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はじまり
はじまり
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きっと僕は彼女のことを好きになるのだろう、それが予感から確信に変わるのにそう時間はかからなかった。
入社してすぐの歓迎会で彼女は僕の正面に座っていた、彼女は周りにきちんと気を回し、空いているグラスは無いか、会話に入れていない人はいないか、そんなことを常に気にしているように見えた。
僕はそんな様子を見ながら、尊敬するような、それでいて馬鹿にするような表情をしていたと思う。
僕はというと、周りの話に乗っかるでもなく、上司のグラスにお酒を注ぐわけでもなく、ただ彼女の振る舞いを眺めながら少しずつお酒を飲んでいた。
宴も酣となり、それぞれが帰り支度をするなかで、彼女の奇妙な動きに気がついた、彼女はなにやら上司の胸元ばかりを見ている。
普段から好みは人それぞれだと思っている僕は、彼女の今日の振る舞いになんとなく合点がいったような気がしていた。彼女の行動は新入社員としての動きのそれではなく、自分が欲しいと思うものに対するそれだったのかもしれない。
僕は自分の胸が少し痛むことに疑問を覚えながらもそう解釈することにした。
店を出るとそれぞれに二次会会場へと向かうようだった。カラオケに行く者もいれば、行きつけらしいバーへと向かう者もいて、ネオンサインが光る夜の街へと繰り出す者もいた。
彼女はというとお目当てらしい上司の一団に加わって次なる場所へと向かおうとしている。 彼女の他に数人の新入社員がいたため、僕もそこに混ざるようにして2軒目のお店へと向かった。 次の店までは歩いて10分程らしく春とはいえ、夜になると冷える街中をぞろぞろと歩いていく。
さっきまでほろ酔い気分だった気持ちもだんだんと冷めてくるころ、繁華街からわずかに離れたところに小さな明かりを灯した焼き鳥屋があった。 その店の暖簾をくぐり抜けると店主に案内され、十席ほどのカウンターの奥にある座敷の空間に僕たちは陣取る。
上司が上座である奥の席に座ると、あとは各々好きな位置に座った。彼女はまたしても上司の隣の席、僕も同じくその正面の席になる、特別意識して席を選んだわけではないが彼女の正面に座れたことを嬉しく思った。
そこの焼き鳥はとても美味しく、とくにつくねなんかはこれまで食べてきたものの中でいちばんといっても過言ではなかった、僕は食事とお酒と会話とのバランスを適切な配分で行うように努めていた。
しばらくみんなとの歓談やちょっと真面目な相談をしたりして過ごしていたが、アルコールの影響によりトイレへ向かいたくなった為、周りに軽く告げてから席を立つ、このお店の便所は店のいちばん奥、扉を開けると廊下があり、そこから男女それぞれの個室へと通じる扉が備えられている、廊下へと続く扉を開けたとき、その中から話し声が聞こえてきた。
「あっ!ほんとですか~!ありがとうございます!」
彼女の話し声だ、彼女も酔っているためかいつもより少し声が大きいように聞こえる。
「おお、ほんまやで!またわからんかったらいつでも聞いておいでな~」
僕が扉を開けきると廊下に彼女とさらに上司がいた、二人ともこちらに気づいたらしく、彼女が僕に向かって会釈したのに合わせて軽く会釈をする。「おっ、すまんなあ、俺は終わってるから入ってええよ。さて、俺らは戻ろか」
「そうですね、戻りましょう!みんなきっと部長のことを待ってますよ~」 二人はそう言って扉の向こうへと消えていった。僕は個室の扉を開け便座に屈むと、さっきの光景を軽く思い出し、上司と彼女について改めてどんな人物だったかを考えてみることにした。
