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第4部 理想と現実
5-4規則と一人の人生のどちらを取るべきだろうか?
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私たち二人は、店のすぐ横にある、細く暗い路地に来ていた。私の前には、店員の姿をしたままの彼女が、俯いたまま、無言で立っている。周囲からは賑やかな雑音が聞こえてくるが、状況が状況なだけに、空気が物凄く重い。
彼女の名は、エマリエール・ローウェン。会社の同期だった。ただ、ミーティングや雑用の際に、見かけたりはするが、今まで一度も話したことがない。なので、どんな人物かは、全く知らなかった。
同期の中では、特に目立った感じもなく、地味な印象だ。成績は、良くも悪くもない、中程度。
普段、見ている限りでは、特に派手なわけでも、素行が悪いわけでもない。どちらかというと、真面目な感じで、夜遊びするようには見えなかった。
しかし、店員として働いているということは、少なからず、遊びが目的ではないようだ。何か理由があるのかもしれないが、規則違反なのは間違いない。それに、どんな事情があろうと、私には、全く関係のないことだ。
回りくどいのは嫌いなので、単刀直入に切り出すことにした。何より、自分の貴重な時間を浪費するのが、物凄くもったいない。
「あなたは、こんな時間に、このような場所で、何をやっているのかしら? 全て聴かせてもらえる?」
「……なんで、私があんたに、そんなこと話さなければならないの?」
彼女は、視線をそらしたまま、小さな声で答える。
視線を合わせないということは、多少なりとも、罪悪感はあるのだろう。完全に開き直られたら、どうしようかと思ったが、最低限のモラルはあるようだ。
「ある人に、調査を頼まれたのよ」
「調査って――まさか、ミス・ハーネス?!」
私は沈黙で答えた。それを見て彼女は、どんな状況に置かれているか、ようやく理解したようだ。動揺の表情を浮かべながら、私に視線を向けてきた。
「もう一度、訊くわ。今の状況を、説明して貰える?」
私は彼女の目を見据えながら、静かに尋ねる。
「聴いてどうするのよ。告げ口して、点数稼ぎでもするつもり?」
「私はそんな汚いことは、死んでもやらないわ。そもそも、する必要がないでしょう? 成績は、常にトップなのだから」
私は汚いことや卑怯な行為は、大嫌いだ。何事も、正々堂々やって結果を出すことに、意味がある。だから、点数稼ぎなど、もっての他だ。しかし、私は秩序を乱す者は、どうしても許せない。
「じゃあ、その優等生さんが、何でこんなストーカーみたいな事やってるの?」
彼女はこちらを睨みつけながら、質問で返してきた。
「私だって、好きでやってる訳じゃないわ。ただ、会社の名前に泥を塗る人間を、許せないだけ。もし、あなたの行動が明るみに出たら、どうなるか分かっているの?」
「それは……」
彼女は、再び視線をそらした。その表情からは、苦悩がうかがえる。何か、やむを得ない理由でも、あるのだろうか? 単に小遣い稼ぎでやるにしては、リスクが高すぎる。ばれれば、即解雇になることは、本人も知っているはずだ。
「まずは、理由を聴かせてちょうだい。どうするかは、そのあとの話よ。私は別に、あなたを貶めるつもりはないし、敵でもないのだから」
「えっ、どういうこと――?」
彼女は、驚いた顔でこちらを見てきた。
「どうもこうも、私たちは同じ会社の同期でしょ? 他社の人間ならまだしも、味方を傷つけてどうするのよ?」
慣れ合うつもりはないが、同じ会社の人間は、最低限の仲間意識は持っている。
「何か……意外ね。あなたは、周りの人間をみんな、敵視してるのかと思ってた」
「どんな見方をしてるのよ? 私は敵対的な態度をとって来る人間以外に、敵意を向けたりしないわ」
私が敵視するのは、牙をむいてくる人間だけだ。一応、他社の人間は敵だとは思っているけど、それはライバル視しているだけ。それに、最近は、他社の人間との交流も増え、あまり、こだわらなくなって来ていた。
「じゃあ――このこと、黙っていてくれる?」
「それは、話の内容しだいね。もし、会社や他の社員に迷惑が掛かるようであれば、看過できないわ。それは、あなたも分かるわよね?」
