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⑰ 最後の思い出
しおりを挟む感情の高ぶりが収まり、彼女がそっと胸元から離れた後、僕らは何も言わないでいた。
太陽は西に進んで半分ほどの位置にあった。
沈黙を破るように「なぁ」と僕は君に訊ね掛ける。
「どうしたの?」まだ目元に赤みが残っている彼女は、僕に軽く相槌を打った。
「鈴音って、本当はなんて名前なんだ?」
今でこそ僕の頭は、鈴音と言えば君で、君と言えば鈴音だということを疑いなく信じ切っている。
けれど、そう言えば君は、自分から名乗ったわけではないことをふと思い出したのだ。
気になると言えば気になる。
でも、今やどうでも良いことと言えばどうでも良いことだ。
僕はなんとなく、そのことを訊ねてみた。
鈴音は思案するように空へ視線をやる。
微笑みながらこちらに目線を戻した。
「んー…千風くんの前では、私はただの鈴音で居たい、っていう答えじゃ駄目かな?」
それは鈴音お得意のはぐらかすような答えだった。
でも、僕らにはそれが良いと思えた。
「分かった。これからも鈴音は鈴音だ」
僕がそのように納得を示すと、君はゆっくりと立ち上がった。
「散歩の続き、行こ?」
差し出された君の手を取る。
僕は鈴音と共にゆっくりと、森の奥へと向かっていった。
初めに辿り着いたのは、僕が飛び降りに選んだ断崖絶壁だった。
「やっぱりあれは、鈴音が助けてくれたのか?」
君の正体が明らかとなった今、あの朧気な記憶が現実であったことに然したる違和感はなかった。
「そうだよ。千風くん、とんでもなく馬鹿だったなぁ」
鈴音は懐かしむように肯く。
「あの時の言葉、何気に私が一番気にしてたことだから、結構傷付いたんだよね~」
君はわざとらしい素振りで、さり気なく僕にそう言った。
たぶん、仲違いをしてしまった去年のことを思い起こしたのだろう。
「あれは本当にごめん」
全て自分の所為だったから、僕には誠実に謝ることしか出来なかった。
「いーよ。許してあげる」
鈴音は僕の髪をぐちゃぐちゃにしながら微笑んだ。
君に頭を撫でられると、すっかり僕の心は弛緩するようになってしまった。
「ここ最近の千風くんは、驚くほどにぼろぼろで情けなかったね」
「思い出さないでくれ、恥ずかしい」
「それは無理かな~。千風くんとの思い出は、しっかりと胸に刻んでおくから」
視野狭窄に陥った不安定な僕を、やっぱり、君は傍で見つめていてくれたのだろう。
あんな自分を見られていたなんて、羞恥心が湧いて仕方がないけれど、まぁ、僕のことを覚えていてくれるならそれでいいか。
相好を崩す君を見ているとそう思えた。
それからも僕らはのんびりと森を歩き回りながら、時折、ぽつぽつと意味のない言葉を交わした。
山の中を一周回ったように、大樹の傍に戻ってくる。
あんなに深い青に染まっていた大空は、いつの間にか、朱色と黄金色の混じった様子に変じていた。
淡い日暮れの赤色は、終わりの時を強く想起させた。
なんとなく分かっていたけれど、僕は鈴音に問い掛けた。
「鈴音はいつまで、こっちに居られるんだ」
君は僕が何を聞くか分かってたみたいに、阿吽の呼吸で答えた。
「夕日が沈むまでだよ」
僕は唇を強く噛んだ。
「そんな顔しないの」と僕を見かねたように君は言う。
でも、僕は自分を誤魔化すのに必死で、同じく辛い思いをしているであろう鈴音には何も言ってやれなかった。
「…そんなに、私が居なくなるのが寂しいの?」
鈴音は何処か嬉しそうに、そして悲しそうに訊ねる。
「…うん」と僕は素直に首を縦に振った。
「千風くんと会えなくなって、私が寂しくないと思う?」
鈴音は挑戦的に笑って見せた。
「…ううん」と僕は大人しく首を横に振った。
「だよね。でも、最後までそんな顔してたら、お別れが湿っぽく感じるでしょ?だから笑顔だよ、笑顔」
正直な僕に満足したように、鈴音はにっこりと満面の笑みを浮かべた。
僕も君の笑い方を真似しようとして、でも、浮かべられたのは笑顔じゃない笑顔だった。
「も~…」
君の笑顔は困ったものに移り変わった。
