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第3部 笑顔の裏に隠された真実

5-10命を燃やして進む人生で最も長い10メートル

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 私は体を左右に振りながら、よろよろと歩いていた。周りからは、ホラー映画に出て来る、ゾンビみたいに、見えているかもしれない。

 でも、正しいフォームどころか、すでに、普通に歩くことさえ出来なくなっていた。疲労で姿勢を維持できず、足の痛みもあって、真っ直ぐに歩けない。

 もうとっくに、体力の限界は超えていた。例え、ケガをしなかったとしても、天気がよかったとしても、元々ギリギリの体力だった。

 なので、足をケガした時点で、すでに完走の目は消えていた。ペース配分は完全に狂い、体力の維持もできなくなっていたからだ。

 そのため、四十キロの地点で、体力はほぼ使い切っていた。とうてい、残り十キロを走る力は、残っていなかった。それでも、気力だけで、かろうじて動き続けていた。

 立っているのもやっとの状態なので、もはや、格好などを気にする余裕はなかった。時折り、右へ行ったり左へ行ったり、蛇行しながら進んで行く。

 先ほどの、不思議な光景を見ていた時は、足の裏以外の感覚がなくなり、疲労も痛みも、全く感じなくなっていた。

 しかし、現実世界に戻ってきた瞬間、その反動が一気に押し寄せたのだ。先ほどよりも、さらに体は重くなり、腕は上がらず、自由に動くことも出来なくなっていた。

 足も酷い状態で、一歩踏み出すごとに、全身に激痛が響く。でも、痛みにはもう慣れてきた。最初からそうであったかのように、全てを受けいれ、黙々と歩き続ける。

 もう、考える力も残っていない。ただ、自分が何者で、何のために進み続けているのか。その目的を、忘れないようにするだけで、精一杯だった。

 正気を取り戻してしばらくすると、四十七キロ地点の表示が、チラリと視界に入る。かなり長い時間、あの不思議な空間にいたようだ。

 つまり、ずっと正気を失ったまま、五キロ以上も、歩いて来たことになる。そんなに長時間、半分気を失ったような状態で、まともに歩けていたのだろうか?

 もっとも、どれぐらいの時間、あの中にいたのかは分からなかった。もしかしたら、ほんの一瞬だけ、幻覚を見たのかもしれない。でも、今は、そんなことを考える余裕がなかった。残り三キロを、ただ進み続けるだけだ。

 残り時間は、どれぐらいだろうか? 一定距離ごとにある、沿道の空中モニターを見れば、経過タイムが分かる。でも、もう顔を動かす力すら、残っていなかった。

 少しでも余計なことをすれば、倒れてしまいそうだ。それに、一瞬でも立ち止まれば、二度と動けなくなると思う。だから、止まらないよう、ひたすら足を前に出し続ける。

 本来なら、とっくに限界を超え、動けなくなっているはずだ。なのに、それでも歩き続けている。最初は、根性で歩いているんだと思ってた。けれど、そうじゃないみたいだ。

 周りの人たちの歓声が聞こえる度に、心の奥底からジワジワと、湧き水のように気力が湧いてくる。ほんのちょっとの力だけど、それが次の一歩に、確実につながっていた。

 もう、顔を動かして、周囲を確認する力も残っていなかった。聞こえてくる歓声にも、ノイズが混じって、ぼんやりとしている。

 それでも、沢山の人たちが応援してくれているのは、しっかり伝わって来た。私の体の中に、温かい力が流れ込んで来るからだ。

 応援の声が上がる度に、背中を押されている気分になる。自分に向けられる、人の声と気持ちが、これ程ありがたいと感じたのは、今日が初めてだ。

 前傾姿勢になりながらも、何とかバランスをとろうと努力する。フラフラになりながらも、テンポよく、コンパクトに。少しでも前に進むために、死力を尽くす。

 ただ、歩いているだけなのに、物凄く息が上がっていた。歩くだけで一杯一杯なんて、生まれて初めての経験だ。そもそも、体力が尽きたこと自体が、初めてだった。

 今までも、疲れて『もうダメだ』と思ったことは、一杯あった。けど、そんなものが序の口であるのを、今思い知った。

 この程度の距離なら、走ればあっという間なのに、果てしなく遠く感じられた。歩いても歩いても、全然、進んでいない錯覚にとらわれる。

 周囲の景色が見れないので、位置関係が全く把握できないためだ。ただ、周囲から聞こえてくる『あと少しだから頑張れ』という言葉だけが、唯一の道しるべだった。

 激しく息を吐き出しながら、重い一歩を踏み出す。額の汗や顔についた雨水をぬぐいたいが、それすらも出来ない。残された僅かな力を、全て歩くことだけに使わねばならないからだ。