私は感情を込めず、冷静に彼女に語り掛ける。私がすべきことは、事実の確認と、公正な判断だけだ。私情は一切、入れるつもりはない。
「もちろん、分かってる。別に、会社やみんなに、迷惑をかけるつもりは、全くないから」
彼女の目は真剣だった。特に嘘をついたり、ごまかしているようには見えない。
私は黙ってうなずくと、次の言葉を待った。彼女は目を閉じ息を吸い込むと、静かに話し始めた。
「私の家は、母子家庭なのよ。母が必死に働いて、私は女手一つで育てられたの。『将来シルフィードになりたい』という、私の夢をかなえるために、学校にもしっかり行かせてくれた」
「だから、私は必死に勉強したわ。必ず一流のシルフィードになって、母を楽させてあげようと思って。努力の甲斐あって、一流企業の〈ファースト・クラス〉に入社できた。母も、物凄く喜んでくれたわ」
なるほど、そんな事情があったのね……。うちも、母子家庭だから、その大変さは分かる。もっとも、母が人気シルフィードだったこともあり、金銭面などで苦労したことは、一度もなかったけど。
「それなら、なぜ、このようなことを? せっかく一流企業に入れても、規則違反でクビになっては、意味がないじゃない。あなたの目的も、果たせなくなるでしょ?」
一流になりたいのであれば、今は仕事と勉強に専念するべきだ。夜な夜な、バイトなんかしている場合ではない。
「もちろん、それは分かってる。でも、今は母は、病気で入院しているの。入院費もかかるし、手術のお金も必要になる。とても、見習いの給料で、払える額じゃないのよ」
「一度は、辞めようかとも思った。辞めて別の仕事をしたほうが、稼げるから。でも、諦めきれなかったのよ。昔からの夢だから――。それに、母が応援してくれてるし」
「母を助けたい。でも、母の喜ぶ顔も見たい。なら、両方、頑張るしかないじゃない? これしか、方法が思い浮かばなかったのよ……」
彼女は、悲痛な表情を浮かべながら語った。その言葉からは、彼女の迷いと深い苦悩が伝わって来る。
思っていた以上に、複雑な状況だ。私は返す言葉が、すぐには浮かばなかった。この場合、どう判断するのが正しいのだろうか?
今の状況を考えると、やむを得ない行動だったのかもしれない。もし、私が同じ立場だったら、どう選択しただろうか? しかし、規則は規則だ。私なら、会社を辞め、別の仕事を探すだろう。自分の夢も大事だが、母の命が最優先だ。
でも、本当にその立場になったら、そんな簡単に、割り切れるだろうか? ずっと夢だったシルフィード。しかも、一流企業の〈ファースト・クラス〉の社員。これを、すっぱり諦めきれるのだろうか?
規則を遵守するのが、私の信条。とはいえ、それは何の障害もなく、真っ直ぐ夢に向かって進めているから、守れるのではないだろうか? もし、大きな障害が発生した際にも、規則を守り切れるだろうか? これは、とても難しい問題だ。
「ミス・ハーネスに、そのことは、話していないの?」
「えぇ、話したところで、どうにもならないから。どんな事情があろうと、副業なんか、許して貰えるはずがないわ。あの人にとっては、規則が全てでしょ?」
もし、事情を話したとしても、退社を勧められるだけかもしれない。あの人は、私以上に規則に厳しい人だから。
「確かにそうね。でも、話しておいた場合と、隠してばれた場合とでは、当然、対応が変わるでしょ? ちゃんと、話を通しておくべきだったんじゃないの? やむを得ない事情が、あるのだから」
「そうかもね――。でも、入社して一ヶ月ほどして、母が急に倒れて。凄く動揺したし、あまりにも急で、冷静に考えられなかったのよ。今となっては、ただの言い訳かもしれないけど」
なるほど、入社直後にそんなことが……。私も、もし母が倒れたりしたら、間違いなく動揺するだろう。さらに、お金の問題まで出てくれば、益々動揺は大きくなるはずだ。
話を聴いている内に、今回ばかりは、仕方のない行動だったのではないかと、思えてきた。遊び歩いていたなら問題外だが、母の病院の費用を稼ぐために、働いていたとなると、話は別だ。
とても、見習いの安い給料では、まかなえるはずがない。そもそも、それ以外の生活費も、掛かるのだから。相当に、厳しい状況のはずだ。
よく見ると、彼女の顔は、少しやつれていた。会社の仕事が終わったあと、夜中にさらに仕事をしているのだ。寝る時間もほとんどなく、疲れていて当然だ。ちゃんと、食事などもしているのだろうか――?