あの上司は部長の肩書きの通り会社の中でも重要な役割を担っていて、周りの同僚や僕たち新入社員からの信頼も厚い。僕からするとかなり立場が上の方であるため普段はあまりすれ違うことはないが、たまにすれ違ったときなんかは「元気でやってるかあ~」などと声をかけてくれるいい上司である。
一方彼女は僕と同じ新入社員でたまたまではあるが地元も同じである、外見の美しさや仕事を覚えるスピードもさることながら、それを鼻にかけない気さくさで早くも社内有数の人気者となっている。
年齢差自体は一回りほど離れているものの、二人を見ているとお似合いだと思う。部長が去年に結婚したばかりだと言うことを除けばよくある社内恋愛としてすぐに興味を失っていただろう。
まあ俺には関係無いしどうにかしようと思ったところで俺に出来ることなんて特に無い。さて、そろそろ戻ろうか。
席に戻ってくると上司の姿は無かった、周りによると全員分の会計を済ませると先に帰って行ったらしい。
「家に愛する奥さんが待っているんだもんなー、そりゃ帰るよな」
「だよな、今日つけてたネクタイも奥さんからのプレゼントらしいぜ、俺たちも早く結婚してえなあ」
一人が話し出すのをきっかけに皆がそれぞれに上司の情報を漏洩する、僕も彼女もその中の一人として会話に参加していた。そのとき彼女がどんな心境でその話を聞いていたのかは僕には当然わからないが、見る限りでは単純に楽しく会話しているように思えた。
一通り話すことが無くなると僕たちも店を出ることにした。 上司が出してくれていたであろう分よりも、その後かなり飲み食いしたので少しの出費は覚悟していたが、店主によると上司からいただいていた分でほとんどちょうどらしく、足りない分は構わないと言ってくれたので、全員で店主さんともう家についているであろう上司に向かって礼を言いながら頭を下げた。
店先で解散することになり、帰りの方向が一緒だということで、僕は彼女と一緒に駅まで帰ることになった。駅までの道はここから歩いて15分ほどで、街灯だけが照らしている道がずっと続いている。
「おいしかったねー、つくね最高!」
彼女がそういいながらくるくると回っている。地元が同じだという親近感からなのか、僕と二人のときには普段会社で見せないような天真爛漫さを発揮する。
かくいう僕も入社当時から不思議と彼女の前ではリラックスして話すことができ、今では同期の中でもいちばん気を許せる存在となっている。
しばらく様々な話をしていたが、話が途切れたタイミングで頭の中に浮かんできた言葉をそのまま発してみた。
「部長と仲いいんだね」
我ながら何を言っているのかと思った直球にもほどがある。彼女の顔が一瞬困惑した表情になる。
「うん!仲良いよ!部長面倒見がいいし、ちょっとかわいいところもあるんだよ、知ってる?」
いきなりのろけてきたか、酔っぱらっているせいか警戒心が薄くなっているのかな?
「いや、知らないね。それより、そんなこと話しても大丈夫なの?」
「ん?ぜんぜん大丈夫でしょ!」
彼女はまだくるくる回っていたが、しばらくして事の重大さを思い出したのか真剣な顔で急に迫ってきた。
「でもかわいいなんて言ってたことがばれたら怒られるかもね、ごめん!やっぱり聞かなかったことにして」
彼女が両手で拝むようにして僕に頼み込む、心配してるのはそこなのかい。そう思ったが本気で頼んでいるその姿がなんだか可笑しくて少し笑ってしまった。
「別に言わないよ、むしろもっと聞かしてよ。いつも部長に会うと緊張しちゃうから今度会ったときにそれを思い出すようにするからさ」
それは本当だったし、変に噂であれこれ聞くよりは本人から聞いたほうが諦めがつく。
「ほんと!?わかったそしたらまだまだあるんだよ、今日なんかもね、部長が普段とは違うネクタイしててね、それがすごいかっこ良かったから来年就活の弟に買ってあげようと思ったの。それで部長に、『そのネクタイどうしたんですか?』って聞いたらさ、あの部長が顔をくしゃってしてさ、軽く後頭部を手で掻きながら。『妻にもらったんだよ』ってさ、それをやっちゃったなあ見たいな顔をしてるのが本当に可笑しくて!」