 迷いは完全になくなった。沢山の人の声援も力になっている。それでも、着実に力が弱まって行った。

『もう無理だ』と思っても、前に進み続け、すでに何度も限界を超えている。それでも、本当の限界が近づいていることは、紛れもない事実だった。

 喉がカラカラになってきた。そういえば、途中から、全然、給水所によっていなかった。もう、この先には、ゴールまで給水所はない。仮にあったとしても、立ち寄る気力もないけれど……。

 だんだん、意識が遠のいてきた。ちょっとでも気を抜いたら、気を失いそうだ。私は途切れそうになる意識を、必死につなぎ止める。

 でも、ここまでの意識が、かなりあいまいだ。ところどころ意識が飛んでいて、状況がはっきりしなかった。意識が混濁して、どこまでが現実で起こったことなのか、区別がついていない。

 ゴールに近づくにつれ、人が多くなるはずなのに、皆の声援が、たんだん遠くなって行く。私に向けられている声援が、まるで他人事のよう感じる。自分の意識を保つのが精一杯で、声援が心に届かなくなってきた。

 なんだか異常に眠い――。いっそ、このまま倒れ込んでしまいたい衝動に駆られる。きっと、地面の上に寝ころんだら、さぞ気持ちがいいだろう。意識と共に心の炎が、ゆっくり消えて行くのを感じていた。

 もう、ここまでかな……? 

 そう思った直後、ある声が耳に飛び込んで来る。

「もうちょっとでゴールですよ、ファイト!」
「あと五百メートルですから、頑張ってください!」
「行ける行ける。ここまで来たんですから、絶対にいけますよ!」

 ふと横に視線を向けると、大会スタッフの人たち三人が、私のすぐ横を歩きながら、必死に声を上げていた。

 よく見ると、少し先の方にも、何人ものスタッフたちが待機している。『頑張れー!』と、観客たちに負けない大きな声で、応援してくれていた。私と速度を合わせて移動しながら、声を出し続けている。

 もしかしたら、ずっと応援してくれてたのかもしれない。でも、自分のことに精一杯で、気付きもしなかった。

 沿道に視線を向けると、観客の中にも、歩きながら声を出して、応援してくれている人たちがいた。

「いいぞ、いいぞ、その調子!」 
「私たちも付いてるから、大丈夫だよ!」

「そうそう、一歩ずつ確実に!」
「焦らないでいいよ、確実に進んでるから!」

 中には、色々アドバイスをしてくれる人たちもいた。ゼッケンを付けているので、走り終わった選手のようだ。

 あぁ――こんなにも沢山の人たちが、背中を押してくれている。私って、何て幸せ者なんだろう。これは、気を失ってる場合じゃないよ……。

 再び心に火がついた。と言っても、本当に小さな火だ。体が熱くなり、私は荒い息を上げながら、一歩、また一歩と、足を前に出していく。

 やがて、遠くのほうに、かすかにゴールが見えてきた。おそらく、あと二百メートルちょっとじゃないだろうか。

 一歩進むにつれ、ほんの少しずつ、ゴールが大きくなってくる。それにつれ、少しずつ期待が膨らんで行った。

 ついに来た――五十キロ地点に。もう、すぐ目の前に、栄光のゴールがある。私の限界への挑戦が、ついに達成されようとしているんだ。本当に、長い長い道のりだった。いったい、今日一日で、いくつの限界を超えたのだろうか……?

 体は相変わらず重く、亀のようにゆっくりしか動かない。それでも、私は心の中で、ラストスパートを掛けていた。気持ちだけは、どんどん前に進んで行く。

「あと百メートル! 頑張ってー!」 
「あと少し、あと少しですよ!」
「いいぞいいぞ、その調子!」 

 ゴールに向かう道には、沢山のスタッフが、総出で応援してくれていた。観客たちの応援も、いっそう大きくなった。

 あと百メートル――。普段なら、こんなの余裕じゃない。アパートの階段の往復よりも、全然、楽勝だよ……。

 私は自分を鼓舞しながら、最後の力を振り絞る。だが、急に体がピタリと止まった。足が一歩も動かない――。

 まるで石像にように固まって、完全に身動き取れなくなった。周囲からは、動揺の声と悲痛な叫びが上がる。

 え……うそっ?! 何で? ここまで来て、冗談でしょ――?

