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第8部 分かたれる道
4-8本当の強さとは自分と戦い続ける人間のことだ
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私は〈アイリーン館〉にある、自室にいた。今日は、会社が休みだが、いつも通り早起きして、朝の散歩・掃除・勉強など、毎日の日課を、しっかりこなしている。私は、たとえ休日でも、起きる時間も同じだし、やることも変わらない。
いついかなる時でも、シルフィードとしての自覚を持ち、襟を正している。特に、上位階級となった今は、なおさらだ。
ただ、今日は、いつにも増して、身が引き締まっている。なぜなら『ノア・マラソン』の、開催日だからだ。今年は、三年ぶりに、風歌が参加する。自分のことではないのに、昨日からずっと、やきもきしていた。
上位階級の立場を考えると、本来なら、出場すべきではない。だが、止めたところで、聴かない性格なのも、長い付き合いで、よく知っている。
ただ、風歌の気持ちも、分からなくはなかった。勝負事に、決して背を向けない。負けたら、負けっぱなしにしない。それは、私も、同意見だからだ。
風歌の『ノア・マラソン』に懸ける意気込みは、本物だった。『三年前にやり残したことを、今度こそ終わらせたい』という、彼女の言葉からは、とても強い、決意と覚悟を感じた。だから、止めるように、強くは言えなかったのだ。
もっとも『無理をしないように』『絶対に怪我をしないように』と、徹底的に釘を刺しておいた。だが、言ったところで、風歌が守るとは、思えないけど……。
今日は、妹のヴィオレッタが、部屋に来ている。『MV観戦を一緒にしよう』と、事前に誘っておいた。普段、あまり、一緒にいることがないので『たまには、姉妹らしいことを』と、考えたからだ。
それに、このレースを見れば、彼女も、色々学ぶことがあるはず。彼女に『負けず嫌いの本当の意味』を、知って欲しいからだ。
最初は、全く興味が、なさそうだった。しかし、三年前のレースを見たら、少し興味が湧いたらしい。あと、風歌に対しての見方も、だいぶ変わったみたいだ。
私たちは、リビングの大きなソファーに、二人で並んで座り、空中モニターで、静かに中継を見ていた。
ここは『スカイ・プリンセス』に昇進した時に、引っ越してきた部屋だ。上位階級専用の部屋なので、物凄く広く、調度品も豪華だ。一人暮らしにしては、広すぎるが、うちの会社は、階級ごとに、待遇が大きく異なっている。
封建的な社風なのもあるが。あえて格差をつけることで、社員同士の、競争心を高めるためだ。私は、好待遇に興味はないが、やる気を出し、己を鍛えるには、いい環境だと思う。
ちなみに、今回の観戦は、前回とは違い、風歌を探す必要が全くなかった。なぜなら、スタート前から、すでに、風歌の話題が出ていたからだ。MVにも、スタート前の風歌の様子が、何度も映されていた。
アナウンサーたちも、非常に好意的に、彼女のことを語っており、前評判も高かった。『スカイ・プリンセス』なのもあるが、やはり、三年前のレースの影響が、大きいのだろう。
あまりに、風歌の話題が出て来るので、隣に座っていたヴィオレッタは、とても驚いている様子だった。
上位階級のシルフィードが出場するので、話題になるとは思っていた。だが、私も、ここまで注目されるとは、予想外だった。観客も運営スタッフも、まるで、全ての人間が、風歌に、肩入れしているように見える。
スタート後は、常に、風歌を中心に、映像と解説が進んで行った。実際、一番、先頭を走っているのだから、当然と言えば、当然だ。それに、おそらく今回は、世界中の誰もが、彼女の姿を、見たがっているのだろう。
レースは、順調に進み、中間地点を越えた段階でも、風歌は、先頭を走り続けていた。しかも、世界記録に、迫るタイムでだ。いくら何でも、ペースが速すぎる。
解説者も言っていたが、今回は、風歌がペースメイクをしていた。周りの一流選手たちが、素人の風歌に、引っ張られている。つまり、彼女は、とんでもないスピードで、走っているのだ。
あれほど『無茶をしないように』と、うるさく言っておいたのに。全然、分かってないじゃないのよ。まぁ、風歌が、無茶をしない訳は、ないんだけど。くれぐれも、問題だけは、起こさないでよね。昔とは、立場が違うんだから……。
