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結局、数か月も経たずに僕らは引っ越しを決意した。

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 結局、数か月も経たずに僕らは引っ越しを決意した。
 まずはどんなところに住みたいか、意見を出し合った。まず僕は、郊外よりも都市の中心に近い方がよかった。通勤に便利だし、帰るために一時間以上も電車に乗るのは嫌だった。彼女はできるだけ中心部から離れたかった。できれば郊外に入るか入らないくらいのところがいいと言っていた。理由を聞いたが、一度目は教えてくれなかった。なんとなく。フィーリングで。それが彼女の答えだった。僕もそのときは深く聞かなかった。場所を決定するには判断材料が足りなかったから、今、理由を聞いても聞かなくても未来に影響はないように思えた。
それでも数日後、僕はもう一度、なんとなく、その理由を聞いた。僕らは食後の紅茶を飲んでいた。彼女は少し悩みながらも、「実は」と教えてくれた。
「郊外に住んだら、散歩だけでも旅行気分を味わえるかもと思って」
「なるほど」と僕は頷いた。「つまり、旅行に行ってみたいってことだね?」
「まあ、そうなるかな。でも、お金ないし」
 それくらい僕が出してもいい。以前の僕なら言っていたと思うが、今回はそうしなかった。代わりに、提案した。
「旅行資金を一緒に貯めよう」
「引っ越しやめて?」
「ううん。引っ越しをしてから、貯めよう。そして、行きたいところに行こう。郊外じゃなくて、リーチェが行きたいところに」
「何年後になるかな」
「何年後にもならないよ。でも、何年後になってもいいじゃないか。行きたい場所を探しておこう」
 彼女は頷いた。
それから図書館で都市の地図を見ながら、引っ越し先をリストアップしていった。家賃、交通、治安、雰囲気といったところをメインに考えていった。その結果、僕は思っていたよりも郊外の方へ、彼女は少し中心部の地区に引っ越そうと考えを変えた。候補地は三つあり、どれも都市の中心部から幾分か離れたところだった。
お互いが休みの日に、その地区の不動産屋に行き、部屋を見たり、実際の景色や雰囲気を確認しにいった。一番気にいったのは、近くに公園があり、駅まで歩いて15分のところだった。建物もきれいだった。築10年で、空き部屋になることがなかったが、ずっと入居していた人物が引っ越すことになり、ちょうど空いたということだった。
肝心の部屋は広くはなかったが、狭くもなかった。リビングとキッチンの他に、寝室用の部屋がひとつあるだけだが、二人暮らしには十分だった。大家さんもいい人で、最上階の一室に住んでいるということだった。60代くらいの女性で、一人暮らしだった。大家さんは、新年度が始まる前に移ることを条件に家賃を値下げしてくれた。それは僕たちにとって、とてもありがたいことだった。うれしさもあるが、ほっとしたという感じだった。正直言って、そのままの家賃だったら、予算をオーバーしていた。僕たちはその日のうちに、引っ越すことを決めた。
ワンルームの狭い家に戻り、僕はコーヒーを作った。彼女の分にはミルクを入れた。一息ついて、また引っ越しについて話し合うことにした。
「引越しは自分たちでやる? 引っ越し業者を使う? それとも、少し高いけど、リーチェの分だけでも魔法使いに頼む?」
 念のための問いに、彼女は反応しなかった。ただ僕の目を見ていた。だから、また例のかなと思い、僕は気にしないことにした。
「自分たちで運ぼうか」と僕は言って、コーヒーをまた飲んだ。
 リーチェは魔法について、怒りにも似た何かを持っていた。口を閉ざし、魔法に関する会話にも応じなかった。話したくないという意思と話せないという病が共存しているような、第三者的にもすっきりしない感覚がそこにあった。一度、それで喧嘩したこともある。彼女はただ、「わからないの!」と叫んで、泣いた。彼女にとって魔法はただ怒りを生み、増強させるもので、時間以外に感情を鎮めることができない厄介なものだった。僕もそれ以来、魔法と彼女の関係について追求することはやめた。
