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陽が傾くと、彼は地図を何度か開きながらダイナーに戻った。

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 陽が傾くと、彼は地図を何度か開きながらダイナーに戻った。すでに男が来ていて、魔法車の隣に立っていた。
「すごい騒ぎだったな」
「市長が倒れるところを見ました」
「そりゃあ、災難だったな。いたるところで市長の熱狂的支持者が集まって、さっきまで抗議していたらしい」
「何の抗議ですか?」
「暗殺だ。陰謀だ。その類だろうね」
 彼は財布を出し、いくらかお金を出した。
「やっぱり先に払います。足ります?」
 男はお札を受け取り、枚数を数えた。
「うん。足りるよ」
「昼間、マーさんに会いました」
「そうか」
「服代は払うなって」
「なるほど。わかった。じゃあ、紹介料だけもらおう。これはお釣り」
 男は数枚のお札を返してきた。
「マーは、いい奴だっただろ」
「ええ。ご飯に誘ってくれました。行かなかったけど」
「あいつはいつも腹を空かせているからな」
 朝に比べ、道端や街の雰囲気はさびしくなっていた。人通りは少なく、走る車も少ない。それでも憤怒のにおいが、たまに聞こえてくる雄叫びや犬の遠吠えから感じる。
「市長が亡くなって、残念ですね。僕はよくわかりませんけど、この市にとっては不幸でしょうね」
「さあ、どうだろうね。喜んでいるやつもいるかもな。電力会社とか、魔法使いとかね」
 彼は何も答えなかった。
 男は魔法車のドアを開けた。
「ホテルに帰るかい? それとも別のホテルにするか?」
「本当は別のホテルがいいです。でも、あそこにまだ残しているものがあるので」
 彼は助手席のドアを開けて乗った。
 エンジンがかかると、魔法車はゆっくりと走り出した。大通りに出てスピードに乗ると、走り出しと同じくらいの速さで上昇していった。
 8階建てくらいのビルを通り越し、眼下にまばらな人々と沿道の樹木を見る。人々は魔法車を見上げている。朝とは違い、どこか懐かしい気もする。数時間で奇想天外なことが起き、そこから去っていくせいかもしれない。
「そういえば、市長は魔法を排除すると言っていました。この車はどうなるんでしょう」
「幸か不幸か、市長は死んだ。魔法排除の動きはなくなるか、しばらくは動かないだろうな。とはいえ、考えてみろよ。みんな、魔法に興味津々だ。簡単に捨てられないさ。市長が生きていても、さほど変わらなかったと思うね。魔法車だって、市長が何をしようとさらに飛ぶようになったさ。今はまだ少ないだけで増えると思うがね」
「そうですか」
「そうさ。だから、もし、暗殺だとしたら焦り過ぎだと思うがな」
「暗殺?」
「おっと、聞かなかったことにしてくれ」
「……誰が殺すんですか? 一体、何のために?」
 彼は一点を見続けた。市街地から、郊外の田畑の上に出た頃にようやく顔を上げた。
「ホテルは魔法を使っています。魔法を排除されたら、困るのはホテルです」
 男はハンドルを握ったまま、声を出して笑った。
「いいね。その推理、聞かせてくれよ」
 その反応を見て、彼は首を振った。
「……忘れてください」
「面白いと思うけどね」
「いえ、人の死で遊ぶのはいけませんね」
「自分の命は蔑ろにするのに?」
「僕は真剣に捨てようと思っています。それに自分の命です」
「そうかい。ただ聞いてくれ、俺は世界のどこかで誰かが死んでも可哀想にと思うくらいだが、あんたが車から飛び降りようとするならきちんと助ける。わかるか?」
「わかります」
 彼は目を見て言った。そして、それでも、と無言で付け加えた。
 彼らはそこから何も喋らず、車は空中を進んでいき、空は少しずつオレンジ色に染まっていった。森は夕陽に照らされ美しかった。窮屈な沈黙がなければ、心地よかった。
 ホテルの門が見え始めると、車はゆっくりと降りていった。地面に着くと夜がよくわかった。門のろうそくは轟々と燃え、門番のように存在していた。
「玄関まで行くかい? それともここで降りる?」
「玄関まで」
 車は門をくぐった。
 ホテルは特段変わった雰囲気はなかった。車が止まり、彼が一呼吸置いて出ると、ホテルマンが駆け寄ってきた。
「タミ様、大丈夫でしたか?」
「ええ、大丈夫です」
「お怪我は?」
「怪我? いえ、なにも」
 ホテルマンが先導して、受付に行く。受付には、湖のバスを予約してくれたメガネくんがいた。
「タミ様、心配いたしました。大丈夫でしたか? 帰りのバスにも乗っておらず、スタッフからは行方不明とも聞きましたので」
「スタッフって?」
「カフェで働いている……」
「心配をかけました。怪我はしていません」
「それは何よりです。あの、少々、お待ちいただけますか?」
「はい」
 メガネくんはそう言うと、どこかへ足早に消えた。数分後、戻ってきたときは、責任者を連れていた。
「タミ様、ご無事で。うちのスタッフがとんだご無礼を働いたようで」
「いえ、僕が勝手に出ていっただけです」彼は首を振った。「彼女は何も悪くありません」
「何と言えばいいのやら。スタッフにも伝えます。少しパニックになっていたので」
「申し訳ないことを」と彼は言って、その続きは紡がなかった。半分は正当防衛のようなものだと思っているのだろう。
「あの、部屋で休んでもいいでしょうか。シャワーも浴びたいし」
「もちろんでございます」
 責任者が言うと、メガネくんが受付に行き、キーホルダーから鍵を取った。
「ろうそくは全て取り替えております」
 彼は、ありがとう、と頷き鍵を受け取った。
「それと」責任者はポケットから封筒を取り出した。「こちらお手紙です」
「手紙? 誰から?」
「それは申せません。申し訳なく思います」
「わかりました」
 彼は封筒も受け取り、鍵と一緒に大事そうに両手で持った。
 階段を上り、彼の姿が見えなくなるまでメガネくんと責任者はそこにいた。彼が見えなくなると一言二言話し、二手に分かれ、それぞれの仕事に戻った。
 彼は足早に部屋に戻り、ドアを閉めると鍵をかけた。誰も入ってくれるな。手紙と一対一でいたい。そんな気持ちを感じられた。
 封筒からは、一枚の折り畳まれた紙が出てきた。そこには、あの書類のような文字があった。
  
