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産婆が取り上げ、女の子だよと教えてくれて安堵した。

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 産婆が取り上げ、女の子だよと教えてくれて安堵した。お腹の中にいたときから、何か特別な力があると第六感的に感じていたが、育ててみるとすぐにわかった。
 リーチェが初めて物を移動させたのは、ガーゼのハンカチだった。口からはみ出た乳を拭おうとしたら、リーチェはそれを小さな手で払い、ガーゼは消えた。どこにやったのかと部屋の中を探してみても見当たらない。ふと窓の外を見ると、ふらふらと空からガーゼが落ちてきた。まだ笑いもしないのに、ガーゼを消すのが楽しいのか、何度もやられた。見つからないこともあり、新しいものを何枚も用意した。その他にも、哺乳瓶やオムツも消した。おもちゃも消し、おくるみも消した。とにかく消した。でも、人を消さないのは不思議だった。無自覚に非道なことをやってもおかしくないのに、人に危害を加えることは一度もなかった。
 それでも、あらゆるものをどこかに消していくのに、私は困り果てた。ベッドを消したときは、このままだと家の中が空っぽになっていくと、泣きそうになった。新しく買って、そこに置くことはできる。でも、そうすることが辛かった。
 そんなとき、創造主様がやってきてくれた。創造主様は、いつの間にか部屋にいて、リーチェを抱いていた。
「生まれたね。よかった」
 口髭を蓄えた創造主様はそう言って、娘の額にキスをした。それから、娘は物を消さなくなった。力は封印されたのだと、私は理解した。
「今まで放っておいてすまなかったね」
「いいえ、そんな」
「とにかく、よくやってくれた。これでいつかくる厄災にも立ち向かえる。世界は救われるだろう」
 創造主様はそのまま一晩泊まり、娘のオムツを替え、夜泣きを消し、朝になると何も言わず去っていった。
 娘は丈夫な子で、風邪をひくことはなかった。たまに熱が出たが、機嫌はよく、次の日には治っていた。頭もよかった。3歳になる頃には大人の言うことをほとんど理解し、周りの大人と対等に喋りたがった。当然のように父親の不在を疑問に思い、それについても聞いてきた。
「リーチェのパパはどんな人なの?」
「偉大な人よ」
「なにしてるの?」
「魔法で世界をつくり直しているの」
「どこにいるの?」
「世界のどこかに」
「リーチェ、会ったことある?」
「小さな頃に一度だけ」
「ふーん」
 リーチェはその他大勢の子どもと同じように育っていった。癇癪を起こし、よく笑った。でも、魔法については靄がかかったかのように、興味を示さず、何も聞いてこなかった。私が本や食器を移動させても、何も感じていないようだった。
 そんなリーチェに私は落胆していた。創造主様が力を封印したとはいえ、将来、世界を救う存在として産んだのだから、少しはリアクションをとるべきだと思った。
 しかし、それは虚しい望みで、次第に私も彼女に興味を失っていった。創造主様がいつか迎えにくることを考えて、最低限に育てるつもりで育てた。私の最大の役目は、産むことで、育てることではない。
 いつしかリーチェは初潮を迎え、私の身長に並び、私を無視するか、強く反発し始め、魔法については無興味から嫌忌へと変わり、そのまま学生時代を過ごし切った。そして、手紙をひとつ残して私から離れていった。
 手紙には、私の愛情の希薄さが嘆かれていた。それでも、今まで育ててくれた感謝の言葉があった。その優しさに、私は安堵した。
 この優しさが、世界を救うことになる。
 私は思わず声を出して笑っていた。喜びと僅かの嘲笑があるのを自覚した。
 創造主様がまた私の前に現れてくれたのは、それから数年後だった。
 海岸沿いのカフェで、穏やかな青海を見ながら紅茶を飲んでいると、いつの間にか隣の席に座っていた。
「レーニ、そろそろかもしれない」
 口髭を触りながら、創造主様は言った。
「お久しぶりでございます」
「久しぶりだね」
「私がまた必要になるんですか?」
「きみとあの子の力が必要だ」
「あの子も……。わかりました」
「残念ながら命をかけてもらうことになる」
「それは大丈夫です。そのために、私と娘がいます。でも、気がかりなのは娘が今、どこにいるかわからないことです」
「それについては、安心してもらっていい」創造主様は知らぬうちにティーカップを持っていた。「彼女は恋人と暮らしている」
「恋人?」
「そう。恋人。偶然にも君たちと同じファミリーネームを持っている。もちろん、男だし、魔法の特性もない」
「どんな男なのでしょうか」
「人畜無害だよ。私の予定からは外れているけど、私たちの優しい娘が選んだ優しい男だ。やわな男ともいえるけど、それはどうだっていいことだ」
「きたる日はいつなのでしょうか」
「もうすぐ。でもいつかわからない。だから、今すぐに説得を頼むよ。命を投げ出して、人類を救ってほしいと」
 創造主様は紙を出した。住所が書かれていた。
「自分で行けるね?」
「はい。もちろん、容易いことです」
「よかった。でも、力はできるだけ温存しておくように。対象を宇宙の最果てに送ってもらいたいからさ。でも、心配はしないで。万事うまくいくようにしている」
 私は頷き、残りの紅茶を飲んだ。カップを置くと、創造主様はもう消えていた。
 私は家に帰り、身支度を整えた。着替え用の服と下着は所定の位置に置いた。地図を広げ、都市とリーチェがいる住所、そして、その周りを確認した。