前回とは別の意味で、見ている間中、はらはらしっぱなしだった。風歌は、いつ見ても危なっかしくて、周囲に心配を掛けるのは、見習い時代から変わらない。いい加減、大人しくなって欲しいものだ。
その後も、レースは軽快に進み、30キロ地点を過ぎても、風歌は、いまだに先頭のまま。しかも、ペースが全く落ちていない。すでに、残り数キロで、40キロに到達する位置まで来ていた。
以前の大苦戦した走りが、まるで、嘘のようだ。前回も、天候さえ良ければ、これぐらいの走りが、できていたのだろうか? いや、明らかに、昔よりも、成長しているように見える。体だけでなく、精神的な成長が、大きいのだろう。
隣のヴィオレッタは、物凄く真剣に見ていた。おそらく、風歌の走りを見て、何か感じるところが、あるのだろう。私も、余計なことを考えるのを止め、MVの中継に集中する。
『ただいま、38キロ地点を通過しましたが、依然として「天使の翼」が、先頭集団のトップを走っています。隣を走っている、フリード選手は、今回の優勝候補。先頭集団は、すでに、四名まで絞られています』
『普段なら、先頭集団に、もう少し選手が残っているのですが。今回は、非常に、ハイペースですからね。他の二名も苦しそうなので、最終的には「天使の翼」と、フリード選手の、一騎打ちに、なるのではないでしょうか』
『しかし「天使の翼」が、ここまでやるとは、本当に、驚きです。25キロ地点でも、驚きましたが。まさか、そのあとも、同じペースを維持して、トップを走るとは、思いもしませんでした』
『注目選手の一人ですし、そうとう、練習を積んで来たようですので。それなりの、好走をするとは、思っていましたが。私も、流石に、ここまでとは、思いませんでした。今日は、明らかに、走りが切れています』
解説者の言う通り、今日の風歌の走りには、安定感と軽やかさがあった。物凄いハイペースなのは事実だが、特に、無理をしているようには見えない。表情にも、まだ、余裕さえ感じられる。
『それは「彼女の調子がいい」ということでしょうか? 今日は、天候もよく、走りやすいのも、影響しているのでしょうか?』
『どちらも、ですね。天候も、彼女の調子も、実力も。その全てが、上手くかみ合った状態です。私も、元ランナーですから、経験がありますが。極まれに、あるんです。全てが噛み合う、まるで、神が降りて来たかのような、絶好調の日が』
『なるほど。つまり「天使の翼」にとって、今日がまさに、その日ということなんですね。どうりで、軽快な走りな訳です。三年前の、あの重々しい走りからは、全く想像もつきません』
背景の建物や観客たちが、物凄いスピードで流れていく。まるで、背中に羽でも生えているかのような、軽やかな走りだった。
『さぁ、いよいよ「運命の39キロ地点」を越えました。三年前の彼女は、この地点で、足を負傷しています。ここさえ、無事に乗り越えれば、残りは10キロ。ゴールまで、もうひと踏ん張りです』
『今日は、天候もいいですし、脚運びも安定していますので、大丈夫だと思います。是非、無事に完走して、気持ちよく、終えて欲しいです』
『確かに、その通りですね。世界中の誰もが、無事なゴールを、切に願っていると思います。やはり、三年前の、あの壮絶なレースは、彼女自身も、覚えているのでしょうか?』
『もちろん、覚えていると思いますよ。アスリートにとって、怪我は致命傷です。例え傷が癒えても、心には、その傷が残り続けます。彼女も、その恐怖を抱えながら、走っているはずです』
風歌も、言っていた。また、怪我をするんじゃないかと思うと、死ぬほど怖いし。いくら、万全に練習しても、その恐怖は、なくならないと。つまり、彼女は、今走っている瞬間も、恐怖と戦い続けているのだ。
例え、平然とした顔で走っていても、三年前の出来事と向き合い、戦っている。おそらくは、走ることよりも、そちらのほうが、大変なのだと思う。
『ただいま、ついに40キロ地点を、先頭集団が通過しました。タイムのほうは……なんと、世界記録と6秒差! これは、場合によっては、世界記録の更新も、視野に入ってきました!』
『いやー、これは、もしかすると、行けるかもしれませんよ。「天使の翼」も、フリード選手も、まだ、余力を残している感じです。特に、最後の10キロは、途中でスパートを掛けて、タイムが縮まりますので』
