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7.筋肉痛の日々
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次の日からSクラスでのアラステアの学習が始まった。
「アラステア、また姿勢が崩れているよ。背筋を伸ばして、顎を引いて。そうそう。美しい立ち姿は高位貴族になくてはならないものだからね」
「はっはい」
「ああ、素直で可愛い」
ローランドはそう言いながら、表面上は貴族らしい感情のわからない笑顔を浮かべている。しかし、今は上機嫌らしい。アラステアは、ローランドと一緒に過ごすうちにそういうことはわかるようになったものの、実際に公爵家令息の本気を出されると、まったく感情が読み取れなくなるらしい。ローランドがアラステアに求めているものもそれだと明言されている。
そう、アラステアは学院での学業の他に、ローランドから高位貴族としての立ち居振る舞いについての教えを受けていた。
本来であれば、公爵令息であるローランドがそんなことをする必要はない。しかし、「アラステアが可愛いから」というよくわからない理由で、ローランドはアラステアを構い倒していた。
美しい姿勢を保つには、相応の筋肉が必要になる。もともとアラステアは、オメガだから筋肉が付きにくい。そのうえ、幼い頃に病弱だったこともあって、まったく鍛えられていないのだ。
王立学院は課題も多く、放課後は図書館でローランドやクリスティアンとそれに取り組んだり、家に帰ってからジェラルドに教えを請うたりしていたが、アラステアにとっては学業の方が乗り越えやすいものであったといえる。
祖母もローランドが教えてくれることが素晴らしいからと、その成果を家の中でも示すようにと言ってくる。そのうえアラステアには、祖父母から未来の侯爵としての学びが与えられているのだ。
結局アラステアが姿勢を崩すことができるのは、就寝前に湯あみをしてから起床までの間だけだ。アラステアの毎日は、そんな形で安定しつつあった。
「アラステア様、ものすごく体が凝っているようですよ」
「恥ずかしいから、言わないでよ」
湯あみの後に侍女がアラステアにマッサージをしてくれている横で、ハドリーが夜着を用意しながら苦笑している。
アラステアが筋肉痛になるなどということは、幼いころから仕えてくれているハドリーの記憶にはない。そんなに動けるぐらいアラステアが健康になったともいえる。しかしながら、ただ美しい姿勢を保つという訓練をしているだけなのに、そこまで筋肉が凝り固まってしまうのだ。
鍛え方が足りない。
祖父母も、ジェラルドもハドリーもそう思っているのだろうが、一番それを痛感しているのはアラステア自身だった。
「エイミ、ありがとう。本当にマッサージが上手だね。お祖母様が自慢なさるほどのことはあるよ」
「お褒めくださいまして、ありがとうございます」
アラステアに褒められたエイミは慎ましい微笑を浮かべた。エイミは祖母の侍女で、マッサージが上手だからということから、最近アラステアの元に派遣されている。
「アラステア様がご愛用の香油は良い香りでございますね。奥様もいろいろな種類のものをお使いですが、従来の香りとは少し違うような……」
「ああ、それはお兄様からコートネイ商会で新しく売り出すものを試してみてとお願いされたものなの。自分の好みの香りに調合してもらえるのだって」
「まあ、素敵ですね」
ジェラルドは、コートネイ商会を自分の代で更に大きくする野望を持っている。アラステアにすれば、今でも十分大きな商会のように思うが、ジェラルドにすればまだ不足らしい。手堅い商売と新規事業の開発。その両方を身に着けるために日夜働いているのだ。ジェラルドは学院でも優秀であったし様々な意味で目立っていたという話は、ローランドとのつながりで昼食をご一緒する機会ができたアルフレッドから聞いたことだった。
「我はジェラルドを側近にしたかったのだが、うまく逃げられてしまってね」
「兄が不敬なことをいたしまして、申し訳なく」
「いや、むしろコートネイのように他国との貿易をうまくやっている商会が大きくなる方が、我が国の発展のためになるだろう。適材適所だとクリスティアンからも助言されたのだ」
