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「レーニが消える」

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「レーニが消える」
 男が言うと、微かに岩の上が光った気がした。だが、それがリーチェと何の関係があるのか少しもわからない。見えない人間。妄想のような存在。しかし、信じなければ救われない気持ちも少しわかる。
 僕はウィマのおじさんを思い出した。森の中で、妻の影と暮らす孤独な男。
「僕にもリーチェの幻想を見せるのか」
「幻想?」
「森の中に住む男だ。存在しない妻と暮らす男。知っているんでしょ?」
「ああ、知っている。幻想とは暮らしていないけどね」
「僕をその男と同じようにするのか。リーチェの幻想を僕の中に植え付けるのか」
「だから、幻想とは暮らしていないと言っているじゃないか。全く、きみは話をややこしくするね。仕方がない。簡単に説明してあげるよ」男はこちらに向き直り、どこからか椅子を出して座った。「座りたまえ」
 いつの間にか、僕のすぐ後ろにも背もたれ付きの椅子があった。
「まず、リーチェはミサイルの移動に成功させた。きみも新聞やニュース番組で見ただろう」
 僕は男から目を離さずに椅子に座った。
「リーチェは、母親であるレーニに力を貰いつつ、ミサイルを宇宙の彼方に追いやった。素晴らしいことだった。しかし、力をほとんど使い果たしたリーチェは、体を保つことができなかった。私たちの力とは、そういうものなんだ。魔法というのは、全てを使う必要があるんだ。精神も、魂も、細胞も、全部だ。……それでもリーチェは最後の力を振り絞り、きみを祝福し、レーニに呪いをかけた。きみには不死を、レーニには存在できない生を与えた。きみにはレーニが見えなかっただろうが、いつもきみのそばにいたよ。なぜだと思う?」
 知るわけがない。そう思いながら、首を振った。
「リーチェにはこういう計画があったんだと思う。計画というより、強い意思かもしれない。それは自分の体が破壊されたとしても、もう一度、再生させてみせるということ。そして、もう一度、きみに会うということ。実際に、今、リーチェはバラバラになった力を集めて再生しようとしている」男は岩の上を手で示した。「しかし、それを知らずにきみが死んでは困る。だから、不死の力を与えた。自殺されては困るし。そして、魔法世界との繋ぎ役として母親であるレーニを配置した。おかげできみは、ここにいる。正直、きみが旅行にきたり、フォルレオが手紙を書かなかったら、私はきみに会いに来なかったかもしれない。だって、面倒だからね」
 やはり、男が何を言っているのか理解できない。
「でも、ほら、私だって申し訳ない気持ちもある。きみとリーチェを付き合わせた罪というか、放っておいた罪というか。きみたちが愛し合わなければ、悲しみ合うこともなかったんだからね。だから、私は別の提案もしたんだよ。うなじがステキなウィマだよ。あの子と幸せになる権利だってあったんだよ。もちろん、きみが望めば今だってある。魔法好きのウィマは、きみのことを愛してくれる。身も体も捧げてくれる。それはきみと、魔法と、結果的に世界のためになる」
「彼女を利用したのか?」
「そうだ。きみには幸せになってほしいからね。私たちを救ったリーチェの愛した男だ。誰が嫌いになれるもんか」
「ウィマに何を言ったんだ」
「彼女は魔法が好きだ。でも、彼女は魔法使いにはなれない。魔法使いというものは才能よりも、血が重要だから。でも、彼女は魔法使いの母にはなれる。だから、それを約束した。きみと恋仲になれたら、魔法使いの子を授けると」
「ふざけている」
「ウィマは了承したよ」
「あんたは僕とリーチェを愚弄している。もしリーチェの計画が本当だとして、万が一にも僕とウィマがそういう仲になったとしたら、再生されたリーチェはどう思う?」
「きみの幸せを喜ぶんじゃないかな。娘はそういう子だよ」
「じゃあ、僕の気持ちはどうなる? リーチェと再会したとき、僕はどんな顔をすればいい?」
「まず、そうなったらリーチェはきみに会いに行かないと思うけども、まあ、会ったとして、きみはただ困惑するだけだろうね。リーチェとよりを戻すことはしないだろう。きみの性格からして」
 男はカップを出し、何かを飲んだ。
「アルくん。こんな生産性のない会話は、私はもうやめるよ。物語を進めようじゃないか。きみがやれることは少ない。一つめは私の言うことを信じて待つこと。二つめは私の言うことを信じずに死ぬ方法とリーチェを探す旅を再開すること。三つめは新しい愛を見つけることだよ。でも、きみ、考えてみてくれよ。何が真実に値して、希望に満ちているかを。私の話が偽りだとしても、きみが死ねないのは事実だろう。自ずと真実が見えてこないか?」
 僕は男の言葉を何度も咀嚼した。甘美なところも、苦いところも、肉のようなところも、砂利のようなところも、幾度となく自分の中で砕いた。
 結果的にわかったことは、何もない。やはり男が何を言っているのか理解できない。表面的なことはわかる。待つか、待たないか。どちらかだ。そして、待つことは男を信じることになる。リーチェを利用した男のことを。いや、僕は何を考えているんだ。リーチェを利用したことだって嘘かもしれない。
「何を考えているのか、わかるよ」男はため息を吐いた。「それでも、きみは私とリーチェを信じるしかない。信頼しろとは言わないけどね」
 僕は男から目を離さず、それでも頭と心でリーチェのことを思った。突然いなくなったリーチェ。存在しないのかもしれないと思った。リーチェ。それでもいるはずのリーチェ。
「僕とリーチェは、偶然出会ったんだよ」
「知っている」
「喫茶店で、リーチェは紅茶とたまごサンドを食べていて、でも食べ終えてレジまで行くと焦り始めた」
「知っている」
「バッグの中を何度も確認して」
「財布を忘れていた」
「そう。財布を忘れていた。だから、僕が代わりに払った。彼女は、困ったような、でも助かったみたいな複雑な顔をしていた」
「はあ。仕方ないね、きみは」
 僕は男の声をできる限り無視した。全ての意識をリーチェとその思い出に向けた。深く、深く、眠るように、そして一瞬の走馬灯のように、それは蘇ってきた。
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