『タイムが公開された直後、周囲から、大変な、大歓声が上がっています。割れんばかりの「天使の翼」への、応援が聞こえて来ます。果たして、誰がこんな展開を、予想していたでしょうか?』
『参加して、無事に走っている姿を、見せてくれるだけでも、皆幸せなのに。これは、嬉しい誤算ですね。それにしても「天使の翼」の底力には、毎回、驚かされっぱなしです。とんでもない、ポテンシャルの高さですね』
風歌たちは、勢いよく、40キロ地点を、走り抜けていった。スピードは、いまだに衰えていない。元々風歌は、体力馬鹿だったし、運動神経もよかった。だが、流石に、ここまでとは、予想外だ。
「もしかして『天使の翼』って、本当に、凄い人だったんですか――? 普段の緩い感じからは、全然、想像も付きませんけど」
「昔から、あんな感じよ。誰彼、構わず、慣れ慣れしいし。夢見がちで、理想ばかり、語っているけど。やる時はやるのが、風歌なのよ。現実を、しっかり見ないから、いつも、無茶ばかりだけど……」
いつだって、無計画で、現実性のない、理想論ばかりを言っている。でも、それを、力技で現実にしてしまうのが、風歌の凄いところだ。私には、真似できないし、したいとも思わない。
「でも、見習い時代なら、まだしも。地位も名声も、得た今。何で、こんな大変なことを、やっているんですか? ただでさえ、忙しいのに。怪我でもしたら、大変じゃないですか?」
ヴィオレッタは、不思議そうな表情で、尋ねてくる。
これは、ごく普通の反応だ。常識的な人間なら、ある程度の地位を得たら、無茶などしない。まして、こんな、人間の限界を超えるような、大変なことは、絶対にしないだろう。
「あなたは、何かに失敗したり、負けたりしたら、そのまま諦める?」
「いいえ。絶対に、負けたままには、しませんよ。何があっても、勝つまでは、死んでも、しがみ付きます」
「つまりは、そういうことよ。三年前のレースは、彼女にとっては、惨敗だったから。今、その雪辱を晴らすために、戦っている。ただ、それだけよ」
「でも、三年も経って。しかも『スカイ・プリンセス』になってまで、やることですか? 私が同じ立場だったら、流石に、自重しますよ。過去のレースだって、物凄く、評価されてるじゃないですか?」
そう。世間的には、三年前の『ノア・マラソン』は、伝説に残るレースと言われている。タイムなどの結果は、さておき。世界中の人の心を、動かしたのは事実だ。下手に優勝するよりも、はるかに大きな実績と言える。
「地位も、名声も、実績も。風歌にとっては、全く関係ないのよ。自分の中で、納得できているかどうか。本当の負けず嫌いとは、他人と戦うのではなく、自分自身と戦うことを言うのよ」
「昔から風歌は、常識や周りの目は、一切、気にせず。常に、攻めの姿勢だったわ。地位を得た今ですら、守りに入らず、ひたすら攻め続けている」
「確かに、今でも、ゆるい性格だし、理想ばかり言ってるけど。自分でやると言ったら、何がなんでもやるし。地位も立場も、全てを捨てて戦えるのが、本当の強さじゃないかしら?」
私の言葉を聴いて、ヴィオレッタは、黙り込んだ。
でも、決して、彼女の考え方は、間違ってはいない。人は、立場によって、行動を変えるべきだからだ。特に、苦労して得た地位は、何が何でも、守るべきだと思う。しかし、それをしないのが、風歌なのだ。
風歌の表情の、アップが映った瞬間、ふと気が付いた。彼女の目が、妙にギラギラしていることに。この期に及んで、まだ、何かをする気だ。
「よく見ておきなさい。このあと、何か起こるかも知れないから」
「えっ――?」
「もう、十分なのに。まだまだ、やる気よ、あの目は……」
今、風歌が、何を考えているかは、何となく分かる。普段は、人一倍、緩いくせに。ここ一番では、誰よりも、貪欲だ。やると決めたら、限りなく上を目指して行く。
ここまで来て、目指すものと言ったら、ただ一つだ。どうせ、風歌のことだから、無茶をするに決まってる。あれほど、自重するように、言ったのに――。
あとはもう、彼女が、無事にゴールすることを祈って、見守るしかない。どうか彼女に、シルフィードのご加護が、あらんことを……。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
次回――
『例え命を燃やし尽くしても私は勝ちたいんだ!』
戦うからには勝ちたい。そう、勝つのは私だ!!