今回の件は、判断がとても難しい。もちろん、規則違反なのは明白だ。しかし、ミス・ハーネスに、この事実をそのまま告げれば、彼女は確実にクビだろう。
つまり、私の行動しだいで、彼女の人生が決まってしまう。はたして、規則を守ることと、一人の人生を、天秤に掛けてしまっていいのだろうか……?
規則としての正しさを選ぶべきか。人としての正しさを選ぶべきか。私は額に手を当て、深く考え込んだ。今まで、規則だけを尊重して生きて来た私にとって、とんでもなく難題だった。
「ごめん。あなたまで、厄介ごとに巻き込んでしまって。でも、決心がついたわ。私、会社を辞めて、バイトに専念する」
彼女は大きく息を吐きだしたあと、サバサバと言い放った。その表情は、少しスッキリしたようにも見えた。いや、スッキリしたんじゃない、諦めただけだ。
「本当に、それでいいの? あなたの夢だったんでしょ、一流のシルフィードになることが」
本来なら、犯人を捕まえて報告すれば、無事解決なはずだ。だが、それは本当の意味で、解決になるのだろうか?
「でも、しょうがないじゃない。私は夢なんかよりも、母の命のほうが大事だから。それに、もうばれてしまった以上、クビは確実でしょ?」
「もちろん、お母様の命は、何よりも優先するべき大切なものよ。でも、まだクビになったとは、決まってないわ」
「どういうこと? もう、ミス・ハーネスは知っているんでしょ? それに、あなたが報告すれば、どの道、同じことじゃない――」
ミス・ハーネスの話を聴いた限り、まだ、誰かは完全に特定していない様子だった。それに、事情をしっかり話せば、情状酌量の余地はあると思う。
「私が、ミス・ハーネスに掛け合ってみるわ」
私の口からは、思いがけない言葉が、自然に出ていた。
「えっ?! 何であなたが、そんなことを?」
「言ったでしょ、私は敵ではないと。本当は、続けたいのでしょ? あなたの本音を聴かせて? もし、本気でやる気があるなら、協力するから」
私は、いったい何をやっているんだろうか? 面倒事に首を突っ込むのは、物凄く嫌いなのに。無駄な時間を浪費するのが大嫌いな、効率重視の人間なのに。
でも、やる気のある人間が、何もできずに、散っていく姿は見たくない。放っておけば、ライバルが一人減るが、そんな汚い勝ち方もしたくはなかった。
「続けたい……やれるなら、続けたいよ! 子供のころからの夢だったんだから。私は、いつだって本気だよ。一流になって、母を楽させてあげたいから」
彼女は目に涙を浮かべながら、必死の声を上げた。これは、間違いなく彼女の本音であり、本気だと思う。
「分かったわ。私が何とかしてみるから、あなたは仕事に戻りなさい。今夜のことは、見なかったことにするわ」
私は踵を返すと、早々にその場を立ち去った。
正直、ミス・ハーネスに認めて貰える自信はない。それどころか、余計なことをすれば、私自身の評価にも影響するかもしれなかった。
我ながら、とんでもなく、馬鹿なことをやっていると思う。だが、事情を知ってしまった以上、見て見ぬふりも出来なかった。
最近まで、会社の同期など、どうでもいいと思っていた。でも、アンジェリカと付き合い始めてから、同期との付き合いも、案外、悪くはないと思い始めている。それに、風歌たちの影響も、あるのかもしれない。
まったく、あの子たちの世話だけでも、面倒だというのに。何で、こんな余計なことを――。
でも、やれるだけの事はやってみよう。一人の人間の、大事な人生が掛かっているのだから……。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
次回――
『例外が認められないのは自分が一番よく知っていることなのに……』
行動するときには規則に従い、裁くときには例外を斟酌せねばならない。
彼女の名は、エマリエール・ローウェン。会社の同期だった。ただ、ミーティングや雑用の際に、見かけたりはするが、今まで一度も話したことがない。なので、どんな人物かは、全く知らなかった。