「当然でしょう。コートネイ伯爵令息には、商売に専念してもらう方が憂いなく発展に進めます」
ジェラルドがアルフレッドを袖にしたことは、大変なことではないのか。そう思ったアラステアは、青くなって思わず詫びを入れた。しかし、アルフレッドは鷹揚に微笑んでいるし、クリスティアンはそれが当然という顔をしている。
クリスティアンは、未来の予測を時々口にする。それは、自分たちにはわからない何かを知っているかのように聞こえて、アラステアはそのたびに不思議な気分になった。ローランドもアルフレッドはその会話を当然のこととして受け止めているので、アラステアはそれについて疑問を差し挟むこともできず、ただ黙って聞いているだけなのではあるが。
「アラステア様、そろそろ寝台にお入りください」
「あ、そうだね。おやすみ」
「はい、ゆっくりとおやすみになられますように」
アラステアが、学院での会話を思い出してぼんやりとしていると、ハドリーから早く眠るように促されてしまった。
エイミのマッサージで緩んだ体を寝台に横たえると、アラステアはすぐに眠りに入ってしまったのだった。
◇◇◇◇◇
アラステアは徐々に学院の授業にも高位貴族としての学びにも慣れ、生活のリズムを掴み始めた。そんな折、アラステアの元に、ローランドが主催するウォルトン公爵家のお茶会の招待状が届いた。
「正式なものじゃなくて、仲の良い人だけで開く小規模なお茶会だよ。社交の練習だと思って来てくれたらうれしいな」
ローランドの麗しい笑顔から繰り出される厳しい指導を考えると、アラステアは身が竦む。しかし侯爵家のアラステアが、公爵家からの招待を断ることなどできるはずがない。
「まあまあ、仕立てたばかりの衣装がすぐに役に立つわね。髪飾りはどれがいいかしら」
「お祖母様……」
「失礼のないようにしないとね。お茶会までに特訓しようか」
「お兄様……!」
「うむ。ジェラルドは場に合わせた行動ができる達人だからな。アラステアも身につけられるように頑張ると良い」
「……お祖父様」
楽し気な祖父母やジェラルドの様子を見ながら、アラステアは更なる特訓があるのかと頭を抱えた。
「アラステア、また姿勢が崩れているよ。背筋を伸ばして、顎を引いて。そうそう。美しい立ち姿は高位貴族になくてはならないものだからね」
「はっはい」
「ああ、素直で可愛い」
ローランドはそう言いながら、表面上は貴族らしい感情のわからない笑顔を浮かべている。しかし、今は上機嫌らしい。アラステアは、ローランドと一緒に過ごすうちにそういうことはわかるようになったものの、実際に公爵家令息の本気を出されると、まったく感情が読み取れなくなるらしい。ローランドがアラステアに求めているものもそれだと明言されている。
そう、アラステアは学院での学業の他に、ローランドから高位貴族としての立ち居振る舞いについての教えを受けていた。
本来であれば、公爵令息であるローランドがそんなことをする必要はない。しかし、「アラステアが可愛いから」というよくわからない理由で、ローランドはアラステアを構い倒していた。
美しい姿勢を保つには、相応の筋肉が必要になる。もともとアラステアは、オメガだから筋肉が付きにくい。そのうえ、幼い頃に病弱だったこともあって、まったく鍛えられていないのだ。
王立学院は課題も多く、放課後は図書館でローランドやクリスティアンとそれに取り組んだり、家に帰ってからジェラルドに教えを請うたりしていたが、アラステアにとっては学業の方が乗り越えやすいものであったといえる。
祖母もローランドが教えてくれることが素晴らしいからと、その成果を家の中でも示すようにと言ってくる。そのうえアラステアには、祖父母から未来の侯爵としての学びが与えられているのだ。
結局アラステアが姿勢を崩すことができるのは、就寝前に湯あみをしてから起床までの間だけだ。アラステアの毎日は、そんな形で安定しつつあった。
「アラステア様、ものすごく体が凝っているようですよ」
「恥ずかしいから、言わないでよ」
湯あみの後に侍女がアラステアにマッサージをしてくれている横で、ハドリーが夜着を用意しながら苦笑している。
