逃避行

水叉 直

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松山にてて

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 月も隠れるほどの分厚い雲がかかった空。男と朱音が車から降りるのに合わせるようにして、ワンボックスからも人影が降りてくる。その影は二つ。ひとつはスラリとした長身の男、もうひとつは男の肩程の背丈をした女。 
 不釣り合いなその二つの影が、急いた気持ちを抑えた早足で近づいてくる。
「桜花!」
 女の方が朱音の名を呼ぶ。その顔がぼんやりとした明かりに照らされたとき、朱音の口から瞬間的に言葉が出る。
「理沙……。元気そうね」
「マネージャーか?」
 朱音は頷く。理沙は何か口を開きかけたが、朱音の冷たい視線がその口を塞いだ。
「桜花さん、待ってください」
 スーツの男が一歩歩み出る。
「何? どうせ私を連れ戻しに来たんでしょ? でも残念ね、私はもう戻らない。あの男の元へなんて……」
「社長はもういません」
「えっ?」
 かろうじて四人を照らしていたライトの光が消え、辺りは一時、全く明かりの無い暗闇に包まれる。次に口を開いたのは、鈴木桜花のマネージャーである理沙だった。
「桜花」
 雲の切れ間から差した月の明かりが、口を開いた理沙の輪郭をぼんやりと移す。
「桜花、本当にごめんなさい。私、あなたがどこかへ行ってからすぐにそのことを話したの」
 理沙は複雑そうな表情を見せる。
「別にいいわよ。私が一方的にお願いしてただけで、あなたがどうしようがどうでもいい」
「待ってくれ桜花さん! 仕方ないんだ。いずれにせよ君はすぐに発見されて、捕まっていた」
 理沙を庇うようにしてスーツの男が口を挟む。朱音の隣に並び立つ男は、状況を把握しようと懸命に頭を働かせていた。
「それなら早々にばらすことで混乱を生み、その騒ぎに乗じて事務所内の悪行を告発しようと言ったのは私なんです」
「なんやて?」
 思わず口を挟んだ男。予期せずして自分に集まった注目に驚きながら、スーツの男に詳しい説明を要求した。
 話が遮られたことを特に気にする様子も無いスーツの男は、その時の様子を話し始めた。

「失礼します、警視庁の者です。あなた方の事務所に対して、覚せい剤の所持及び、それを使った脅迫の疑いがかかっております。ご同行願えますでしょうか」
 理沙に続いて扉から出てきた複数の男性は、皆一様に屈強な体つきをしている。その中でもいちばん年長と思われる男が話すのを、オフィス中がただ静かに聞いていた。
「刑事さん! どうしたんですか、覚せい剤? そんな、きっと何かの間違いでは?」
 演技と言うよりは嘘と言った方がしっくりとくる動揺を見せながら、社長の足が一歩ずつ奥の部屋に繋がる扉へと近づいていく。
「どこいくんですか」
「全部消せ!」
 そう叫びながら社長が駆け出す。しかし扉に辿り着く一歩手前で拘束され、奥の部屋で証拠を処分しようとしていたスタッフも、同様に刑事の手によって取り押さえられた。

「と言った形で社長は警察で取り調べ中です。恐らくですが、もう芸能界に戻ってくることは無いでしょう」
 スーツの男が説明している間、朱音の視線はひとつのところに定まっていなかった。時に空を見上げ、時に地面に描かれた白い枠を目で追う。そんな朱音の張りつめた背中に、並び立つ男の柔らかな手の平がそっと触れた。
「朱音のことは聞いてたんか?」
「え、ええ。彼女からどうしたらいいのかと相談を受けておりまして……、ところであなたは?」
 見慣れた大女優の隣に並び立つ、全く見たことの無い男。ついに見かねたスーツの男が怪訝そうな目を男に向ける。
「俺はなんでもない、ただのおじさんや。そんなことよりも、あんたらは捕まらんのか? 鈴木桜花の戻る場所はあるんか?」
「待って、勝手に話を進めないで。私はもう戻らない。鈴木桜花は失踪したまま戻らなかったの」
 考えをまとめたらしい朱音が一歩前に歩み出た。バチバチという音を立てながら、ぼんやりと灯っていたライトが再びはっきりと四人を照らす。
「桜花。私やっぱりまだあなたと仕事がしたい。あなたの演技をもっと見ていたい。けどそれは、あなたにとって幸せじゃないのね」
「ええ」
 理沙と朱音はしばらく視線を合わしたまま、何も言葉を交わさなかった。その沈黙の会話は数分間続き、再び口を開いたのは朱音だった。
「ねえ、行きましょう」
「えっ? 行くってどこにや?」
「海を見に行きましょうよ。もちろん、松山城もね。ほら、早く」
 朱音が男の腕を軽く引いて車のある方向へと進んでいく。空にかかっている分厚い雲を、ひとつ残らず取り払えそうなくらいに晴れやかな顔をした彼女。そんな彼女を見送る理沙もまた、意外なことに晴れやかな顔をしていた。
「止めなくていいの? せっかくここまで来たのに」
「うん、もういいの。彼女にもう一度会いたかっただけだから。桜花にはこれまでたくさんの夢を見せてもらった、十分過ぎるくらいにね」
 二人は振り返るとワンボックスに向かって歩き始める。その背中に向かって、朱音は一度だけ振り返った。
「ありがとうね。あなたがいなかったら私は……」
 立ち止まった朱音を、特に気にかけることなく先に歩いて行った男が、車のエンジンをかける。程なくしてパーキングエリアから二台の車が立ち去ると、それまで灯っていた明かりが静かにこと切れた。