同期の中では、特に目立った感じもなく、地味な印象だ。成績は、良くも悪くもない、中程度。
普段、見ている限りでは、特に派手なわけでも、素行が悪いわけでもない。どちらかというと、真面目な感じで、夜遊びするようには見えなかった。
しかし、店員として働いているということは、少なからず、遊びが目的ではないようだ。何か理由があるのかもしれないが、規則違反なのは間違いない。それに、どんな事情があろうと、私には、全く関係のないことだ。
回りくどいのは嫌いなので、単刀直入に切り出すことにした。何より、自分の貴重な時間を浪費するのが、物凄くもったいない。
「あなたは、こんな時間に、このような場所で、何をやっているのかしら? 全て聴かせてもらえる?」
「……なんで、私があんたに、そんなこと話さなければならないの?」
彼女は、視線をそらしたまま、小さな声で答える。
視線を合わせないということは、多少なりとも、罪悪感はあるのだろう。完全に開き直られたら、どうしようかと思ったが、最低限のモラルはあるようだ。
「ある人に、調査を頼まれたのよ」
「調査って――まさか、ミス・ハーネス?!」
私は沈黙で答えた。それを見て彼女は、どんな状況に置かれているか、ようやく理解したようだ。動揺の表情を浮かべながら、私に視線を向けてきた。
「もう一度、訊くわ。今の状況を、説明して貰える?」
私は彼女の目を見据えながら、静かに尋ねる。
「聴いてどうするのよ。告げ口して、点数稼ぎでもするつもり?」
「私はそんな汚いことは、死んでもやらないわ。そもそも、する必要がないでしょう? 成績は、常にトップなのだから」
私は汚いことや卑怯な行為は、大嫌いだ。何事も、正々堂々やって結果を出すことに、意味がある。だから、点数稼ぎなど、もっての他だ。しかし、私は秩序を乱す者は、どうしても許せない。
「じゃあ、その優等生さんが、何でこんなストーカーみたいな事やってるの?」
彼女はこちらを睨みつけながら、質問で返してきた。
「私だって、好きでやってる訳じゃないわ。ただ、会社の名前に泥を塗る人間を、許せないだけ。もし、あなたの行動が明るみに出たら、どうなるか分かっているの?」
「それは……」
彼女は、再び視線をそらした。その表情からは、苦悩がうかがえる。何か、やむを得ない理由でも、あるのだろうか? 単に小遣い稼ぎでやるにしては、リスクが高すぎる。ばれれば、即解雇になることは、本人も知っているはずだ。
「まずは、理由を聴かせてちょうだい。どうするかは、そのあとの話よ。私は別に、あなたを貶めるつもりはないし、敵でもないのだから」
「えっ、どういうこと――?」
彼女は、驚いた顔でこちらを見てきた。
「どうもこうも、私たちは同じ会社の同期でしょ? 他社の人間ならまだしも、味方を傷つけてどうするのよ?」
慣れ合うつもりはないが、同じ会社の人間は、最低限の仲間意識は持っている。
「何か……意外ね。あなたは、周りの人間をみんな、敵視してるのかと思ってた」
「どんな見方をしてるのよ? 私は敵対的な態度をとって来る人間以外に、敵意を向けたりしないわ」
私が敵視するのは、牙をむいてくる人間だけだ。一応、他社の人間は敵だとは思っているけど、それはライバル視しているだけ。それに、最近は、他社の人間との交流も増え、あまり、こだわらなくなって来ていた。
「じゃあ――このこと、黙っていてくれる?」
「それは、話の内容しだいね。もし、会社や他の社員に迷惑が掛かるようであれば、看過できないわ。それは、あなたも分かるわよね?」
私は感情を込めず、冷静に彼女に語り掛ける。私がすべきことは、事実の確認と、公正な判断だけだ。私情は一切、入れるつもりはない。
「もちろん、分かってる。別に、会社やみんなに、迷惑をかけるつもりは、全くないから」
彼女の目は真剣だった。特に嘘をついたり、ごまかしているようには見えない。
私は黙ってうなずくと、次の言葉を待った。彼女は目を閉じ息を吸い込むと、静かに話し始めた。
