北畠の鬼神

小狐丸

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44 お忍びで温泉旅行

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 永禄元年(1558年)三月

 千種城城主、千種忠治が六角家の軍勢に侵攻された時、援軍に向かい六角勢を蹴散らした事で、現代でも有名な温泉地を楽しむ事が出来るようになった。

 俺達は、湯の山温泉にお忍びで来ていた。

 湯の山温泉は、鈴鹿山系北部の最高峰、御在所岳の東麓にあり、三滝川河畔の渓谷に湯治用の建物を千種殿に許可を得て建てた。

 元々、湯の山温泉自体の歴史は古く、昔から利用されていたが、個人でゆっくりと楽しむには、別に北畠家用の建物が欲しかったんだ。

「旦那様、見て下さい。景色がこんなに綺麗ですよ」
「これ煕子、あまりはしゃぐでない」

 湯治など初めての煕子殿が嬉しそうだ。
 それを諌める十兵衛も、恥ずかしがりながらも何処か嬉しそうだ。

 この時代、女子が旅に出るのは難しい。煕子殿がはしゃぐのも分かる気がする。庶民ならまだしも、武家の女子など家からも中々出難い時代だ。




 今回は、お忍びとはいえそれなりの人数で来ていた。

 俺の他に、於市、千代女、楓と六郎、八郎殿に久助(一益)と慶次郎の滝川一族、それと虎慶。そこに十兵衛と煕子殿、その供に左馬助。八郎殿や久助の家族や、於市や煕子殿達の世話をする侍女達を含めるとそこそこの人数だ。

 勿論、八部衆による陰ながらの護衛はついている。

 申し訳ないが、大之丞と小次郎達は留守を守って貰っている。




 川のせせらぎの音を聴きながら、温泉の湯に浸かる。

「ふぅ、良い湯だな」
「気持ち良いですね」
「私、温泉なんて初めてです」
「私も温泉は初めてです」

 北畠家用の露天風呂に浸かるのは、俺と妻達三人、於市、千代女、楓だ。

 此処の北畠家専用の露天風呂は四つあり、その一つを俺達で先に使っていた。

「山桜の時期か、綺麗だな」
「良い場所ですね」
「ああ、千種殿に感謝だな」

 この時代、女性のスタイルで、あまり胸の大きさは評価されない。だけど幸運なことに千代女も楓も現代で通用するメリハリのあるスタイルだ。於市も、もう三年もすれば千代女や楓に負けないスタイルになるだろう。

「今回の温泉は、明智様の奥方様の為ですか?」
「ああ、煕子殿は外出する機会もなかっただろうしね。勿論、於市や千代女、楓と出掛けたかったのもあるぞ」

 千代女は流石に今回の温泉に来た理由を分かっていた。
 煕子殿は元が美人だから、余計に疱瘡の痕が目立っていた。十兵衛は煕子殿の外見を気にしないだけに、本人は思うところがあったと思う。

「煕子様、楽しそうでしたものね」
「本当にそうなら、連れて来た甲斐があったよ」

 十兵衛もうちに仕官してから表情が柔らかくなったしな。





 源四郎や於市達が入っている露天風呂よりも、少し小さな露天風呂に入るのは、明智光秀とその妻煕子だった。

「旦那様、まるで夢のようですね」
「ああ、殿に感謝せねばな」
「本当に……この様な日が来るなんて」

 史実とは違い、明知城落城から然程の時を経ず伊勢で源四郎に仕官する事が出来た光秀だが、その暮らしは驚くほど楽になった。

 元々土岐氏の家臣だった明智氏の、更に傍流に過ぎなかった光秀の暮らしは楽ではなかった。
 それが仕官出来ただけでなく、禄も以前とは比べ物にならないくらい貰っている。

