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傷心のもののふ

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 永禄十二年(1569年)五月 伊勢国  桑名城

 本多忠勝と於久は、一室で北畠具房を待っていた。

 本多正信に案内されたとはいえ、こうも簡単に北畠具房との面会が叶うとは思えなかった。

 やがて北畠具房が部屋に入って来た。忠勝と於久は慌てて頭を下げる。

「面を上げてくれ」

 忠勝と於久が顔を上げると、そこに立派な体躯の若武者が座っていた。
 鍛え上げられた事がわかる体躯とは違い、その顔は優しげで気品に溢れていた。
 今まで、戦場で遠くらか見かけた事はあっても、直近に会うのは初めてだった。

「殿、こちらは本多忠勝殿と奥方の於久殿です」

 本多正信が源太郎に忠勝を紹介する。

「北畠左近衛中将源太郎源朝臣具房です」

 忠勝に対して、気軽に源太郎から名を名乗る。

「本多平八郎忠勝と申します」

「於久と申します」

「それでは本多殿、その動かせない右腕を治療しようか」

「……えっ!」

 いきなり源太郎から右腕の治療を持ち掛けられ、訳が分からず絶句する忠勝。

「夫の右腕は治るのでしょうか?また槍を持つ事が叶うのですか?」

 於久がすがるように源太郎に問い掛ける。夫は、気にしていないフリを装うが、槍働きに未練があるのは、愛用の槍を手放せない事からも分かりきっていた。於久もまだまだ若い夫のそんな姿が、不憫で仕方なかったのだ。

「勿論、少し動かす訓練は必要だけど、問題なく治せるよ」

 忠勝は右腕が治るという源太郎の言葉に、正信を見る。
 正信は、忠勝に微笑んで頷く。

「左中将様、お願い出来ますでしょうか」

 忠勝がそう言うと、源太郎がスッと音も無く立ち上がり、上座から忠勝の元に歩み寄る。

「ちょっと動かないで下さいね」

 源太郎は、忠勝の右腕に手を当てると、診察魔法で状態を確認すると、回復魔法を発動する。

 すると腱や神経を傷つけ、全く動かせなかった忠勝の右腕が、自分の意思で動かせる様になっていた。

「……は、ははっ、動く、右腕が動くぞ!」

「旦那様……」

 源太郎が行使した奇跡とも思える技に、忠勝と於久が涙を流して喜んでいる。
 まだ若い忠勝は、やはり相当未練があったのだろう。それは使えない槍を手放せない事からも伺えた。

「暫く訓練が必要だけどもう大丈夫。
 これで徳川殿の元へも戻る事が出来るよ」

 徳川三英傑の一人である忠勝が、徳川家に戻る意味は大きいと考えた。

「いえ、槍働きが出来るように回復したからと言って、今更三河には帰る場所は御座いません。出来る事なら、北畠家の末席にお加え下さいませんか」

 そう言うと忠勝と於久が頭を下げる。

「殿、某からもお願い致します。平八郎の北畠家への仕官をお頼み申します」

 正信も続いて頭を下げる。

「北畠家は間者以外は、来るものは拒まずだから歓迎するが、暫くの間は温泉で静養した方が良いだろうな。今無理をすると治り辛くなる」

「温泉はよろしいですな。於久殿と湯治に行かれればよろしいですな」

 正信も賛成する。

「……温泉ですか?」

 忠勝が温泉を分かっていなかったので、湯治の事を含めて説明する。

「お伊勢参りのついでに湯治するのも良いな」

「そうですな、その間に屋敷の準備をしておきます」

 源太郎と正信が、どんどん話を進めて行く。

「平八郎殿、扶持は弥八郎に聞いてくれ。それと当座の銭を受け取っておいてくれ」






 城から正信の屋敷に戻り、ホッと一息つく。

「平八郎、これを」

 正信が忠勝に銭が入った袋を渡す。受け取った忠勝が中を確認して驚く。

「弥八郎、これは?」

「当座の銭を渡すと言ってあっただろう」

 袋には銭が二十貫分が入っていた。
 北畠家と織田家の経済圏では、金貨と銀貨が流通し始めている。銅銭の私鋳にも取り組んでいるのだが、それでも銅銭不足の解消までには至らず、武田の甲州金を参考にして導入した。

「少々重いが、湯治をするにも銭は必要だろう。扶持は年に二百貫からじゃ。これは純粋に平八郎が使える銭じゃ。部下や下働きの給金は、北畠家から支給される」

「そんなに貰えるのか」

 忠勝は驚くが、それは源太郎が忠勝をそれだけ買っているからだ。

「兵の指揮をとる者の扶持は、その位から始まるのが北畠家の決まりじゃからの。なに、出世して城代でも任されれば、驚くほど高額の扶持を頂ける様になるぞ」

 改めて北畠家の裕福さを感じる忠勝だった。



 忠勝夫婦か湯治に出掛ける日の朝早く、正信の屋敷に忠勝を訪ねる人物がいた。

「平八郎、では行こうか」

「えっ、半蔵殿、どういう事ですか?」

 忠勝夫婦を誘いに来たのは、渡辺守綱とその妻糸だった。

「平八郎も湯治に出掛けるのであろう。儂もこの間の三方ヶ原で手傷を負ってな、殿に治して頂いたのだがな、平八郎が湯治に出ると聞いて、それなら道々しようと思うたのだ」


 半蔵夫婦に連れられて、馬車乗り場へ向かう。

「広い道ですな……」

 近江の今浜から伊勢神宮前まで、馬車の運行が開始されて暫く経つ。
 上下二車線の街道は、馬車や荷車と人が余裕を持って通れる広さがあった。

 乗り合い馬車に揺られて伊勢神宮を目指す二組の侍夫婦。案内する半蔵は慣れたものだが、忠勝夫婦には驚きしかない。

「北畠領内の民は、皆が笑顔ですな……」

「そうであろう、農民、商人、職人、河原者に至るまで、北畠領では皆が幸せに暮らす権利があると、殿は常々仰っている」

「これが北畠家の強さか、この暮らしを守る為には、末端の雑兵に至るまで、死ぬ気で戦うであろう」

「平八郎、北畠軍に雑兵はおらんぞ。指揮官や一兵卒などの違いはあるがな」



 伊勢参りと湯治で、忠勝の怪我も癒え、夫婦でノンビリと温泉旅行を楽しんで桑名へ戻った頃には、忠勝の屋敷も小者を含めて手配されていた。

 忠勝は、同郷の半蔵や正信の弟の本多正重に、北畠家の軍の仕組みや訓練方法を学んで行く。

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