「私の家は、母子家庭なのよ。母が必死に働いて、私は女手一つで育てられたの。『将来シルフィードになりたい』という、私の夢をかなえるために、学校にもしっかり行かせてくれた」
「だから、私は必死に勉強したわ。必ず一流のシルフィードになって、母を楽させてあげようと思って。努力の甲斐あって、一流企業の〈ファースト・クラス〉に入社できた。母も、物凄く喜んでくれたわ」
なるほど、そんな事情があったのね……。うちも、母子家庭だから、その大変さは分かる。もっとも、母が人気シルフィードだったこともあり、金銭面などで苦労したことは、一度もなかったけど。
「それなら、なぜ、このようなことを? せっかく一流企業に入れても、規則違反でクビになっては、意味がないじゃない。あなたの目的も、果たせなくなるでしょ?」
一流になりたいのであれば、今は仕事と勉強に専念するべきだ。夜な夜な、バイトなんかしている場合ではない。
「もちろん、それは分かってる。でも、今は母は、病気で入院しているの。入院費もかかるし、手術のお金も必要になる。とても、見習いの給料で、払える額じゃないのよ」
「一度は、辞めようかとも思った。辞めて別の仕事をしたほうが、稼げるから。でも、諦めきれなかったのよ。昔からの夢だから――。それに、母が応援してくれてるし」
「母を助けたい。でも、母の喜ぶ顔も見たい。なら、両方、頑張るしかないじゃない? これしか、方法が思い浮かばなかったのよ……」
彼女は、悲痛な表情を浮かべながら語った。その言葉からは、彼女の迷いと深い苦悩が伝わって来る。
思っていた以上に、複雑な状況だ。私は返す言葉が、すぐには浮かばなかった。この場合、どう判断するのが正しいのだろうか?
今の状況を考えると、やむを得ない行動だったのかもしれない。もし、私が同じ立場だったら、どう選択しただろうか? しかし、規則は規則だ。私なら、会社を辞め、別の仕事を探すだろう。自分の夢も大事だが、母の命が最優先だ。
でも、本当にその立場になったら、そんな簡単に、割り切れるだろうか? ずっと夢だったシルフィード。しかも、一流企業の〈ファースト・クラス〉の社員。これを、すっぱり諦めきれるのだろうか?
規則を遵守するのが、私の信条。とはいえ、それは何の障害もなく、真っ直ぐ夢に向かって進めているから、守れるのではないだろうか? もし、大きな障害が発生した際にも、規則を守り切れるだろうか? これは、とても難しい問題だ。
「ミス・ハーネスに、そのことは、話していないの?」
「えぇ、話したところで、どうにもならないから。どんな事情があろうと、副業なんか、許して貰えるはずがないわ。あの人にとっては、規則が全てでしょ?」
もし、事情を話したとしても、退社を勧められるだけかもしれない。あの人は、私以上に規則に厳しい人だから。
「確かにそうね。でも、話しておいた場合と、隠してばれた場合とでは、当然、対応が変わるでしょ? ちゃんと、話を通しておくべきだったんじゃないの? やむを得ない事情が、あるのだから」
「そうかもね――。でも、入社して一ヶ月ほどして、母が急に倒れて。凄く動揺したし、あまりにも急で、冷静に考えられなかったのよ。今となっては、ただの言い訳かもしれないけど」
なるほど、入社直後にそんなことが……。私も、もし母が倒れたりしたら、間違いなく動揺するだろう。さらに、お金の問題まで出てくれば、益々動揺は大きくなるはずだ。
話を聴いている内に、今回ばかりは、仕方のない行動だったのではないかと、思えてきた。遊び歩いていたなら問題外だが、母の病院の費用を稼ぐために、働いていたとなると、話は別だ。
とても、見習いの安い給料では、まかなえるはずがない。そもそも、それ以外の生活費も、掛かるのだから。相当に、厳しい状況のはずだ。
よく見ると、彼女の顔は、少しやつれていた。会社の仕事が終わったあと、夜中にさらに仕事をしているのだ。寝る時間もほとんどなく、疲れていて当然だ。ちゃんと、食事などもしているのだろうか――?