アラステアが筋肉痛になるなどということは、幼いころから仕えてくれているハドリーの記憶にはない。そんなに動けるぐらいアラステアが健康になったともいえる。しかしながら、ただ美しい姿勢を保つという訓練をしているだけなのに、そこまで筋肉が凝り固まってしまうのだ。
鍛え方が足りない。
祖父母も、ジェラルドもハドリーもそう思っているのだろうが、一番それを痛感しているのはアラステア自身だった。
「エイミ、ありがとう。本当にマッサージが上手だね。お祖母様が自慢なさるほどのことはあるよ」
「お褒めくださいまして、ありがとうございます」
アラステアに褒められたエイミは慎ましい微笑を浮かべた。エイミは祖母の侍女で、マッサージが上手だからということから、最近アラステアの元に派遣されている。
「アラステア様がご愛用の香油は良い香りでございますね。奥様もいろいろな種類のものをお使いですが、従来の香りとは少し違うような……」
「ああ、それはお兄様からコートネイ商会で新しく売り出すものを試してみてとお願いされたものなの。自分の好みの香りに調合してもらえるのだって」
「まあ、素敵ですね」
ジェラルドは、コートネイ商会を自分の代で更に大きくする野望を持っている。アラステアにすれば、今でも十分大きな商会のように思うが、ジェラルドにすればまだ不足らしい。手堅い商売と新規事業の開発。その両方を身に着けるために日夜働いているのだ。ジェラルドは学院でも優秀であったし様々な意味で目立っていたという話は、ローランドとのつながりで昼食をご一緒する機会ができたアルフレッドから聞いたことだった。
「我はジェラルドを側近にしたかったのだが、うまく逃げられてしまってね」
「兄が不敬なことをいたしまして、申し訳なく」
「いや、むしろコートネイのように他国との貿易をうまくやっている商会が大きくなる方が、我が国の発展のためになるだろう。適材適所だとクリスティアンからも助言されたのだ」
「当然でしょう。コートネイ伯爵令息には、商売に専念してもらう方が憂いなく発展に進めます」
ジェラルドがアルフレッドを袖にしたことは、大変なことではないのか。そう思ったアラステアは、青くなって思わず詫びを入れた。しかし、アルフレッドは鷹揚に微笑んでいるし、クリスティアンはそれが当然という顔をしている。
クリスティアンは、未来の予測を時々口にする。それは、自分たちにはわからない何かを知っているかのように聞こえて、アラステアはそのたびに不思議な気分になった。ローランドもアルフレッドはその会話を当然のこととして受け止めているので、アラステアはそれについて疑問を差し挟むこともできず、ただ黙って聞いているだけなのではあるが。
「アラステア様、そろそろ寝台にお入りください」
「あ、そうだね。おやすみ」
「はい、ゆっくりとおやすみになられますように」
アラステアが、学院での会話を思い出してぼんやりとしていると、ハドリーから早く眠るように促されてしまった。
エイミのマッサージで緩んだ体を寝台に横たえると、アラステアはすぐに眠りに入ってしまったのだった。
◇◇◇◇◇
アラステアは徐々に学院の授業にも高位貴族としての学びにも慣れ、生活のリズムを掴み始めた。そんな折、アラステアの元に、ローランドが主催するウォルトン公爵家のお茶会の招待状が届いた。
「正式なものじゃなくて、仲の良い人だけで開く小規模なお茶会だよ。社交の練習だと思って来てくれたらうれしいな」
ローランドの麗しい笑顔から繰り出される厳しい指導を考えると、アラステアは身が竦む。しかし侯爵家のアラステアが、公爵家からの招待を断ることなどできるはずがない。
「まあまあ、仕立てたばかりの衣装がすぐに役に立つわね。髪飾りはどれがいいかしら」
「お祖母様……」
「失礼のないようにしないとね。お茶会までに特訓しようか」
「お兄様……!」
「うむ。ジェラルドは場に合わせた行動ができる達人だからな。アラステアも身につけられるように頑張ると良い」
「……お祖父様」
楽し気な祖父母やジェラルドの様子を見ながら、アラステアは更なる特訓があるのかと頭を抱えた。
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