彼女は会話のスピードを一気にあげて話始めた、僕はそれを聞くことに徹し、最低限の相づちだけで会話を進めていく。 しかし、彼女は部長が奥さんと仲がいいのは許容出来るんだな、まあその精神力が無いと不倫なんて出来ないのかもしれないな。
「それでね、さっきの焼き鳥屋さんで『どこのブランドのネクタイですか?』って聞いてみたんだけど、部長もわからなくてさ、それで私が困った顔をしてたらさ、部長、また奥さんに聞いといてくれるんだってさ!ほんとに優しいよねえ」
確かに君にとっては優しいだろう、しかし部長さんよ、あなたはどんな気持ちで奥さんにそれを聞くんだい?奥さんに申し訳ないとは思わないのかい?それぐらい堂々としていた方が怪しまれもしないのだろうか、いやだからといってもなあ、、、 そんな風に全く関係の無い僕の頭の中で大きなお世話の思考がぐるぐると回り続ける、あまりに考えに集中していたせいで、彼女から話しかけられていることにすら気づいていなかった。
「ねっ、だからさ、・・・って聞いてる?」
彼女に腕を揺さぶられてやっと気づいた。
「ああ、ごめんよ聞いてなかった」
「やっぱり!全くもう、今度のお休みネクタイ買いに行くのついてきてくれる?って聞いたの」
彼女は少し口をとんがらせながらふいっと向こうを向いてしまう、こうした普段では見れないしぐさもかわいいと思う。それはそうと、なんだって?「えっ、行かないよ?部長と行くんじゃないの?」
僕がそう言うとそれを聞いた彼女はこっちを向いて吹き出して笑った。「えっー!?なんで部長と?そんなところ誰かに見られたら不倫になっちゃうよ!部長新婚さんなのにそんな噂がたったらかわいそう」
この期に及んで誤魔化そうとしているのかな、いいやもう突っ込んでやろう。
「いや、既に不倫してるんじゃないの?」
僕がそう言うと彼女はきょとんとして考え込み始めた、しばらく無言の時間が続く。
無言の時間に耐えられなくなり僕が口を開こうとしたタイミングでなにやら合点がいったのか、彼女が今度は急にニタニタと笑いはじめた。
「なるほどねー、私不倫してないよ、もちろんこれからする気もないしね、今日の歓迎会で部長の胸元を見てたのはネクタイが気になったから、トイレの廊下で話してたのはネクタイのブランドについて、席が二回とも部長の隣のだったのはそこの席が君の正面だったから、だよ?それなのに全然話してくれないからさー、一緒に帰れてほんとに良かった!」
彼女が立て続けにそこまで話す、どうやらテンションが上がると呼吸を忘れるタイプらしい、彼女は僕の言葉を待っているようだった。
「そうだったんだ、とんだ勘違いだったよ、今思うと自分でもおかしいくらい」
「だねー、勘違いされたまま今日が終わらなくて良かったー、君って意外と早とちりなんだね」
彼女が笑っている。
「で、さっきの返事は?ずっと待ってるんだけど、あんまり待たせると不倫するよ?」
笑っていたかと思うと急に鋭い目で言葉を飛ばしてきて僕はたじろぐ、それにしてもよくこんなにもコロコロと表情を変えれるもんだなあ。
「返事ね、ごめんごめん。ぜひ行こうよ、ネクタイどこのブランドなのかなあ、部長から聞けたらまた教えてね、いやあ今日はいい日だなあ、ほんとに勘違いしたままじゃなくて良かったよ、それよりさ今日の飲み会で思ったんたけどさ、君ってすごいよね…」
話ながら気づいたことだが、どうやら僕もテンションが上がると呼吸を忘れてしまうようだった、彼女が目の前で笑っている、それだけでどんなに楽しいことか、食べ物は何が好きかな?どんな本を読むのかな?聞きたいことはたくさんある。 ゆっくりと聞いていこう、今度は勘違いしないように。
駅の明かりが近くに見えてくる、改札を抜けると、僕たちはそれぞれ別のホームへと向かう。「また明日」 お互いにそう言って手を振って別れた。 電車に乗り込みシートに座る、帰りの電車の中、僕は彼女のその言葉と表情を何回も思い出していた。