今回の件は、判断がとても難しい。もちろん、規則違反なのは明白だ。しかし、ミス・ハーネスに、この事実をそのまま告げれば、彼女は確実にクビだろう。
つまり、私の行動しだいで、彼女の人生が決まってしまう。はたして、規則を守ることと、一人の人生を、天秤に掛けてしまっていいのだろうか……?
規則としての正しさを選ぶべきか。人としての正しさを選ぶべきか。私は額に手を当て、深く考え込んだ。今まで、規則だけを尊重して生きて来た私にとって、とんでもなく難題だった。
「ごめん。あなたまで、厄介ごとに巻き込んでしまって。でも、決心がついたわ。私、会社を辞めて、バイトに専念する」
彼女は大きく息を吐きだしたあと、サバサバと言い放った。その表情は、少しスッキリしたようにも見えた。いや、スッキリしたんじゃない、諦めただけだ。
「本当に、それでいいの? あなたの夢だったんでしょ、一流のシルフィードになることが」
本来なら、犯人を捕まえて報告すれば、無事解決なはずだ。だが、それは本当の意味で、解決になるのだろうか?
「でも、しょうがないじゃない。私は夢なんかよりも、母の命のほうが大事だから。それに、もうばれてしまった以上、クビは確実でしょ?」
「もちろん、お母様の命は、何よりも優先するべき大切なものよ。でも、まだクビになったとは、決まってないわ」
「どういうこと? もう、ミス・ハーネスは知っているんでしょ? それに、あなたが報告すれば、どの道、同じことじゃない――」
ミス・ハーネスの話を聴いた限り、まだ、誰かは完全に特定していない様子だった。それに、事情をしっかり話せば、情状酌量の余地はあると思う。
「私が、ミス・ハーネスに掛け合ってみるわ」
私の口からは、思いがけない言葉が、自然に出ていた。
「えっ?! 何であなたが、そんなことを?」
「言ったでしょ、私は敵ではないと。本当は、続けたいのでしょ? あなたの本音を聴かせて? もし、本気でやる気があるなら、協力するから」
私は、いったい何をやっているんだろうか? 面倒事に首を突っ込むのは、物凄く嫌いなのに。無駄な時間を浪費するのが大嫌いな、効率重視の人間なのに。
でも、やる気のある人間が、何もできずに、散っていく姿は見たくない。放っておけば、ライバルが一人減るが、そんな汚い勝ち方もしたくはなかった。
「続けたい……やれるなら、続けたいよ! 子供のころからの夢だったんだから。私は、いつだって本気だよ。一流になって、母を楽させてあげたいから」
彼女は目に涙を浮かべながら、必死の声を上げた。これは、間違いなく彼女の本音であり、本気だと思う。
「分かったわ。私が何とかしてみるから、あなたは仕事に戻りなさい。今夜のことは、見なかったことにするわ」
私は踵を返すと、早々にその場を立ち去った。
正直、ミス・ハーネスに認めて貰える自信はない。それどころか、余計なことをすれば、私自身の評価にも影響するかもしれなかった。
我ながら、とんでもなく、馬鹿なことをやっていると思う。だが、事情を知ってしまった以上、見て見ぬふりも出来なかった。
最近まで、会社の同期など、どうでもいいと思っていた。でも、アンジェリカと付き合い始めてから、同期との付き合いも、案外、悪くはないと思い始めている。それに、風歌たちの影響も、あるのかもしれない。
まったく、あの子たちの世話だけでも、面倒だというのに。何で、こんな余計なことを――。
でも、やれるだけの事はやってみよう。一人の人間の、大事な人生が掛かっているのだから……。
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『例外が認められないのは自分が一番よく知っていることなのに……』
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