いついかなる時でも、シルフィードとしての自覚を持ち、襟を正している。特に、上位階級となった今は、なおさらだ。
ただ、今日は、いつにも増して、身が引き締まっている。なぜなら『ノア・マラソン』の、開催日だからだ。今年は、三年ぶりに、風歌が参加する。自分のことではないのに、昨日からずっと、やきもきしていた。
上位階級の立場を考えると、本来なら、出場すべきではない。だが、止めたところで、聴かない性格なのも、長い付き合いで、よく知っている。
ただ、風歌の気持ちも、分からなくはなかった。勝負事に、決して背を向けない。負けたら、負けっぱなしにしない。それは、私も、同意見だからだ。
風歌の『ノア・マラソン』に懸ける意気込みは、本物だった。『三年前にやり残したことを、今度こそ終わらせたい』という、彼女の言葉からは、とても強い、決意と覚悟を感じた。だから、止めるように、強くは言えなかったのだ。
もっとも『無理をしないように』『絶対に怪我をしないように』と、徹底的に釘を刺しておいた。だが、言ったところで、風歌が守るとは、思えないけど……。
今日は、妹のヴィオレッタが、部屋に来ている。『MV観戦を一緒にしよう』と、事前に誘っておいた。普段、あまり、一緒にいることがないので『たまには、姉妹らしいことを』と、考えたからだ。
それに、このレースを見れば、彼女も、色々学ぶことがあるはず。彼女に『負けず嫌いの本当の意味』を、知って欲しいからだ。
最初は、全く興味が、なさそうだった。しかし、三年前のレースを見たら、少し興味が湧いたらしい。あと、風歌に対しての見方も、だいぶ変わったみたいだ。
私たちは、リビングの大きなソファーに、二人で並んで座り、空中モニターで、静かに中継を見ていた。
ここは『スカイ・プリンセス』に昇進した時に、引っ越してきた部屋だ。上位階級専用の部屋なので、物凄く広く、調度品も豪華だ。一人暮らしにしては、広すぎるが、うちの会社は、階級ごとに、待遇が大きく異なっている。
封建的な社風なのもあるが。あえて格差をつけることで、社員同士の、競争心を高めるためだ。私は、好待遇に興味はないが、やる気を出し、己を鍛えるには、いい環境だと思う。
ちなみに、今回の観戦は、前回とは違い、風歌を探す必要が全くなかった。なぜなら、スタート前から、すでに、風歌の話題が出ていたからだ。MVにも、スタート前の風歌の様子が、何度も映されていた。
アナウンサーたちも、非常に好意的に、彼女のことを語っており、前評判も高かった。『スカイ・プリンセス』なのもあるが、やはり、三年前のレースの影響が、大きいのだろう。
あまりに、風歌の話題が出て来るので、隣に座っていたヴィオレッタは、とても驚いている様子だった。
上位階級のシルフィードが出場するので、話題になるとは思っていた。だが、私も、ここまで注目されるとは、予想外だった。観客も運営スタッフも、まるで、全ての人間が、風歌に、肩入れしているように見える。
スタート後は、常に、風歌を中心に、映像と解説が進んで行った。実際、一番、先頭を走っているのだから、当然と言えば、当然だ。それに、おそらく今回は、世界中の誰もが、彼女の姿を、見たがっているのだろう。
レースは、順調に進み、中間地点を越えた段階でも、風歌は、先頭を走り続けていた。しかも、世界記録に、迫るタイムでだ。いくら何でも、ペースが速すぎる。
解説者も言っていたが、今回は、風歌がペースメイクをしていた。周りの一流選手たちが、素人の風歌に、引っ張られている。つまり、彼女は、とんでもないスピードで、走っているのだ。
あれほど『無茶をしないように』と、うるさく言っておいたのに。全然、分かってないじゃないのよ。まぁ、風歌が、無茶をしない訳は、ないんだけど。くれぐれも、問題だけは、起こさないでよね。昔とは、立場が違うんだから……。
前回とは別の意味で、見ている間中、はらはらしっぱなしだった。風歌は、いつ見ても危なっかしくて、周囲に心配を掛けるのは、見習い時代から変わらない。いい加減、大人しくなって欲しいものだ。
その後も、レースは軽快に進み、30キロ地点を過ぎても、風歌は、いまだに先頭のまま。しかも、ペースが全く落ちていない。すでに、残り数キロで、40キロに到達する位置まで来ていた。
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隣のヴィオレッタは、物凄く真剣に見ていた。おそらく、風歌の走りを見て、何か感じるところが、あるのだろう。私も、余計なことを考えるのを止め、MVの中継に集中する。