入社してすぐの歓迎会で彼女は僕の正面に座っていた、彼女は周りにきちんと気を回し、空いているグラスは無いか、会話に入れていない人はいないか、そんなことを常に気にしているように見えた。
僕はそんな様子を見ながら、尊敬するような、それでいて馬鹿にするような表情をしていたと思う。
僕はというと、周りの話に乗っかるでもなく、上司のグラスにお酒を注ぐわけでもなく、ただ彼女の振る舞いを眺めながら少しずつお酒を飲んでいた。
宴も酣となり、それぞれが帰り支度をするなかで、彼女の奇妙な動きに気がついた、彼女はなにやら上司の胸元ばかりを見ている。
普段から好みは人それぞれだと思っている僕は、彼女の今日の振る舞いになんとなく合点がいったような気がしていた。彼女の行動は新入社員としての動きのそれではなく、自分が欲しいと思うものに対するそれだったのかもしれない。
僕は自分の胸が少し痛むことに疑問を覚えながらもそう解釈することにした。
店を出るとそれぞれに二次会会場へと向かうようだった。カラオケに行く者もいれば、行きつけらしいバーへと向かう者もいて、ネオンサインが光る夜の街へと繰り出す者もいた。
彼女はというとお目当てらしい上司の一団に加わって次なる場所へと向かおうとしている。 彼女の他に数人の新入社員がいたため、僕もそこに混ざるようにして2軒目のお店へと向かった。 次の店までは歩いて10分程らしく春とはいえ、夜になると冷える街中をぞろぞろと歩いていく。
さっきまでほろ酔い気分だった気持ちもだんだんと冷めてくるころ、繁華街からわずかに離れたところに小さな明かりを灯した焼き鳥屋があった。 その店の暖簾をくぐり抜けると店主に案内され、十席ほどのカウンターの奥にある座敷の空間に僕たちは陣取る。
上司が上座である奥の席に座ると、あとは各々好きな位置に座った。彼女はまたしても上司の隣の席、僕も同じくその正面の席になる、特別意識して席を選んだわけではないが彼女の正面に座れたことを嬉しく思った。
そこの焼き鳥はとても美味しく、とくにつくねなんかはこれまで食べてきたものの中でいちばんといっても過言ではなかった、僕は食事とお酒と会話とのバランスを適切な配分で行うように努めていた。
しばらくみんなとの歓談やちょっと真面目な相談をしたりして過ごしていたが、アルコールの影響によりトイレへ向かいたくなった為、周りに軽く告げてから席を立つ、このお店の便所は店のいちばん奥、扉を開けると廊下があり、そこから男女それぞれの個室へと通じる扉が備えられている、廊下へと続く扉を開けたとき、その中から話し声が聞こえてきた。
「あっ!ほんとですか~!ありがとうございます!」
彼女の話し声だ、彼女も酔っているためかいつもより少し声が大きいように聞こえる。
「おお、ほんまやで!またわからんかったらいつでも聞いておいでな~」
僕が扉を開けきると廊下に彼女とさらに上司がいた、二人ともこちらに気づいたらしく、彼女が僕に向かって会釈したのに合わせて軽く会釈をする。「おっ、すまんなあ、俺は終わってるから入ってええよ。さて、俺らは戻ろか」
「そうですね、戻りましょう!みんなきっと部長のことを待ってますよ~」 二人はそう言って扉の向こうへと消えていった。僕は個室の扉を開け便座に屈むと、さっきの光景を軽く思い出し、上司と彼女について改めてどんな人物だったかを考えてみることにした。
あの上司は部長の肩書きの通り会社の中でも重要な役割を担っていて、周りの同僚や僕たち新入社員からの信頼も厚い。僕からするとかなり立場が上の方であるため普段はあまりすれ違うことはないが、たまにすれ違ったときなんかは「元気でやってるかあ~」などと声をかけてくれるいい上司である。