 必死に力を入れるが、全く足が動いてくれない。疲れたとか重いとか、そんなレベルではなく、指一本、動かなくなった。

 どうして……どうして私の体、全く動かないの? ちょっとやめてよ。もう、ゴール目の前なんだよ――。

 動け……動け……動け……動け……。 

 どんなに気合いを入れようが、ピクリとも動かない。どんなに声援を受けようとも、全く力が湧いてこない。

 その時、朝のノーラさんとのやり取りを、思い出した。まさか、ハンガーノックってやつ? もらったパン、ちゃんと食べたのに――。

 雨にケガ、何度も限界を超えたことで、エネルギー消費が、予想以上に多かったのかもしれない。さらにマズイことに、視界がぼやけ、意識を保つのも限界に来ていた。

 悔しいなぁ……。ここまで来れたのに――。踏ん張るだけ踏ん張ったけど、もう振り絞る気力すら残ってないや……。

 一度でも止まったら終わりなのは、最初から分かっていた。予想通り、一度止まった体は、完全にエンジンが停止し、二度と動こうとはしなかった。

 今回は――ここまで……かな。

 周囲の声が遠のき、意識が消えそうになったその瞬間。私の脳に、ひときわ力強く、甲高い声が響き渡った。

「何やってるのよ風歌!! あなた、こんな所で終わっていいの? シルフィード魂はどこにいったのよ?」

 聞き慣れた声に反応し、フッと意識を取り戻すと、視線を前に向けた。そこには、ゴールの前で仁王立ちになっている、ナギサちゃんの姿があった。すぐ隣には、フィニーちゃんも立っている。

 ナギサちゃんたち、何でこんな所に――? 

 それにしても、普段クールなナギサちゃんが、あんな大声で。しかも『シルフィード魂』とか、熱いセリフを口にするとは、驚きだった。

「風歌、ゴールしたら食べ放題いこっ! 私がおごるから」
 フィニーちゃん……。あんな大きな声出せたんだ。

 いつも無口で、声の小さなフィニーちゃんが、あんなに声を張り上げるのは、初めて見た。

 あぁ――まったく、何やってんの私。大事な親友が、あれだけ応援してくれてるのに、その想いを裏切るつもり? 体力が何よ? 私まだ五体満足だし、生きてるじゃん。気力も体力もないなら、命燃やして、はってでもゴールしてやるっ!

 ぐぬぬぅぅっ!  だああぁぁっ! うおおぉぉっ! 

 燃えろっ、私の命!! うなれっ、私の筋肉!! 動けっ、私の足!! 

 あらん限りの気力を注ぎ込み、硬直した体を動かそうと試みた。息を止め、おなかに思いっ切り力を貯める。エネルギーが満ちてきたタイミングを見計らい、地面に張り付いた足を、無理矢理、引きはがすように、左足を一歩前に踏み出した。

 重い重い一歩だった。だが、そのあとの一歩が、すんなり出ない。体が石のように固まっていた。

 私は息を止め、頭に血を登らせたまま、強引に右足を前に出す。着地の瞬間、ズンッと、音が響いた気がした。

「かはっ!」

 私はこらえ切れず、息をする。でも、ここで休んじゃダメだ。再び息を止めると、おなかに命一杯の力を溜め、強引に足を踏み出した。

 一歩進むための、気力と体力の消耗が半端ない。だが、それでも私は、ズシズシと、一歩ずつ確実に前に進んで行った。

 歯を食いしばって、額から大量の汗を流し、一歩進むたびに、ゼエゼエと息を切らす。はたから見たら、さぞ無様な姿だったに違いない。

 でも、もう、見た目もプライドも、一切、関係なかった。ただ、あの場所に……。親友たちが待つあの場所に――何とかしてたどり着きたい……。

 大歓声が飛び交う中、私はヨロヨロと進んで行った。 

 苦しい――体からミシミシと音がする。
 苦しい――全身から嫌な汗が噴き出している。
 苦しい――まともに息ができない。 

 それでも私は、止まらなかった。

 前へ……前へ……ただ前へ……。

 どんどんゴールに近づくにつれ、二人の姿がくっきりと見えてくる。これだけ沢山の人たちが声を上げているのに、二人の声だけは鮮明に聴こえ、確実に心に響いてきた。

 今――行くから――もうちょっとだけ――待ってて――。

 私は二人の姿を目指して、ズルズルと重い足を引きずりながら、前に進み続ける。

 あと少し……あと少し……あと少し……。

 どんなに長いトンネルだって、必ず出口はある。トンネルの外には、明るい光が待っている。私にとっての光は、かけがえのない二人の親友だった。

 意識がもうろうとしていたせいか、私には二人が、物凄くまぶしく見えた。近づくにつれ、いっそう光が強くなっていく――。

 残り10メートル……5メートル……3メートル……1メートル……。

 長い長い10メートルだった。あと1メートルのところで、最後の残りかすの力を振り絞り、フラフラになりながらゴールに向かう。もう、意識が――。
 
 ゴールラインに踏みこんだ瞬間、全身の力がガクっと抜け、そのまま前のめりに倒れ込む。と同時に、意識がフッと、闇の中に消えて行った……。


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次回――
『暗闇に輝く2つの光と燃えよシルフィード魂』

 光は闇の中にあってこそより輝くもんでござんす
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