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「バスの時間は、8時だっけ」

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「バスの時間は、8時だっけ」
 彼は重い瞼と頭を動かし、必死に起きようとしていた。両拳でベッドを押し、上半身を苦しそうに起こすと、あとは毎日の流れだった。シャワーを浴び、新しい服に着替える。頬と口周りに少しだけ生えた髭をカミソリで剃ると準備はできた。時刻は7時30分だった。
 彼は財布だけを持ち、部屋を出た。ロビーの赤絨毯にはすでに10名くらいの人がいた。リュックサックを背負っている若い女性。つば付き帽子と肩掛けカバンのおじさん。ステッキを持った老人とその奥さん。彼と同じようにジーンズとスニーカーという男性もいた。
 彼は人々を横目で見つつ、足早にカフェへと向かった。
 今日はすらりとした体型のウエイトレスが案内してくれた。りんごを熟成させたような赤系の髪の毛は、肩を過ぎたあたりまで真っ直ぐ伸びている。
 席に着くとメニューを見ずに「すみません」と彼は口にした。
「コーヒーを。あと、タマゴサンドはテイクアウトできますか。バスで食べたいんです」
 赤系のウエイトレスはにっこりほほえんだ。
「もちろん可能です。コーヒーもお持ち帰りいたしますか?」
 彼は首を振った。
「コーヒーはここで飲みたい」
「かしこまりました。すぐにお持ちいたします」
 赤系ちゃんが去ると、彼は草原を見た。変わらずセコイアが天に向かっている。昨日より数センチも雲に近付いただろうか。
 テーブルに置かれた湯気の立つコーヒーに、ミルクと砂糖をこれでもかと入れて、彼は栄養剤のように飲んだ。熱さからくる痛みは、少しもないようだった。タマゴサンドを入れた紙袋が到着したときには、カップはもう空になっていた。
「ありがとう」
 彼は窓からセコイアをひとしきり眺めると、少し大きめ声で赤系ちゃんを呼び、代金はテーブルに置いたとジェスチャーして席を後にした。
「行ってらっしゃいませ」
 素早く、されど丁寧に。山なりの弓矢のような声が聞こえたころに、彼はドアを閉める。赤系ちゃんはその姿を見ながら窓際の席に向かい、まだ温かいだろうカップを片付け始めた。
 バスはエントランスに到着していた。大型バスで、通路を挟んで左右に二席並んでいるタイプだった。
 帽子をかぶったおじさんが運転手らしく、名簿を手にお客の名前を確認していた。運転手の前には列ができていて、確認が終わるとそれぞれバスの入口へと向かった。
 彼もその列に並び、11のAという後方、窓側の席を指定された。
 バスは意外と広く、前と隣の席との空間にゆとりがあった。彼は座ると窓を触った。遠くの方にホテルの門が見える。
「何日ぶりかな」
 観光地で死に場所を探していたのにも関わらず、彼がホテルの外に出ようとするのは久しぶりだ。死ぬという選択肢を今のところ選べない彼の顔は、以前よりも明るい。悩みが増えただけだが、自分の首を切るよりもいいようだ。
 席は少しずつ埋まっていったが、詰めて座ることはなく彼の横と通路を挟んだ反対側の二席は空いていた。
「もう少しお待ちください。申し訳ございません」
 運転手が顔を出して、出発時刻になったが、まだ乗っていない客がいることを知らせた。
 彼は膝上のタマゴサンドの袋を覗き見た。そして、外をまた見続けた。空耳か、お腹が鳴った気がする。
 しばらく経つと「すみません。すみません」と可愛らしい声が聞こえてきた。乗客の視線が全て集まり、彼女は申し訳なさそうに頭を下げている。
 彼は、ああ、と口を半開きにした表情で彼女を見た。えくぼとうなじが素敵なウエイトレスだった。今日はスカートではなく、ジーンズを穿いている。上は明るい黄色のチェックシャツだった。
 彼女は通路を挟んで反対側の席に座った。リュックサックを窓側の席に置き、深呼吸していた。彼はそんな彼女を見て、袋を両手で隠すように抱き直した。
「それでは出発いたします。約1時間で到着いたします」
 運転手の声は、歌い始めるかのようにほがらかだ。
 ゆっくりと景色が動き始めると乗客の話し声がひとつ大きくなった。彼はホテルの門をくぐって、森を開拓してできた道に入るまで、窓から顔を動かさなかった。車内が笑い声と世間話で充満したころ、彼は彼女を横目で見てから、袋からタマゴサンドを取り出した。カフェで出されるものよりも小さくカットしてあり、つまみやすい。彼はそれを人差し指と親指で挟み、食べた。食べ終わるのに5分もかからなかった。
 彼が袋を小さくまとめた頃、彼ははっときづいたかのように動きを止め、天を仰いだ。ああ、飲み物。そう思い出し、ふと彼女の方を見ると水筒を出しているところだった。
「タミさん、おはようございます。これアイスティーです。もしよければ、どうぞ」
「え、あ、おはようございます。すみません、いただきます」
 彼は席をひとつ分移動し、両手でコップを掴んだ。バスの揺れでアイスティーが少しこぼれ、彼と彼女の手にかかった。
「すみません」
 彼はコップを片手にハンカチを出そうとした。
「大丈夫です」
 彼女は彼より早くタオルを取り出し、自分の手を拭いて、それを彼に差し出した。ウエイトレス的な動きなのか、いやらしさもなく、それが習慣のように感じられる。
 彼はコップを空にして返した。そしてタオルを受け取った。
「ありがとう」
 そう言ったものの、どこか上の空で視点は空中で止まっている。
「どうかしましたか?」
 彼は首を振った。それから、もう一度首を振り、頭を触った。
「なんでも。いや、大丈夫です」
 彼はタオルを返し、進行方向に向き直った。
 彼女は上目遣いで心配そうに、でも、どこか疑っている目で彼の横顔を見ている。
 彼は小さく口を開け、深く長く呼吸をした。外はまだ森で、店も民家も見当たらない。車内はざわついているが、2人は静かだった。
「今日と明日、私は休みなんです」彼女はその静寂を軽々と飛び越えた。「まだまだ湖は遠いので、お話しませんか。隣に座っていいですか」
 彼は彼女を見つめ返し、窓際の席に移動した。彼女は水筒を持って、通路を渡った。バスが揺れ、座り損ねた彼女を彼は支えた。
「ありがとうございます」
 えくぼをつくりながら、恥ずかしそうに髪を触った。
 だが、彼は何も気にしていないようだ。ただ、口を結んでいる。なにも面白いことはないですよ僕と話しても、そんなふうに見える。かわいい女の子が隣にいるのにも関わらず、唇も舐めず、髪も頭も触らず、緊張していないのは意外で、かといってひとりの時間を邪魔されて苛立っている様子もない。この数カ月で一番、彼らしい姿かもしれない。
「タミさんは湖で何をするんですか?」
「何も」彼は首を振った。「歩くだけかも。そんなことより、なぜ僕の名前を?」
「窓から落ちたからです」
「そうだよね」
 彼は声を出して笑った。車内の騒音のひとかけら分の、周りに溶けて消えていく自然な笑いだった。
「今日はウエイトレスでも、ホテル関係者でもないので、何でも聞いてください」
「名前は?」
「ウィマです」
「ここの出身?」
「うーん、違います。育ったのはもっと南の方です。雪が降っても積もらないような場所です」彼女は水筒を膝の上に置いた。「タミさんは、どこの出身ですか?」
「僕は西の方。山あいの町で育った」彼は窓の外を指差した。「こんなふうに木がたくさんあって。僕の家は麓にあったんだけど、祖父母の家は山の中にあった。山道を40分くらい登って、遊びに行ってた。親は車で登ってたよ。僕も今ならそうする」
「まだご健在ですか?」
 彼は首を振った。
「でも、家はまだあるよ。親が管理してる」
 出発して20分は経っていたが、外は同じような風景が続いていた。
「ずっと森だね。こんなに広い森は初めてかもしれない」
「最後まで森ですよ。近くに村があって、その辺りは拓けていますけど。畑もあります」
「ウィマさんは湖で何を?」
「おじさんの家に行って、あとはのんびりします」
 彼は頷いた。
「どうして旅行先をここにしたんですか?」
「ガイドブックを見て、自然がきれいだったから。あとは」
 彼は考えるように言葉を止めた。彼女は黙って続きを待った。
「知らないところに来たかった。ガイドブックの説明文はあえて読まなかったから、魔法を避けているところだとは思わなかった」
「驚きました?」
「最初は。ただ、クリーニング屋は魔法を使ってたと思うし。いいバランスがとれているのかもね」
 彼女はにやりと笑った。
「まだまだですね」
「なにがです?」
「この市の、この場所の秘密です。もし、タミさんがよければ後で案内しますよ」
 彼は肩をすくめたが、「その秘密が分かるのならば、ぜひ」と返事をした。彼は誰かと会話しているときは、悲しみや死を忘れられるようだ。少なくとも今は泣いていない。
 バスは森の中を走り続けた。何かに出会うことなく、エンジンを動かしている。天は空と雲と太陽が混ざり合い、清々しい画になっている。人々の会話は続いている。目を閉じると眠りの森へ行ってしまうくらい心地のいい時間だ。だが、それも刹那に近い。「あっ、湖。あっち」という声で、バスは着実に、素早く湖に向かっているのが分かった。
 宴もたけなわといったあたりでバスは止まった。駐車場は観光地らしく整備されていて、地面はコンクリートだった。大型車両用と普通車用のスペースに分けられている。
「ご乗車お疲れ様でした。湖に到着しました。お足元お気をつけてお降りください」
 運転手の声で、みんなは荷物を持ってぞろぞろと降り始めた。
 バスから降りると、どこからかフラッグを持ったお姉さんと、カヌーのパドルを持ったお兄さんが現れた。
「おはようございます! ガイドはこちらです!」
「おはようございます! カヌー体験に参加される方はこちらにお並びください!」
 2人がはつらつと言うと、乗客のほとんどが並び始めた。彼と彼女、白髪のおじいさん、初老の夫婦だけが、ばらばらと湖の方へと向かっていった。後ろでは賑やかな話し声が響いている。振り返ると全員が笑顔だった。こちらは彼女を除いて、全員がすでに疲れたような顔をしていた。おじさんと夫婦はどこに行くのだろうか。教会で懺悔でもするのかもしれない。
 湖は森の木々の隙間からちらちらと見えていた。水面の光と波の揺れが手招きしている。獣道を人が整備したような歩道を進むと、湖が真正面に出てきた。さほど大きな湖ではないようで、対岸の様子がなんとなく分かる。
「きれいでしょう」
 彼女は立ち止まって言った。
「たぶん。おそらく。……実は湖は初めて見ました。だから、きれいかどうかは分からない」
 湖は深い緑色だった。濁っているようにも見える。
「いいんですよ。それで。きれいかどうかなんて人それぞれです」
「ウィマさんにはきれいに見える?」
「はい。心が穏やかになります」
「僕は山か、川しか見てこなかったから」彼は息を深く吐いた。「ただ、空気はきれいだな。ずっと吸って吐いてを繰り返していたい」
 彼女はふふふ、と笑った。
「じゃあ、まずはおじさんの家に付いてきてくれますか? 歩いて20分くらいです」
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