一方彼女は僕と同じ新入社員でたまたまではあるが地元も同じである、外見の美しさや仕事を覚えるスピードもさることながら、それを鼻にかけない気さくさで早くも社内有数の人気者となっている。
年齢差自体は一回りほど離れているものの、二人を見ているとお似合いだと思う。部長が去年に結婚したばかりだと言うことを除けばよくある社内恋愛としてすぐに興味を失っていただろう。
まあ俺には関係無いしどうにかしようと思ったところで俺に出来ることなんて特に無い。さて、そろそろ戻ろうか。
席に戻ってくると上司の姿は無かった、周りによると全員分の会計を済ませると先に帰って行ったらしい。
「家に愛する奥さんが待っているんだもんなー、そりゃ帰るよな」
「だよな、今日つけてたネクタイも奥さんからのプレゼントらしいぜ、俺たちも早く結婚してえなあ」
一人が話し出すのをきっかけに皆がそれぞれに上司の情報を漏洩する、僕も彼女もその中の一人として会話に参加していた。そのとき彼女がどんな心境でその話を聞いていたのかは僕には当然わからないが、見る限りでは単純に楽しく会話しているように思えた。
一通り話すことが無くなると僕たちも店を出ることにした。 上司が出してくれていたであろう分よりも、その後かなり飲み食いしたので少しの出費は覚悟していたが、店主によると上司からいただいていた分でほとんどちょうどらしく、足りない分は構わないと言ってくれたので、全員で店主さんともう家についているであろう上司に向かって礼を言いながら頭を下げた。
店先で解散することになり、帰りの方向が一緒だということで、僕は彼女と一緒に駅まで帰ることになった。駅までの道はここから歩いて15分ほどで、街灯だけが照らしている道がずっと続いている。
「おいしかったねー、つくね最高!」
彼女がそういいながらくるくると回っている。地元が同じだという親近感からなのか、僕と二人のときには普段会社で見せないような天真爛漫さを発揮する。
かくいう僕も入社当時から不思議と彼女の前ではリラックスして話すことができ、今では同期の中でもいちばん気を許せる存在となっている。
しばらく様々な話をしていたが、話が途切れたタイミングで頭の中に浮かんできた言葉をそのまま発してみた。
「部長と仲いいんだね」
我ながら何を言っているのかと思った直球にもほどがある。彼女の顔が一瞬困惑した表情になる。
「うん!仲良いよ!部長面倒見がいいし、ちょっとかわいいところもあるんだよ、知ってる?」
いきなりのろけてきたか、酔っぱらっているせいか警戒心が薄くなっているのかな?
「いや、知らないね。それより、そんなこと話しても大丈夫なの?」
「ん?ぜんぜん大丈夫でしょ!」
彼女はまだくるくる回っていたが、しばらくして事の重大さを思い出したのか真剣な顔で急に迫ってきた。
「でもかわいいなんて言ってたことがばれたら怒られるかもね、ごめん!やっぱり聞かなかったことにして」
彼女が両手で拝むようにして僕に頼み込む、心配してるのはそこなのかい。そう思ったが本気で頼んでいるその姿がなんだか可笑しくて少し笑ってしまった。
「別に言わないよ、むしろもっと聞かしてよ。いつも部長に会うと緊張しちゃうから今度会ったときにそれを思い出すようにするからさ」
それは本当だったし、変に噂であれこれ聞くよりは本人から聞いたほうが諦めがつく。
「ほんと!?わかったそしたらまだまだあるんだよ、今日なんかもね、部長が普段とは違うネクタイしててね、それがすごいかっこ良かったから来年就活の弟に買ってあげようと思ったの。それで部長に、『そのネクタイどうしたんですか?』って聞いたらさ、あの部長が顔をくしゃってしてさ、軽く後頭部を手で掻きながら。『妻にもらったんだよ』ってさ、それをやっちゃったなあ見たいな顔をしてるのが本当に可笑しくて!」
彼女は会話のスピードを一気にあげて話始めた、僕はそれを聞くことに徹し、最低限の相づちだけで会話を進めていく。 しかし、彼女は部長が奥さんと仲がいいのは許容出来るんだな、まあその精神力が無いと不倫なんて出来ないのかもしれないな。