鈴音は思い付いたように「あっ、そうだ」と声を洩らす。
僕がそれに反応を示す前に「付いて来て」と彼女はまた僕を引っ張った。
鈴音に引かれ歩いた先には、いつぞやのギャップ地帯が待ち構えていた。
その中心に根を張る若木は、透明感のある斜陽を命一杯に浴びている。
周囲に競合する木々が生えていないからだろう。
すくすくと育つ若木は、以前よりも大きくなっていた。
鈴音は確かめるように樹皮を撫でる。
あの大樹と比べると、幹はまだまだ細い。
でも、その若木には、横風に煽られて倒木してしまうような危うさは感じられなかった。
彼女は少々踵を浮かせ、なんとか手の届く枝の一本に触れた。
それから、握っている僕の手を、同じ場所に添えさせた。
「この枝を折って欲しいの」
彼女は極々真剣な眼差しで僕に言った。
促されるままに枝を握った僕は、しかし、それを行動に移すことが出来なかった。
こんなに立派に成長している木を破壊することに、正当な事由を見つけられなかったのだ。
「思いっ切りやっていいよ」
躊躇う僕を勇気づけるように君は囁いた。
そこで僕は、鈴音がどうにもこうにも僕に枝を折らせたいらしいことを悟った。
僕は腹を括った。
枝を力強く握り締め、そのまま全力で腕を真下に振り下ろした。
僕の破壊行動に対して、若木の枝はその弾性で抗うことさえなかった。
メキッと生々しい音を鳴らして、呆気なく折れてしまった。
瞬間、鈴音が小さく苦痛を喘いだ。
心臓が竦んだように跳ね動いた。
慌てて、僕は隣を見やった。
そこでは、目に見えて青ざめた君が、辛そうに左腕を抑えていた。
「す、鈴音?…おい、大丈夫か!?鈴音!?」
気が気でなくなった僕は、狼狽したままに何度も君の名前を叫んだ。
「ん…大丈夫だよ」
彼女は額に冷や汗のようなものを流しながら、弱々しく僕に答えた。
その時、僕はもう一歩進んだ彼女の正体に気が付いた。
思わず、僕はそのことを訊ねようとする。
けれど「それは秘密だよ~」と君の曖昧な返答が先回りしていた。
先程の痛みはもう感じないようで、鈴音はすっかりいつもの調子に戻っている。
無意識に深いため息が洩れ出た。
僕は一生分の安堵を得た気分だった。
「その枝、ちょっと貸してくれる?」と鈴音は言う。
僕は彼女に折れ枝を差し出した。
受け取った君は、髪飾りの一部である真鍮色の小さな玉を手に取った。
鈴音は枝と玉をそれぞれの手のひらに乗せる。
すると、それらが僅かに浮かび上がったように見えた。
一瞬、僕は自分の頭がおかしくなったのかと思った。
現実世界にピントを合わせるよう、両目を擦ってみる。
けれども、どうやらそれは錯覚ではないらしい。
確かにその二つは数センチほど、宙に浮いていた。
僕は愕然と君を見やる。
鈴音は得意げな表情でこちらを眺めていた。
瞬間、眩い光が辺りを包んだ。
その異常に濃い輝きを前に、僕はつい、目を閉ざしてしまった。
強烈な光が収まった頃に、再び目を開ける。
彼女の手のひらには、一つのあるものが乗せられていた。
鈴音は笑顔を綻ばせながら、完成品を僕に手渡した。
「これからは私の代わりに、この風鈴が君の傍にいるから。寂しくなったら、この音色を聞いてね?」
受け取ったそれは、木製の風鈴だった。
しかし、それはよく見る竹風鈴とは形状が大きく異なっている。
鈴音が贈ってくれた風鈴は、木製であるというのに、ガラス風鈴と同じ形をしていた。
これでは音が鳴らないのではないだろうか。
そう思った僕は試しに風鈴を揺らしてみた。
舌が滑らかな木目にぶつかり、甲高い音を響かせた。
その音は、木の温かさがありつつも爽やかな響きが感じられるという、ガラス風鈴と竹風鈴の長所を組み合わせた至高の一作であった。
構造が理解出来ず、僕は不思議な心地に陥った。
でもまぁ、鈴音ならこれぐらい造作もないことか。
僕はすぐにその神秘的な現象を吞み込んだ。
「大事にするよ」僕は鈴音に笑顔で言う。
「千風くんからは沢山貰ったから、これでほんの少しだけお返し出来たかな?」
君はそれがさも事実かのように言った。
「いや、実際は僕の方が色々と貰ってばっかりだけどな」