『ただいま、38キロ地点を通過しましたが、依然として「天使の翼」が、先頭集団のトップを走っています。隣を走っている、フリード選手は、今回の優勝候補。先頭集団は、すでに、四名まで絞られています』
『普段なら、先頭集団に、もう少し選手が残っているのですが。今回は、非常に、ハイペースですからね。他の二名も苦しそうなので、最終的には「天使の翼」と、フリード選手の、一騎打ちに、なるのではないでしょうか』
『しかし「天使の翼」が、ここまでやるとは、本当に、驚きです。25キロ地点でも、驚きましたが。まさか、そのあとも、同じペースを維持して、トップを走るとは、思いもしませんでした』
『注目選手の一人ですし、そうとう、練習を積んで来たようですので。それなりの、好走をするとは、思っていましたが。私も、流石に、ここまでとは、思いませんでした。今日は、明らかに、走りが切れています』
解説者の言う通り、今日の風歌の走りには、安定感と軽やかさがあった。物凄いハイペースなのは事実だが、特に、無理をしているようには見えない。表情にも、まだ、余裕さえ感じられる。
『それは「彼女の調子がいい」ということでしょうか? 今日は、天候もよく、走りやすいのも、影響しているのでしょうか?』
『どちらも、ですね。天候も、彼女の調子も、実力も。その全てが、上手くかみ合った状態です。私も、元ランナーですから、経験がありますが。極まれに、あるんです。全てが噛み合う、まるで、神が降りて来たかのような、絶好調の日が』
『なるほど。つまり「天使の翼」にとって、今日がまさに、その日ということなんですね。どうりで、軽快な走りな訳です。三年前の、あの重々しい走りからは、全く想像もつきません』
背景の建物や観客たちが、物凄いスピードで流れていく。まるで、背中に羽でも生えているかのような、軽やかな走りだった。
『さぁ、いよいよ「運命の39キロ地点」を越えました。三年前の彼女は、この地点で、足を負傷しています。ここさえ、無事に乗り越えれば、残りは10キロ。ゴールまで、もうひと踏ん張りです』
『今日は、天候もいいですし、脚運びも安定していますので、大丈夫だと思います。是非、無事に完走して、気持ちよく、終えて欲しいです』
『確かに、その通りですね。世界中の誰もが、無事なゴールを、切に願っていると思います。やはり、三年前の、あの壮絶なレースは、彼女自身も、覚えているのでしょうか?』
『もちろん、覚えていると思いますよ。アスリートにとって、怪我は致命傷です。例え傷が癒えても、心には、その傷が残り続けます。彼女も、その恐怖を抱えながら、走っているはずです』
風歌も、言っていた。また、怪我をするんじゃないかと思うと、死ぬほど怖いし。いくら、万全に練習しても、その恐怖は、なくならないと。つまり、彼女は、今走っている瞬間も、恐怖と戦い続けているのだ。
例え、平然とした顔で走っていても、三年前の出来事と向き合い、戦っている。おそらくは、走ることよりも、そちらのほうが、大変なのだと思う。
『ただいま、ついに40キロ地点を、先頭集団が通過しました。タイムのほうは……なんと、世界記録と6秒差! これは、場合によっては、世界記録の更新も、視野に入ってきました!』
『いやー、これは、もしかすると、行けるかもしれませんよ。「天使の翼」も、フリード選手も、まだ、余力を残している感じです。特に、最後の10キロは、途中でスパートを掛けて、タイムが縮まりますので』
『タイムが公開された直後、周囲から、大変な、大歓声が上がっています。割れんばかりの「天使の翼」への、応援が聞こえて来ます。果たして、誰がこんな展開を、予想していたでしょうか?』
『参加して、無事に走っている姿を、見せてくれるだけでも、皆幸せなのに。これは、嬉しい誤算ですね。それにしても「天使の翼」の底力には、毎回、驚かされっぱなしです。とんでもない、ポテンシャルの高さですね』
風歌たちは、勢いよく、40キロ地点を、走り抜けていった。スピードは、いまだに衰えていない。元々風歌は、体力馬鹿だったし、運動神経もよかった。だが、流石に、ここまでとは、予想外だ。
「もしかして『天使の翼』って、本当に、凄い人だったんですか――? 普段の緩い感じからは、全然、想像も付きませんけど」
「昔から、あんな感じよ。誰彼、構わず、慣れ慣れしいし。夢見がちで、理想ばかり、語っているけど。やる時はやるのが、風歌なのよ。現実を、しっかり見ないから、いつも、無茶ばかりだけど……」