 私は肩掛け鞄に財布だけを入れ、寝室の隣にあるドアの前に立った。手でドアノブを握り、教えてもらった住所の、その近くにある公園を想像した。誰かとぶつかってはいけない。空中に移動しようと考え、ドアを開けて中に入った。
 衝突は杞憂に終わった。公園には誰もおらず、私はゆっくりと地面に降りた。公園の外にはビルがあり、空の面積はだいぶ少なかった。
 都市というのは、窮屈なところだと改めて思い、こんなところに住むのはどうかしらと、ため息が出た。海がすでに懐かしかった。
 リーチェの住んでいる部屋は、公園の通りからワンブロック入ったところにあった。コンクリートの建物で、周りの建物と比べて、比較的新しいのか、壁に染みはない。
 私はエントランスドアを開け中に入り、階段をのぼった。部屋は4階にあった。
 部屋の扉前に立つと、ノックをしようか逡巡してしまった。血の繋がりのある娘とはいえ、仲は悪く、会うのも数年ぶり。しかし、使命を考えると手は自然に動いた。
 ノックをする。返事はない。部屋からは物音もしない。
 私はもう一度ノックをしようと手を握り締める。そのとき、扉の横にチャイムのボタンがあるのを見つけた。
 チャイムを押すと、ビーっという嫌な音が鳴った。もう一度、鳴らす。蝉が死ぬときのような音。
 建物の廊下のいちばん先に窓があった。そこからバイクか何かのエンジン音が響いてきた。廊下が、しんと黙っているのがよくわかる。白い少し反射のある床は、なぜか学校の宿舎を思い起こさせた。
 よそ見をしていると、ガチャリと鍵の開く音が鳴り、扉が開いた。懐かしい顔が疑いとともに覗いていた。黒い髪もそのままだ。
「どうしてここに?」
 久しぶりの声。
「必要だから来たの」
「必要って?」
「中に入ってもいいかしら。それとも、私の家に行く? すぐよ」
 扉はさらに開かれ、私は入る許可を得た。
「おじゃまするわね」
 娘越しに部屋を見ると、思いの外、広かった。それは白い壁紙のおかげかもしれなかった。窓から差す陽の光が反射している部屋は、私の住まいを思い起こさせた。
「きれいにしてるわね。都市の部屋って狭くて、ごみごみしているかと思ったけど」
「何しにきたの? なんで住んでるところ知ってるの?」
「立ったまま話すには長くなるんじゃないかしら。まあ、簡潔に言ってもいいけれど、それでいいのなら」
 娘は渋々といった感じで後退り、部屋の中に戻っていった。
 私は靴を脱ぎ、すでに椅子に座っている娘と反対側の椅子に座った。テーブルの上には花瓶があり、花が一輪差してある。
「創造主様に、この場所を教えてもらったの」
「また創造主様?」
 娘はうんざりしたような顔を見せた。おそらく私にしか見せない顔。
「20年ぶりかしら。お目にかかったのは」
「私は一度も会ったことがない」
「生まれたばかりの頃にあるわよ」
「何度も聞いたけど、覚えていない。ここも、どうせ、探偵か何かに調べてもらったんでしょ。ママはお金だけはもってるから。その魔法のおかげで」
「あなたも持ってるわよ。封印されているだけで」
「そういう話はいい。興味がないから」
「後天的に魔法が使えるようになる人なんていないのよ。魔法使いはみんな能力を持って生まれてくるの。使えないのは力が眠っているだけ」
「だから、そういうのやめて。魔法使いになりたいだなんて思ってない」
「昔から興味なかったものね」
「魔法使いはみんな傲慢。私はそんな人間になりたくない」
 優しい瞳の力強い眼差しは、誰にも似ていない。
「魔法使いは、みんな優しいわよ。世界のことを思っている。誰一人、利己的な人はいない」
 娘は目を閉じて、首を振った。
「もういい。さっさと用件を話して、出ていって」
「もうすぐ世界の終わりが来ます。そのために私たちが力を使い、世界を救います」
「何言ってるの?」
「これが用件よ」
「私たちって何?」
「あなたと、私」
 娘は首を振った。
「出てって」
「理解したってこと? それならよかった」
「出てって。そんな意味不明なこと信じられるわけないでしょ」
「そのときは必ずきます。確かにあなたの力を使います」
「海に帰って」娘はうんざりといった感じに額に手を当て、俯いた。「あの町で優雅に暮らしていればいいでしょ。魔法を使って」
「それは私の使命じゃないから」
「お母さんの使命なんてどうでもいい。とにかく、話が終わったのなら帰って」
「きたるとき、あなたの恋人も死ぬでしょう」
 私が言うと、娘はわかりやすく固まった。私の目を見て、それから唇を見て、言葉を掴もうとしていた。
「ここに一緒に住んでるんでしょ?」と私は聞いた。
「彼に会ったの?」
 私は首を横に振った。
「なんで彼が関係してくるの?」
「この国の、いえ、この人類の存亡に関わるからよ」
 娘は私と違った意味で首を振った。
「彼と、国や人類が何の関係があるのよ」
「あなたと付き合っているせいよ。とにかく、あなたは知ることになるわ。動くことにもなる。自己愛よりも与える愛の方が、本当の意味で愛しているということに気付いていればね」
「とにかく帰って」
「今日のところは、ね。封印が解かれる日を待っているわ」私は立ち上がり玄関へ向かい、靴を履いた。「でも、本当のところは永遠に封印が解かれない方がいいのよね。世界にとっても、あなたにとっても。でも、そういうことはないのよ。あなたは、このために生まれてきたのだから」
 私が部屋から出ると、ドアはすぐに閉められ鍵をかけられた。窓からまたバイクか何かのエンジン音が聞こえてきた。
「静かなホテルを探さないと」
 私は建物を出て、人のいなさそうな方向へと進んだ。
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