45 / 62
傷心のもののふ
しおりを挟む
永禄十二年(1569年)五月 伊勢国 桑名城
本多忠勝と於久は、一室で北畠具房を待っていた。
本多正信に案内されたとはいえ、こうも簡単に北畠具房との面会が叶うとは思えなかった。
やがて北畠具房が部屋に入って来た。忠勝と於久は慌てて頭を下げる。
「面を上げてくれ」
忠勝と於久が顔を上げると、そこに立派な体躯の若武者が座っていた。
鍛え上げられた事がわかる体躯とは違い、その顔は優しげで気品に溢れていた。
今まで、戦場で遠くらか見かけた事はあっても、直近に会うのは初めてだった。
「殿、こちらは本多忠勝殿と奥方の於久殿です」
本多正信が源太郎に忠勝を紹介する。
「北畠左近衛中将源太郎源朝臣具房です」
忠勝に対して、気軽に源太郎から名を名乗る。
「本多平八郎忠勝と申します」
「於久と申します」
「それでは本多殿、その動かせない右腕を治療しようか」
「……えっ!」
いきなり源太郎から右腕の治療を持ち掛けられ、訳が分からず絶句する忠勝。
「夫の右腕は治るのでしょうか?また槍を持つ事が叶うのですか?」
於久がすがるように源太郎に問い掛ける。夫は、気にしていないフリを装うが、槍働きに未練があるのは、愛用の槍を手放せない事からも分かりきっていた。於久もまだまだ若い夫のそんな姿が、不憫で仕方なかったのだ。
「勿論、少し動かす訓練は必要だけど、問題なく治せるよ」
忠勝は右腕が治るという源太郎の言葉に、正信を見る。
正信は、忠勝に微笑んで頷く。
「左中将様、お願い出来ますでしょうか」
忠勝がそう言うと、源太郎がスッと音も無く立ち上がり、上座から忠勝の元に歩み寄る。
「ちょっと動かないで下さいね」
源太郎は、忠勝の右腕に手を当てると、診察魔法で状態を確認すると、回復魔法を発動する。
すると腱や神経を傷つけ、全く動かせなかった忠勝の右腕が、自分の意思で動かせる様になっていた。
「……は、ははっ、動く、右腕が動くぞ!」
「旦那様……」
源太郎が行使した奇跡とも思える技に、忠勝と於久が涙を流して喜んでいる。
まだ若い忠勝は、やはり相当未練があったのだろう。それは使えない槍を手放せない事からも伺えた。
「暫く訓練が必要だけどもう大丈夫。
これで徳川殿の元へも戻る事が出来るよ」
徳川三英傑の一人である忠勝が、徳川家に戻る意味は大きいと考えた。
「いえ、槍働きが出来るように回復したからと言って、今更三河には帰る場所は御座いません。出来る事なら、北畠家の末席にお加え下さいませんか」
そう言うと忠勝と於久が頭を下げる。
「殿、某からもお願い致します。平八郎の北畠家への仕官をお頼み申します」
正信も続いて頭を下げる。
「北畠家は間者以外は、来るものは拒まずだから歓迎するが、暫くの間は温泉で静養した方が良いだろうな。今無理をすると治り辛くなる」
「温泉はよろしいですな。於久殿と湯治に行かれればよろしいですな」
正信も賛成する。
「……温泉ですか?」
忠勝が温泉を分かっていなかったので、湯治の事を含めて説明する。
「お伊勢参りのついでに湯治するのも良いな」
「そうですな、その間に屋敷の準備をしておきます」
源太郎と正信が、どんどん話を進めて行く。
「平八郎殿、扶持は弥八郎に聞いてくれ。それと当座の銭を受け取っておいてくれ」
城から正信の屋敷に戻り、ホッと一息つく。
「平八郎、これを」
正信が忠勝に銭が入った袋を渡す。受け取った忠勝が中を確認して驚く。
「弥八郎、これは?」
「当座の銭を渡すと言ってあっただろう」
袋には銭が二十貫分が入っていた。
北畠家と織田家の経済圏では、金貨と銀貨が流通し始めている。銅銭の私鋳にも取り組んでいるのだが、それでも銅銭不足の解消までには至らず、武田の甲州金を参考にして導入した。
「少々重いが、湯治をするにも銭は必要だろう。扶持は年に二百貫からじゃ。これは純粋に平八郎が使える銭じゃ。部下や下働きの給金は、北畠家から支給される」
「そんなに貰えるのか」
忠勝は驚くが、それは源太郎が忠勝をそれだけ買っているからだ。
「兵の指揮をとる者の扶持は、その位から始まるのが北畠家の決まりじゃからの。なに、出世して城代でも任されれば、驚くほど高額の扶持を頂ける様になるぞ」
改めて北畠家の裕福さを感じる忠勝だった。