いつだって、無計画で、現実性のない、理想論ばかりを言っている。でも、それを、力技で現実にしてしまうのが、風歌の凄いところだ。私には、真似できないし、したいとも思わない。
「でも、見習い時代なら、まだしも。地位も名声も、得た今。何で、こんな大変なことを、やっているんですか? ただでさえ、忙しいのに。怪我でもしたら、大変じゃないですか?」
ヴィオレッタは、不思議そうな表情で、尋ねてくる。
これは、ごく普通の反応だ。常識的な人間なら、ある程度の地位を得たら、無茶などしない。まして、こんな、人間の限界を超えるような、大変なことは、絶対にしないだろう。
「あなたは、何かに失敗したり、負けたりしたら、そのまま諦める?」
「いいえ。絶対に、負けたままには、しませんよ。何があっても、勝つまでは、死んでも、しがみ付きます」
「つまりは、そういうことよ。三年前のレースは、彼女にとっては、惨敗だったから。今、その雪辱を晴らすために、戦っている。ただ、それだけよ」
「でも、三年も経って。しかも『スカイ・プリンセス』になってまで、やることですか? 私が同じ立場だったら、流石に、自重しますよ。過去のレースだって、物凄く、評価されてるじゃないですか?」
そう。世間的には、三年前の『ノア・マラソン』は、伝説に残るレースと言われている。タイムなどの結果は、さておき。世界中の人の心を、動かしたのは事実だ。下手に優勝するよりも、はるかに大きな実績と言える。
「地位も、名声も、実績も。風歌にとっては、全く関係ないのよ。自分の中で、納得できているかどうか。本当の負けず嫌いとは、他人と戦うのではなく、自分自身と戦うことを言うのよ」
「昔から風歌は、常識や周りの目は、一切、気にせず。常に、攻めの姿勢だったわ。地位を得た今ですら、守りに入らず、ひたすら攻め続けている」
「確かに、今でも、ゆるい性格だし、理想ばかり言ってるけど。自分でやると言ったら、何がなんでもやるし。地位も立場も、全てを捨てて戦えるのが、本当の強さじゃないかしら?」
私の言葉を聴いて、ヴィオレッタは、黙り込んだ。
でも、決して、彼女の考え方は、間違ってはいない。人は、立場によって、行動を変えるべきだからだ。特に、苦労して得た地位は、何が何でも、守るべきだと思う。しかし、それをしないのが、風歌なのだ。
風歌の表情の、アップが映った瞬間、ふと気が付いた。彼女の目が、妙にギラギラしていることに。この期に及んで、まだ、何かをする気だ。
「よく見ておきなさい。このあと、何か起こるかも知れないから」
「えっ――?」
「もう、十分なのに。まだまだ、やる気よ、あの目は……」
今、風歌が、何を考えているかは、何となく分かる。普段は、人一倍、緩いくせに。ここ一番では、誰よりも、貪欲だ。やると決めたら、限りなく上を目指して行く。
ここまで来て、目指すものと言ったら、ただ一つだ。どうせ、風歌のことだから、無茶をするに決まってる。あれほど、自重するように、言ったのに――。
あとはもう、彼女が、無事にゴールすることを祈って、見守るしかない。どうか彼女に、シルフィードのご加護が、あらんことを……。
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カスタマイズ可能なストレージで世の中を変えていく。
村を開拓し仲間を集め国を巻き込む産業を起こす。
いずれは世界へ通じる道を繋げるために。
※本作はカクヨム様にも掲載しております。
捨てられた前世【大賢者】の少年、魔物を食べて世界最強に、そして日本へ
月城 友麻
ファンタジー
辺境伯の三男坊として転生した大賢者は、無能を装ったがために暗黒の森へと捨てられてしまう。次々と魔物に襲われる大賢者だったが、魔物を食べて生き残る。
こうして大賢者は魔物の力を次々と獲得しながら強くなり、最後には暗黒の森の王者、暗黒龍に挑み、手下に従えることに成功した。しかし、この暗黒龍、人化すると人懐っこい銀髪の少女になる。そして、ポーチから出したのはなんとiPhone。明かされる世界の真実に大賢者もビックリ。
そして、ある日、生まれ故郷がスタンピードに襲われる。大賢者は自分を捨てた父に引導を渡し、街の英雄として凱旋を果たすが、それは物語の始まりに過ぎなかった。
太陽系最果ての地で壮絶な戦闘を超え、愛する人を救うために目指したのはなんと日本。
テンプレを超えた壮大なファンタジーが今、始まる。
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