 僕自身も魔法から少しだけ離れた。特段、困ることはなかった。魔法は高級なサービスだったし、日常生活になければならないものではなかった。もちろん便利だが、まだ手元に置けるようなものではなかった。それでも生活に入ってはくる。新しい魔法サービスや商品も開発される。だから、僕はリーチェの前ではニュースを見聞きしなかった。おかげで少し生活が窮屈になったが、それはそれでスッキリした。煩雑な社会問題と自分自身を切り離すことができた。
 結局僕らは、小さなトラックを借りて、数日に分けて荷物を新居に運んだ。重いものは時間をかけてゆっくりと運んだ。運よく同じ階に住む人の手を借りることもできた。そういった運に、僕らは恵まれていた。
 新居で荷解きしていると、欲しいものがいくつか出てきた。洗濯機は特にそうだったし、食器棚もあった方がよかった。
電器店と家具店を巡り、二人暮らしに相応のものを買った。高くもなく、安くもなく、とびきり高品質でもないが、悪くもない。穏やかで、しかし、現実離れしていない日常がそこにあった。
 ほとんどの荷物を出して、それぞれの場所に落ち着かせたあと、彼女は、お菓子ボックスが欲しいな、と小さくと言った。
「お菓子ボックス?」
「うん。お菓子を入れておくやつ」
「いいね。買おうよ」
 僕がそう言うと、彼女は新しく買った食器棚の空きスペースの長さを、巻き尺で測り始めた。
「そこに置くの?」
「うん。ここに置きたい」
「お菓子をそこに置いたら、取り出しにくくない?」
「だから、いいの。もしテーブルに置いていたら、すぐに手を伸ばしちゃう」
「少しくらい、太ってもいいんじゃない?」
「絶対に嫌」と彼女は笑った。
 しかし、彼女の求めるお菓子ボックスは、なかなか見つからなかった。スペースにぴったり入る長細い箱は、どこにも見当たらなかった。しかし、彼女は一切妥協をしなかった。細長くても短いやつはだめだし、幅もぴったりのものを探していた。お菓子ボックスのために、カトラリーのお店や雑貨屋を一日数軒まわったこともある。正直、歩き疲れた。しかし、そのおかげで、彼女の新しい職場も見つかった。
 そこは引っ越してくる前は、空き地だった。柵があり、工事に使うだろう資材が置かれていた。数日前も、空き地の前を通ったが何もなかった。それが今では一階建ての雑貨屋がある。ログハウスのような、コテージのような外観で小人の人形が外に立っていた。そして、一枚の紙を持っていた。
「なんだろう」
 彼女は人形に近付き、その紙を見るために屈んだ。
 僕も近付き、横に並んだ。
「スタッフ募集か。時給も悪くないね」と僕は言った。
「雑貨屋か」と彼女は呟いた。「いいかも」
「菓子店と皿洗いは?」
「菓子店は、やめないかも。でも、ここで働けるなら皿洗いはやめる」
 そう言って、彼女は雑貨屋の中に入った。すぐに女性スタッフに声を掛けて、求人について質問した。スタッフはもうすぐ店長が来るからと、彼女に待ってもらうように言って、その間、彼女と僕は雑貨屋の中を見てまわった。もちろん、お菓子ボックスがないかどうか探した。残念ながらなかった。
 ハート形のコーヒーカップや、木製の小物入れ、木を彫ってできた地球儀などを話題にしながら、僕たちは店長を待った。彼が来たのは30分後くらいだっただろうか。帽子をかぶり、眼鏡をした40代の男だった。顎髭もはやしていたが、短く揃えていたせいか清潔感があった。
「ようこそ」と彼は帽子を取り、挨拶した。
「こんにちは」と彼女は笑顔で言った。
 僕は頭だけを下げた。
「店長、こちらの方、スタッフ希望の方です」
「ああ、そうなんですね。お二方?」
 僕は首を横に振った。
「私だけです。リーチェ・タミと言います」
「リーチェさん。わかりました。簡単に面接しますから、奥の事務所まで来てもらえます?」
「はい」
