期を迎えてしまったと考えた。
 一刻も早く発情抑制の緊急薬を飲ませなければならない。そして、医務室に行くよりは、このまま車に乗ってラトリッジ侯爵邸に帰るのが無難だ。クリスティアンも、そして従者のハドリーもそのように判断していた。

「クリスティアンさま、良い香りがします……」
「アラステア……!」

 アラステアは、クリスティアンの襟にしがみつくと、彼の香りを確かめるかのように胸に顔を寄せた。アラステアはおそらくクリスティアンのアルファフェロモンの香りを感じ取っているのだろう。
 クリスティアンは困惑しながらもアラステアから離れようと考えてはいるが、腕の中のその人を離せないでいる。クリスティアンの中のアルファの本能が、愛しいオメガを手放したくないと言っているかのようだ。

「クリスティアン、アラステアから離れないと大変だよ。緊急薬はわたしが飲ませよう」
「ローランド、良かった……!」

 ローランドは、護衛の手を借りてクリスティアンをアラステアから引き離そうとした。しかし、それは簡単なことではなかった。

「いや、離れたくない……」
「アラステア、手を放して」
「いや……」

 アラステアはどうしてもクリスティアンから離れようとしない。ローランドは二人の間に割って入りながら、アラステアの内ポケットから発情抑制の緊急薬を取り出す。

「仕方ないな、クリスティアン上着を脱いでアラステアに渡して」
「あ、ああ」

 クリスティアンはアラステアに捕まえられたままの状態で、護衛の手を借りて上着をそろりと脱ぐ。その間にローランドはアラステアの口の中に緊急薬を入れた。

 これで少しは落ち着くことだろう。
 ローランドはそう思いながら、アラステアの頭を撫でた。

「さあ、アラステア、これをあげよう」
「ローランド、ありがとう……。うふふ」

 クリスティアンの上着を与えられたアラステアは可愛らしい笑顔を浮かべると、襟元の内側に顔を埋めたまま大人しくなった。

「クリスティアン、わたしが、ラトリッジ侯爵邸まで送って行こう。
 クリスティアンも薬を飲んで医務室に行った方が良さそうだね」
「ローランド、ありがとう」
「どういたしまして」

 ハドリーと護衛騎士がアラステアを抱えあげて車に乗せると、その隣にローランドが乗り込む。
 ウォルトン公爵家の令息が付き添うということに、ハドリーやラトリッジ侯爵家の者は恐縮して断ろうとした。しかし、オメガの者がいないことを理由にローランドは半ば強引に車に乗り込んでいったのだ。

 その様子を見送りながら、クリスティアンは携帯している緊急薬を口に入れてかみ砕いた。
 
 
 
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