忠勝夫婦か湯治に出掛ける日の朝早く、正信の屋敷に忠勝を訪ねる人物がいた。
「平八郎、では行こうか」
「えっ、半蔵殿、どういう事ですか?」
忠勝夫婦を誘いに来たのは、渡辺守綱とその妻糸だった。
「平八郎も湯治に出掛けるのであろう。儂もこの間の三方ヶ原で手傷を負ってな、殿に治して頂いたのだがな、平八郎が湯治に出ると聞いて、それなら道々しようと思うたのだ」
半蔵夫婦に連れられて、馬車乗り場へ向かう。
「広い道ですな……」
近江の今浜から伊勢神宮前まで、馬車の運行が開始されて暫く経つ。
上下二車線の街道は、馬車や荷車と人が余裕を持って通れる広さがあった。
乗り合い馬車に揺られて伊勢神宮を目指す二組の侍夫婦。案内する半蔵は慣れたものだが、忠勝夫婦には驚きしかない。
「北畠領内の民は、皆が笑顔ですな……」
「そうであろう、農民、商人、職人、河原者に至るまで、北畠領では皆が幸せに暮らす権利があると、殿は常々仰っている」
「これが北畠家の強さか、この暮らしを守る為には、末端の雑兵に至るまで、死ぬ気で戦うであろう」
「平八郎、北畠軍に雑兵はおらんぞ。指揮官や一兵卒などの違いはあるがな」
伊勢参りと湯治で、忠勝の怪我も癒え、夫婦でノンビリと温泉旅行を楽しんで桑名へ戻った頃には、忠勝の屋敷も小者を含めて手配されていた。
忠勝は、同郷の半蔵や正信の弟の本多正重に、北畠家の軍の仕組みや訓練方法を学んで行く。
本多忠勝と於久は、一室で北畠具房を待っていた。
本多正信に案内されたとはいえ、こうも簡単に北畠具房との面会が叶うとは思えなかった。
やがて北畠具房が部屋に入って来た。忠勝と於久は慌てて頭を下げる。
「面を上げてくれ」
忠勝と於久が顔を上げると、そこに立派な体躯の若武者が座っていた。
鍛え上げられた事がわかる体躯とは違い、その顔は優しげで気品に溢れていた。
今まで、戦場で遠くらか見かけた事はあっても、直近に会うのは初めてだった。
「殿、こちらは本多忠勝殿と奥方の於久殿です」
本多正信が源太郎に忠勝を紹介する。
「北畠左近衛中将源太郎源朝臣具房です」
忠勝に対して、気軽に源太郎から名を名乗る。
「本多平八郎忠勝と申します」
「於久と申します」
「それでは本多殿、その動かせない右腕を治療しようか」
「……えっ!」
いきなり源太郎から右腕の治療を持ち掛けられ、訳が分からず絶句する忠勝。
「夫の右腕は治るのでしょうか?また槍を持つ事が叶うのですか?」
於久がすがるように源太郎に問い掛ける。夫は、気にしていないフリを装うが、槍働きに未練があるのは、愛用の槍を手放せない事からも分かりきっていた。於久もまだまだ若い夫のそんな姿が、不憫で仕方なかったのだ。
「勿論、少し動かす訓練は必要だけど、問題なく治せるよ」
忠勝は右腕が治るという源太郎の言葉に、正信を見る。
正信は、忠勝に微笑んで頷く。
「左中将様、お願い出来ますでしょうか」
忠勝がそう言うと、源太郎がスッと音も無く立ち上がり、上座から忠勝の元に歩み寄る。
「ちょっと動かないで下さいね」
源太郎は、忠勝の右腕に手を当てると、診察魔法で状態を確認すると、回復魔法を発動する。
すると腱や神経を傷つけ、全く動かせなかった忠勝の右腕が、自分の意思で動かせる様になっていた。
「……は、ははっ、動く、右腕が動くぞ!」
「旦那様……」
源太郎が行使した奇跡とも思える技に、忠勝と於久が涙を流して喜んでいる。
まだ若い忠勝は、やはり相当未練があったのだろう。それは使えない槍を手放せない事からも伺えた。
「暫く訓練が必要だけどもう大丈夫。
これで徳川殿の元へも戻る事が出来るよ」
徳川三英傑の一人である忠勝が、徳川家に戻る意味は大きいと考えた。
「いえ、槍働きが出来るように回復したからと言って、今更三河には帰る場所は御座いません。出来る事なら、北畠家の末席にお加え下さいませんか」
そう言うと忠勝と於久が頭を下げる。
「殿、某からもお願い致します。平八郎の北畠家への仕官をお頼み申します」
正信も続いて頭を下げる。
「北畠家は間者以外は、来るものは拒まずだから歓迎するが、暫くの間は温泉で静養した方が良いだろうな。今無理をすると治り辛くなる」
「温泉はよろしいですな。於久殿と湯治に行かれればよろしいですな」
正信も賛成する。