「お連れさんは」と彼は言って、女性スタッフに向き直った。「えーと、奥のテーブルで待っていてもらうから、コーヒー出してくれる?」
「いえ、おかまいなく」
「いやあ、待ってもらったし、まだ待ってもらうから」と彼は笑って、リーチェを連れて、レジの先にある扉へ消えた。
「こちらへどうぞ」
 僕は二人を見送ってから、スタッフに案内され、奥にあるテーブルのあるスペースまで移動した。
「商談とかに使うんです」とスタッフは言って、木製のチェアを引いてくれた。
僕はその木製のチェアに座った。
「お砂糖とミルクはどうされますか?」
「では、砂糖だけください」
「わかりました」
 しばらくするとコーヒーとシュガーポットを持ってきてくれた。僕は感謝の言葉を述べつつ、すぐに砂糖を入れて、スプーンを回して溶かした。その間に二つほど質問が浮かんだ。
「少し聞いてもいいですか?」
「はい。なんでしょう」
「この雑貨屋、いつできたんですか?」
「一昨日です」
「……そうなんですね。少し前に通りかかったときは、何もなかったから」
「本当はもっと早くオープンできるはずだったんです。でも、不動産会社と建築会社の手違いで遅れてしまって。建築資材と職人さんの手配が間に合わないって。だから、苦肉の策で別のところで建物を組み立ててから、ここに魔法で移してもらいました」
 なるほどね、と僕はコーヒーの味を確かめながら思った。そして、もうひとさじ分の砂糖を入れ、かき混ぜた。
「だから、いきなり建ったように見えたんだ」
「お金もかかったみたいです。地面の中に基礎も移動させなきゃいけなかったから。でも、私たちに非はないので、費用は不動産会社と建築会社持ちですけどね」
「ちなみに、ここの雑貨屋は魔法に関するものを扱っていますか?」
「いえ、魔法に関係する商品は何もありません。魔法が付加された商品は高いって聞くし、資格やメンテナンスも必要だから、私たちには扱えないってのが本当のところですけど」
 よかった。僕はリーチェの顔を思い出しつつ、言った。もし魔法関連のものがあれば、働けないだろうなと思った。
「それでは、私は仕事に戻ります。ごゆっくり」
「ありがとう」
 コーヒーを飲みながらリーチェを待っている間、お客が何人か来た。三人くらいは見て周っただけで帰っていったが、一人は買い物かごに小鳥を模ったオブジェを入れていて、もう一人は手に木製のソーサーを持っていた。
 天井を見上げると、ファンが回っていた。空中にはコーヒーの香りと、雑貨の何かの匂いが混ざっていた。嫌なにおいではなかった。むしろコーヒーの香りが強くて、申し訳ないと思ったくらいだった。
 コーヒーを飲み終わったくらいに、リーチェが戻ってきた。満足そうな顔をしていた。
「どうだった?」
 彼女は顔を近づけてきた。
「採用だって」と小さく言った。
「いきなり? すごい! よかったね」
「でも、フルで入ってもらいたいって。だから菓子店と皿洗いの仕事、両方を辞めなきゃいけない」
「なるほど。どうするの?」
「ちょっと悩んでる。……でも、やっぱり、ここで働いてみたい。運命みたいで、なんかすてき」
「たしかに、偶然だし、運命的だね。それに通勤はだいぶ楽になるね」
「うん」
「応援するよ」
「ありがとう」
 彼女は雑貨屋の店長に二週間の猶予をもらい、その間に菓子店と皿洗いの仕事を辞めた。唯一の友人は悲しがったが、関係が途切れるわけではなく、たまに遊びに出かけてた。
 翌週には、彼女は雑貨屋で働き始めた。曜日によって異なるが、午前10時から午後19時の間で、8時間程度働いた。残業はほとんどしなかった。朝は彼女が僕のために弁当を作ってくれて、夜は僕が晩御飯を作ることが多かった。掃除は二人が休みの日にまとめてやった。お互いが分担して家事をこなすのは、共同生活らしくてよかったし、不満が噴出することはなかった。同棲は間違いなかったと思う。休みの日が合わないのは以前もそうだったし、困ることはなかった。