「それでね、さっきの焼き鳥屋さんで『どこのブランドのネクタイですか?』って聞いてみたんだけど、部長もわからなくてさ、それで私が困った顔をしてたらさ、部長、また奥さんに聞いといてくれるんだってさ!ほんとに優しいよねえ」
確かに君にとっては優しいだろう、しかし部長さんよ、あなたはどんな気持ちで奥さんにそれを聞くんだい?奥さんに申し訳ないとは思わないのかい?それぐらい堂々としていた方が怪しまれもしないのだろうか、いやだからといってもなあ、、、 そんな風に全く関係の無い僕の頭の中で大きなお世話の思考がぐるぐると回り続ける、あまりに考えに集中していたせいで、彼女から話しかけられていることにすら気づいていなかった。
「ねっ、だからさ、・・・って聞いてる?」
彼女に腕を揺さぶられてやっと気づいた。
「ああ、ごめんよ聞いてなかった」
「やっぱり!全くもう、今度のお休みネクタイ買いに行くのついてきてくれる?って聞いたの」
彼女は少し口をとんがらせながらふいっと向こうを向いてしまう、こうした普段では見れないしぐさもかわいいと思う。それはそうと、なんだって?「えっ、行かないよ?部長と行くんじゃないの?」
僕がそう言うとそれを聞いた彼女はこっちを向いて吹き出して笑った。「えっー!?なんで部長と?そんなところ誰かに見られたら不倫になっちゃうよ!部長新婚さんなのにそんな噂がたったらかわいそう」
この期に及んで誤魔化そうとしているのかな、いいやもう突っ込んでやろう。
「いや、既に不倫してるんじゃないの?」
僕がそう言うと彼女はきょとんとして考え込み始めた、しばらく無言の時間が続く。
無言の時間に耐えられなくなり僕が口を開こうとしたタイミングでなにやら合点がいったのか、彼女が今度は急にニタニタと笑いはじめた。
「なるほどねー、私不倫してないよ、もちろんこれからする気もないしね、今日の歓迎会で部長の胸元を見てたのはネクタイが気になったから、トイレの廊下で話してたのはネクタイのブランドについて、席が二回とも部長の隣のだったのはそこの席が君の正面だったから、だよ?それなのに全然話してくれないからさー、一緒に帰れてほんとに良かった!」
彼女が立て続けにそこまで話す、どうやらテンションが上がると呼吸を忘れるタイプらしい、彼女は僕の言葉を待っているようだった。
「そうだったんだ、とんだ勘違いだったよ、今思うと自分でもおかしいくらい」
「だねー、勘違いされたまま今日が終わらなくて良かったー、君って意外と早とちりなんだね」
彼女が笑っている。
「で、さっきの返事は?ずっと待ってるんだけど、あんまり待たせると不倫するよ?」
笑っていたかと思うと急に鋭い目で言葉を飛ばしてきて僕はたじろぐ、それにしてもよくこんなにもコロコロと表情を変えれるもんだなあ。
「返事ね、ごめんごめん。ぜひ行こうよ、ネクタイどこのブランドなのかなあ、部長から聞けたらまた教えてね、いやあ今日はいい日だなあ、ほんとに勘違いしたままじゃなくて良かったよ、それよりさ今日の飲み会で思ったんたけどさ、君ってすごいよね…」
話ながら気づいたことだが、どうやら僕もテンションが上がると呼吸を忘れてしまうようだった、彼女が目の前で笑っている、それだけでどんなに楽しいことか、食べ物は何が好きかな?どんな本を読むのかな?聞きたいことはたくさんある。 ゆっくりと聞いていこう、今度は勘違いしないように。
駅の明かりが近くに見えてくる、改札を抜けると、僕たちはそれぞれ別のホームへと向かう。「また明日」 お互いにそう言って手を振って別れた。 電車に乗り込みシートに座る、帰りの電車の中、僕は彼女のその言葉と表情を何回も思い出していた。
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