「……温泉ですか?」
忠勝が温泉を分かっていなかったので、湯治の事を含めて説明する。
「お伊勢参りのついでに湯治するのも良いな」
「そうですな、その間に屋敷の準備をしておきます」
源太郎と正信が、どんどん話を進めて行く。
「平八郎殿、扶持は弥八郎に聞いてくれ。それと当座の銭を受け取っておいてくれ」
城から正信の屋敷に戻り、ホッと一息つく。
「平八郎、これを」
正信が忠勝に銭が入った袋を渡す。受け取った忠勝が中を確認して驚く。
「弥八郎、これは?」
「当座の銭を渡すと言ってあっただろう」
袋には銭が二十貫分が入っていた。
北畠家と織田家の経済圏では、金貨と銀貨が流通し始めている。銅銭の私鋳にも取り組んでいるのだが、それでも銅銭不足の解消までには至らず、武田の甲州金を参考にして導入した。
「少々重いが、湯治をするにも銭は必要だろう。扶持は年に二百貫からじゃ。これは純粋に平八郎が使える銭じゃ。部下や下働きの給金は、北畠家から支給される」
「そんなに貰えるのか」
忠勝は驚くが、それは源太郎が忠勝をそれだけ買っているからだ。
「兵の指揮をとる者の扶持は、その位から始まるのが北畠家の決まりじゃからの。なに、出世して城代でも任されれば、驚くほど高額の扶持を頂ける様になるぞ」
改めて北畠家の裕福さを感じる忠勝だった。
忠勝夫婦か湯治に出掛ける日の朝早く、正信の屋敷に忠勝を訪ねる人物がいた。
「平八郎、では行こうか」
「えっ、半蔵殿、どういう事ですか?」
忠勝夫婦を誘いに来たのは、渡辺守綱とその妻糸だった。
「平八郎も湯治に出掛けるのであろう。儂もこの間の三方ヶ原で手傷を負ってな、殿に治して頂いたのだがな、平八郎が湯治に出ると聞いて、それなら道々しようと思うたのだ」
半蔵夫婦に連れられて、馬車乗り場へ向かう。
「広い道ですな……」
近江の今浜から伊勢神宮前まで、馬車の運行が開始されて暫く経つ。
上下二車線の街道は、馬車や荷車と人が余裕を持って通れる広さがあった。
乗り合い馬車に揺られて伊勢神宮を目指す二組の侍夫婦。案内する半蔵は慣れたものだが、忠勝夫婦には驚きしかない。
「北畠領内の民は、皆が笑顔ですな……」
「そうであろう、農民、商人、職人、河原者に至るまで、北畠領では皆が幸せに暮らす権利があると、殿は常々仰っている」
「これが北畠家の強さか、この暮らしを守る為には、末端の雑兵に至るまで、死ぬ気で戦うであろう」
「平八郎、北畠軍に雑兵はおらんぞ。指揮官や一兵卒などの違いはあるがな」
伊勢参りと湯治で、忠勝の怪我も癒え、夫婦でノンビリと温泉旅行を楽しんで桑名へ戻った頃には、忠勝の屋敷も小者を含めて手配されていた。
忠勝は、同郷の半蔵や正信の弟の本多正重に、北畠家の軍の仕組みや訓練方法を学んで行く。
21
お気に入りに追加
3,136
あなたにおすすめの小説
スキルポイントが無限で全振りしても余るため、他に使ってみます
銀狐
ファンタジー
病気で17歳という若さで亡くなってしまった橘 勇輝。
死んだ際に3つの能力を手に入れ、別の世界に行けることになった。
そこで手に入れた能力でスキルポイントを無限にできる。
そのため、いろいろなスキルをカンストさせてみようと思いました。
※10万文字が超えそうなので、長編にしました。
Our place ~転生乙女のジュラーレ魔法学院の日常~
龍希
ファンタジー
あたしは、家族友人に恵まれなかった。友人の出した自殺予告メールを受け取り、車で友人宅に向かう最中ダンプにオカマを掘られ、車は空を舞ってあたしは死んだ。気付くと不思議な空間にいて美少年天使が待っていて、ほぼ強制的に転生させられた。
転生先は宇宙船や魔法が平気で存在する世界。そこで私はナツキ・ルウィン・アマハと言う名の娘として生まれた。
父は宇宙考古学者、母は魔法界の女帝と謳われ、兄は美形さんでシスコン街道まっしぐらの。そんな美形家族の一員になった。
そんな私の『ジュラーレ魔法学院』の学院生活は、甘くは無かった。
魔法で肉体を中性体とし、名前も一部変えて入るものの。
婚約者&その専属騎士や、商人の息子にロックオンされると言う状況に!? その上、無意識で魔法を操ればチート気味だけどノーコン、大丈夫か? 私。
前途多難な学院生活の開幕です!