 何より、煕子が明るくなった。

 煕子の顔には疱瘡の痕が残っていた。
 光秀と婚約していたが、父親はその痕を理由に煕子の代わりに妹を光秀へと嫁がせようとした。それを光秀が拒否し煕子を望んだ。

 光秀に感謝し夫婦となった後も仲睦まじく暮らしていたが、疱瘡の後遺症の痕は確実に煕子の心に影を落としていた。

 それを救ってくれた人物が現れる。源四郎が疱瘡の痕が目立たない程度まで治癒してくれたお陰で、煕子の心だけでなく光秀も救われた思いだった。

「殿の為に誠心誠意奉公せねばな」
「そうですね。私も千代女様や楓様の様に、御家のお仕事を手伝えればいいのですが……」
「煕子は我が家の奥を守るのが仕事だと、殿なら言うと思うがな。まあ、それでもお手伝い出来る事があるか聞いておこう」

 そう言いながら、光秀は千代女や楓の姿を思い出し首を横に振る。
 千代女は甲賀望月氏の姫だけあって、文字の読み書きは勿論の事、行儀作法も躾けられている。楓にしても孤児の出とは思えぬ程教養がある。

 それだけではない。あの二人は女子と侮る事が出来ない程に武にも優れている。今はそこにもう一人於市も加わろうとしている。

 煕子はそんな二人に憧れを持っているようなのだ。

 光秀としては、妻が強くなり過ぎるのは夫としては微妙な気分なのだが。





 筋骨隆々な巨漢が壮年の武士に酌をする。

「ふぅ、美味いな」
「それはそうだろう父上、今や清酒は何処からも引っ張りだこだ」
「殿に感謝だな」

 露天風呂に浸かりながら酒を飲む壮年の武士は、滝川資清(八郎)とその息子一益(久助)、そして酌をしていたのが滝川利益(慶次郎)だ。

「おい、虎慶、寝るなよ」
「むっ、寝てはおらん。目を瞑っているだけじゃ」

 大嶋親崇(六郎)にお湯をかけられ、ウトウトしていた岩正坊虎慶が目を覚ます。

「偶にはゆっくり露天風呂に入りながら酒を飲むのもいいな。道順殿と佐助も後から如何か?」

 慶次郎が何処へともなく話し掛ける。
 すると闇から滲み出る様に道順と佐助が現れる。

「ふむ、殿が部屋に下がられたら我等も入るか」
「そうだぜ道順、源四郎兄に護衛なんか必要ないさ。俺達よりもずっと気配を探る範囲が広いんだからよ」
「佐助、其処は影から護る我等が居ると、不埒者に知らしめる為だ。千代女と楓だけでも護衛に十分だからな」

 道順と佐助は、源四郎達を陰ながら護衛していたのだが、正直に言うと源四郎や慶次郎達には不要だろう。ただ、今回は明智光秀とその奥方が同行しているので、戦えない侍女も同行している。その奥方と侍女の為の護衛だ。

「まあ、確かに俺達も居るからな。俺、慶次郎、虎慶の三人がしんがりを務めれば、大軍を展開できないこの土地なら、万の軍勢でも防げるだろうしな」
「その間に、彦右衛門殿(滝川一益)と八郎殿(滝川資清)が殿と撤退するのか……可能だな」

 普通の感覚を持つ者が聞けば、頭がおかしくなったのかと疑うような六郎の話を、道順も少し考え可能だと判断する。

 しかも実際には、そこに自分達八部衆も加わるのだ。可能どころか容易いとさえ言える。

「これ、お前たち、人がのんびりと湯を楽しんでいる側で、殺伐とした話をするでない」
「ははっ、怒られてやんの」
「チッ、佐助め。くそっ、道順は逃げやがったな」

 六郎が八郎に叱られると、いつの間にか道順の姿は消えていた。

「じゃあ俺も消えるぜ」
「あっ、佐助! 逃げるな!」
「俺は何も言ってないからなー。またなー」

 六郎が止めるも佐助もその場から搔き消えるように姿を消した。

 その後、六郎は部屋に戻ってから、たんまりと八郎に説教される事になる。


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