「私の芸能活動はね、はじめは全然上手くいってなかったの。それこそ逃げ出したくなるくらいにね」
 パーキングエリアを出てすぐのこと。車はナビに従って松山城を目指していた。太陽が昇るにはまだ夜が強い。
「へえ、そうなんか」
 男は出会った頃と変わらないような興味の無い返事を返す。特に気にすることなく朱音は話を続けた。
「スカウトされたのはいいけど、特に仕事があるわけじゃなくてね。それでも、当時からマネージャーだった理沙はずっと私のことを信じてくれてた」
「長い付き合いやったんやなあ。そら大事な人やったやろ」
「過ごした時間で決まるわけじゃないけどね」
 車は起伏の激しい山道に入り、確実に最終目的地に近づいていく。音ひとつない静かな車はそのまま二人を目的地まで運んだ。
「こんな街中にあるんだ」
 辿り着いた松山城。車はその外側に敷かれた路面電車のレールを跨いでいる。肉眼で確認できるほどには近く、観光で訪れたというほどには遠い距離から朱音が呟いた。
「やな、どうする? 時間的に入れるかはわからんけど、降りて見に行くか?」
「ううん、やめとこう。それより海に行きたい」
「海?」
「ええ。私たちが出会ったのは海の傍だったでしょ?」
 空を覆っていた雲はいつの間にかどこかへ流れていった。月がその役目を終えようと姿を隠す準備をしている。
「そうか。そうやな。それはええな」
『目的地付近に到着しました。案内を終了します』
 二人の間から無機質な音が流れる。男は月が姿を隠そうとしている方向へハンドルを傾けた。

 ぼんやりと明るくなった海岸。街中からは少し外れ、車線のひとつしかない道がひたすらに続いているのが遠くに見える。海を見下ろす二人の後ろには、その体に目一杯海風を受ける小さな車が停まっていた。
「あれ、朝日は見れないの? 日の出が見たかったのに」
「あほ、俺らはずっと西に向かって進んできたんやぞ。しっかりせえよ、そんなんで大丈夫か?」
 吹き晒す風が二人の傍を通り抜けていく。男はポケットから取り出した煙草に火をつけた。
「夜に見る海は暗くて怖いけど、こんな時間に見るのも怖いものね」
 ぼうっと海を見つめる朱音。吹き晒すような風と、その風が立てる波の音が絶え間なく鳴っている。
「ほら、吸い込まれそうじゃない? 吸い込まれてそのままどこかへ行っちゃいそう」
「ん? ああ、そうかもな。それもええかもな」
 白い煙を風に溶かし、男は空を見上げる。頭上を横切る海鳥の小さな影が、男の体を真っ二つに裂いた。
「このままここで暮らしていくんか?」
 朱音に尋ねる男の声は、寒さのせいか軽く震えている。
「ええ。もう十分人の目に晒されたわ。この街でひっそりと終えるわよ」
 朱音が首を左側へ向け、男の顔をまじまじと見る。
「あなたは? あなたはこれからどうするの?」
 朱音の質問に、男は一度ゆったりと深呼吸をすると、朱音と視線を合わせるように首を動かした。その口からは煙が出るばかりで言葉は何も出てこない。
「もしあなたさえ良かったらもう少し一緒に……」
 ひと際大きな波が砂浜を襲う。その音は朱音の言葉をかき消した。
「すまん、なんて言ったんや? 波の音で聞こえへんかったわ」
 男は吸い口のみになった煙草を胸元の灰皿にしまう。空っぽになった手で耳の後ろを軽く掻いた。
 朱音はそんな男の様子を見て軽く微笑み、再び口を開く。
「ここまで連れて来てくれたお礼がしたいって言ったの。あなたの借金を払わせて」
「何言うてるんや。礼なんていらん……」
 朱音が男の手を握る。驚いた男は声を出すことも叶わなかった。
「私はあなたに人生を救われたの。あの時連れて行ってもらえなかったら、絶対に今ここにはいない。だから今度は私に救わせて?」
 まっすぐに男の目を見てそう話す朱音に対し、男は「救った覚えがない」と言い捨てそのまま車へ戻ろうとする。その背中に、からかうような朱音の声が覆い被さった。
「誘拐されたって警察に行くよ? そうなったら好きなように死ねなくなるけど……
それでもいいの?」
 去ろうとしていた男の足が止まる。
「おい、やめろ。余計な事すんな」
「なら受け取って、そしてできる限り死ぬことから逃げて」
 男が振り返り、困ったような顔で朱音に笑いかけた。
「また逃げろっていうんか」
「うん」
 悪気なんてもちろん無いとでも言いたげな簡潔な朱音の返事。再び歩を進め始めた男の後に朱音も続く。少し駆け寄ってその隣に並び立った。
「これで私たち対等ね」
「そんなわけあるかい」
 辺りはすっかりと明るくなっていた。新しい一日を告げる太陽の日差しが、二人の行く道を力強く照らしていた。
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