 休日はより慎ましく過ごした。旅行費用を貯めたかったのもそうだった。映画館や喫茶店に行く回数も減らした。その代わり、図書館に行く回数が増えた。もっぱら旅行ガイドや旅行記、いろんな街の写真集を借りて読んだ。雪降る北から、太陽がまぶしい南の町まで、想像しながらページをめくっていった。しかし、ガイドブックはどうしてもバックナンバーのものしかなく、僕らはそれで満足することができなかった。お金使うけど仕方ないね、と最新の国内旅行のガイドブックを買った。
100ページ以上ある分厚いやつだった。それを毎晩、寝る前に開いて読んだ。僕は雪降る山村でスキーをしたり、温かいチーズ料理を食べたかった。彼女は広い草原でピクニックをしたり、馬に乗ったりしたかった。
いいね。いいでしょ。一週間くらいは旅していたいね。少なくともね。
僕らは語り合い、目を閉じ、手を繋いで幸せな気分で夢の中に落ちていった。
現実では、僕は忙しくて終電近くまで働くこともあった。彼女は仕入れや在庫管理も少しずつ任せられて、ミスや混乱に陥ることもあった。ただ、嫌になったわけではない。僕は自分の仕事に誇りをもっていたし、好きだった。彼女も雑貨屋で働きながら、お菓子ボックスを探し求めるという楽しみもあった。
お菓子ボックスは、狂気的に探していたわけじゃない。仕事の片手間に、いいのがないかしら、というふうに、ぼんやりカタログを見たり、輸入業者に聞いてみたりしていた。それでも、見つからないのがお菓子ボックスだった。
 僕は一度、作ることも提案したことがある。見つけるよりも、作った方が早いように思えた。もちろんそういった小物入れを作ったことはない。ただ、作れないこともないだろうと思った。蓋もいらなければ、特殊な形でもない。木材を切って、接着剤か釘で付ければそれでよかった。でも、彼女はその提案を受け入れなかった。
「なんだかね、探すのも楽しくなっちゃったの。偶然に雑貨のお店を見つけて、働けるようになったみたいに、奇跡的に、運命的に、そのお菓子ボックスに出合う気もしてるんだ。もちろん、アルが見つけたら手に入れてね。絶対だよ」
「わかった。見つけたら、必ず手に入れるよ」
その頃の僕は、幸せだった。お菓子ボックスが永遠に見つからなくても、便利な魔法を使わなくても、僕たちは不自由なく暮らした。その中に多少の不便や不幸はあった。でも、長く、広く見れば、それは些細なことだった。思い出にしてしまおうといった感じで、苦でもなかった。
 でも、リーチェがいなくなるのは、違う。
 その週は、なぜだかリーチェの機嫌が悪かった。悪かったというほど、わかりやすかったわけじゃない。夕食をあまり食べなかったり、寝るのが早かったり、ため息をしたり、なんだか妙な緊張感があった。
 僕はそんな彼女の肩や脚を揉んだり、好きな紅茶を淹れたり、仕事帰りにケーキを買ってきたりして、和やかな彼女が戻らないかがんばってみた。彼女は、ありがとう、と言ってくれたが、それでも時折、そこに暗い顔があった。
「何かあったの?」と僕は聞いた。
「何もないよ」と彼女は笑顔で答えた。でも、声に力がなかった。
「本当に?」
「本当に。何かあれば、話すよ」
「何か辛いことがあれば、絶対に話してね。僕はリーチェより年上だから、相談相手としては間違いじゃないはずだよ」
「年齢は関係ない。その人を見て、相談する」
「確かに。僕が力不足なら、他の人に相談してもいいと思う。友達でもいいし、雑貨屋の店長さんでもいい。美容室で、何気なく話してもいいかもね」
「ううん。力不足とかじゃない。とにかく、大丈夫。安心して」
「本当に?」
「本当にだって」と彼女はもう一度笑った。「大丈夫。何の心配もない」
そんなこと、ないだろうに。僕はそう思いながらも、険悪な雰囲気になるのを避けるため、追及しなかった。もし、もう一度、苦しそうな顔を見たら、臆せず聞こう。そう決意し、問題を先送りした。
僕らはベッドに入り、手を繋ぎ、掌が熱くなってくると離した。明日も仕事がある。
「おやすみ」
「おやすみ」
 僕らはいつもの挨拶を交わして、眠りについた。
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