だから僕は返すように、彼女に向けて本当のことを言っておいた。
「じゃあ…もうちょっとだけ、貰ってもいい?」
鈴音は僕の目を覗き込んで訊いた。
そこに具体的な内容は明示されていなかったけれど、君が何を欲しているのか、僕はよく分かっていた。
鈴音から貰った風鈴をポケットに仕舞う。
僕は両手を大きく広げて、覆い被さるように君を抱き締めた。
君はその温かさを確かめるよう、ゆっくりとまさぐりながら、僕の背中に手を回した。
残された時間の大半を、僕らはそのようにして過ごした。
「えへへ」と鈴音の幸せそうな笑声が、いつまでも、僕の耳元を擽っていた。
♦♦♦
あれから、どれぐらい経っただろうか。
僕達は何を言うでもなく抱擁を解き、肩を寄せてその場に座り込んだ。
僕はまだまだ話したりなかったし、君も言いたいことが沢山あっただろうけど、もう言葉は要らなかった。
赤焼けの空を浸食するようにして徐々に薄い紫が染み込んでいく様子を、僕らは手を繋いでぼんやりと眺めた。
真っ赤な夕日は中々沈もうとしなかった。
時間が経つのが異様に長く感じて、でも、今はそれが心地良かった。
まるで僕らのいる山が夕日を追い掛けているみたいで、永遠にこの時間が続くとさえ感じられた。
しかし、やはり恒久というものは存在しなかった。
段々と、逢魔が時が近づく。
とうとう、夕刻が終わりを告げようとする。
宵の始まりを意識した蝉たちは、一度、その翅を休めた。
烏が数匹、鳴き声を響かせながら巣に帰っていった。
夜の夏虫が合唱を始めるまでの一瞬間、夏の山は澄み切った静穏に包まれる。
音という音が消え失せたその時、君はふと思い出したような素振りで、僕の方を向いた。
「いつかまた出会えたら、あの言葉の続き、聞かせてね」
鈴音は頬を赤らめながら言った。
「もちろん」と僕が大きく頷けば、君は嬉しそうに微笑んだ。
僕らは徐に空を眺める。
また、静かな時間が二人を見守っていた。
もうすぐに終わってしまう君との時間を手放したくなくて、僕はぎゅっと、鈴音の手を握り締め続けた。
それからややあって、最後の西日が消え入りそうになった。
「…千風くん」と、鈴音は落ち着いた声で僕の名前を呼んだ。
僕はもう一度、君に視線を向けようとする。
けれども鈴音はそれを制止するように、ふっと、天空を指差した。
空は、完全なる青紫に染まっていた。
その中央によく目を凝らす。
一匹の白鷺が悠々と、大空に羽ばたいていた。
それは夜闇を切り払うかのように美しい純白だった。
我知らず、僕は一匹の夏鳥に目を奪われた。
それは、ほんの一瞬のことだった。
思わず空を見つめた僕の右頬に、ふいと、柔らかな感覚が重ねられる。
動揺のあまり、身体は動かなかった。
僅かながらに、鈴音が横目に映っている。
君はこの上なく愛おしいものを眺めるように、目を細めて僕を見つめていた。
瞬く間に僕の身体はのぼせ上がった。
頬に君の熱が微かに伝わったところで、元から何もなかったかのように、君の手のひらの感触が消滅した。
我に返って隣を見やる。
もう、そこに鈴音の姿はなかった。
代わりに、辺りには玉響の輝きが浮かんでいる。
その淡い残滓は綿毛のように空へと舞い上がって、やがては静かに消えて失せていった。
そのうち、薄暗い夜空には星々が光を放ち、辺りでは夏虫が、些か控えめに演奏を始めるようになった。
それでも、僕はひとり若木に背を預けて、天上に帰った君を見送り続けた。
大切が抜け落ちた世界で、僕は飽くることなく、右頬に残った余韻を噛み締めていた。
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これにて本小説は完結です。 約一カ月の間、お付き合いいただきありがとうございました! 次回作は、今年の12月中に投稿する予定です。遅れたらごめんなさい。時期が早まってもすいません。 良かったらまた読んでくださると、筆者はとても嬉しいです。 それでは、また次回作でお会いしましょう!
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