 タミ様
 明日の朝、
 ホテルのカフェで
 お待ちしております。
 遅くなり
 申し訳ございません。
  
「明日の朝。ホテルのカフェ」
 彼は約束を確かめるように繰り返し、それから何度も手紙を見た。前回と同じく裏を読んだり、火であぶってみたりもした。しかし、何も変わらなかった。彼の体と同じように、変化を禁止されているかのようだった。
 彼は秘密を探るのを諦め、服を脱ぎ、シャワーを浴びた。寝ているのか、泣いているのか、何かを考えているか、つむじから足の爪の中まで清めているのか、30分も出てこなかった。浴室から出てくると彼は清潔な下着を身に付け、そのままベッドにもぐりこんだ。一日の疲れを精一杯取ろうとしていた。彼の生きようとする行為は久しぶりに思えた。明日に備えて、彼は興奮を抑えながら、しっかりと目を閉じ、寝息を立て始めた。朝まで起きそうになかった。
 彼が寝ている間、部屋はじっと耐えていた。彼の代わりに、ろうそくの火も揺らさずに、風の音も聞かせずに、夜の静かな鞭打ちに声を漏らすこともなく、安静を保っていた。窓の外はどんな景色になっているのか、想像もできない。セコイアが宇宙まで伸びているのかもしれないし、眼下に星が広がっているのかもしれない。いずれにしろ、彼の睡眠と命を脅かすものは何もない。安らかな時間が流れ、消えて、また流れていく。
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