お前じゃないと、追い出されたが最強に成りました。ざまぁ~見ろ(笑)
いくみ
ファンタジー
お前じゃないと、追い出されたので楽しく復讐させて貰いますね。実は転生者で今世紀では貴族出身、前世の記憶が在る、今まで能力を隠して居たがもう我慢しなくて良いな、開き直った男が楽しくパーティーメンバーに復讐していく物語。
---------
掲載は不定期になります。
追記
「ざまぁ」までがかなり時間が掛かります。
お知らせ
カクヨム様でも掲載中です。
異世界立志伝
小狐丸
ファンタジー
ごく普通の独身アラフォーサラリーマンが、目覚めると知らない場所へ来ていた。しかも身体が縮んで子供に戻っている。
さらにその場は、陸の孤島。そこで出逢った親切なアンデッドに鍛えられ、人の居る場所への脱出を目指す。
~クラス召喚~ 経験豊富な俺は1人で歩みます
無味無臭
ファンタジー
久しぶりに異世界転生を体験した。だけど周りはビギナーばかり。これでは俺が巻き込まれて死んでしまう。自称プロフェッショナルな俺はそれがイヤで他の奴と離れて生活を送る事にした。天使には魔王を討伐しろ言われたけど、それは面倒なので止めておきます。私はゆっくりのんびり異世界生活を送りたいのです。たまには自分の好きな人生をお願いします。
「クズスキルの偽者は必要無い!」と公爵家を追放されたので、かけがえのない仲間と共に最高の国を作ります
古河夜空
ファンタジー
「お前をルートベルク公爵家から追放する――」それはあまりにも突然の出来事だった。
一五歳の誕生日を明日に控えたレオンは、公爵家を追放されてしまう。魔を制する者“神託の御子”と期待されていた、ルートベルク公爵の息子レオンだったが、『継承』という役立たずのスキルしか得ることができず、神託の御子としての片鱗を示すことが出来なかったため追放されてしまう。
一人、逃げる様に王都を出て行くレオンだが、公爵家の汚点たる彼を亡き者にしようとする、ルートベルク公爵の魔の手が迫っていた。「絶対に生き延びてやる……ッ!」レオンは己の力を全て使い、知恵を絞り、公爵の魔の手から逃れんがために走る。生き延びるため、公爵達を見返すため、自分を信じてくれる者のため。
どれだけ窮地に立たされようとも、秘めた想いを曲げない少年の周りには、人、エルフ、ドワーフ、そして魔族、種族の垣根を越えたかけがえの無い仲間達が集い―― これは、追放された少年が最高の国を作りあげる物語。
※他サイト様でも掲載しております。
男爵家の厄介者は賢者と呼ばれる
暇野無学
ファンタジー
魔法もスキルも授からなかったが、他人の魔法は俺のもの。な~んちゃって。
授けの儀で授かったのは魔法やスキルじゃなかった。神父様には読めなかったが、俺には馴染みの文字だが魔法とは違う。転移した世界は優しくない世界、殺される前に授かったものを利用して逃げ出す算段をする。魔法でないものを利用して魔法を使い熟し、やがては無敵の魔法使いになる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる