東京テルマエ学園

案 只野温泉 / 作・小説 和泉はじめ

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第35話 夏生、帰郷

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さて、救急搬送されたハルは3時間に及ぶ緊急手術を受けていた。
病名は心筋梗塞、極度のストレスと長年溜まった過労や心労が原因である。
ハルの手術が始まり、弥生は慌ててテルマエ学園に電話を架ける。
その電話を受けたのは葵であり、すぐにアキへとハルの容体が伝えられた。


「温水っ! お婆さんが急に倒れたそうだっ!今、手術中らしいが、すぐに帰れっ!」
「えっ、おばあちゃんが・・・?」
目の前が真っ暗になるアキ。
「アキっ! あたしも一緒にいくよ! すぐ荷物まとめてくるっ!」
七瀬が自分とアキの荷物の準備に自室へと走り出す、だが・・・
(おばあちゃん・・・!!)
呆然としたアキは衝動的にその場から走り出し、学園を飛び出す。
「待てっ! 温水っ!」
電話の応対をしていた葵が飛び出したアキに気付いた時には、既に後ろ姿がわずかに見えただけだった。


着の身着のままで学園を飛び出したアキ、目からは涙が後から後から噴き出してくる。
横断歩道で歩行者信号が赤に変わった事も目に入らないアキは、交差点に走り込んでしまっていた。

キキーッ!

飛び出したアキの直前で一台の車が急ブレーキを踏む。

「バカヤローっ! 赤で飛び出すなんて、死にてぇのかっ!」
フルブラックのメルセデスベンツから出て来たのは、偶然にも如月だった。
交差点にうずくまり泣きじゃくるアキ。

「何だ? いつかの嬢ちゃんか。どうしたんだ?」
泣きじゃくるアキを抱え、抱き起す如月。
周囲には何事かと人だかりができ始めていた。
「見世物じゃねぇっ!」
如月のドスの効いた声で通行人達も目線を外して離れて行く。

「おばあちゃんが・・・、おばあちゃん・・・」
アキはうわ言のように繰り返すだけである。
(このままここに居ても埒が明かねぇし、サツでも呼ばれると面倒だ・・・)
「嬢ちゃん、話は車で聞かせて貰うぜ」
そう言うと如月はアキを車に乗せ、その場を立ち去った。



斎藤総合病院では〈手術中〉のランプが消え、手術を終えたハルが個室に運ばれていた。
手術室から出て来た担当医が弥生に説明する。

「冠動脈が一本だけ詰まったままの状態だったのが幸いでした」
「女将さんは!?」
「PCI・・・、カテーテル・インターベンションという療法を行ったのでもうしばらくしらた意識も戻るでしょう。数日すれば退院も可能です」
「女将さん・・・、本当に・・・。良かった・・・」
ホッと胸を撫でおろすと同時にその場で号泣する弥生。


※ カテーテル・インターベンションとは、カテーテルを手や足から動脈に入れ冠動脈の詰まった部分までもっていき、カテーテル先端に装着されたバルーンとステント(筒状になった網目の金属)を使って再開通させる手法である ※


ハルが運ばれた病室では、弥生が傍らに寄り添い、手を握りしめながら覚醒するのを只待ち続けている。
まだ麻酔が効いているのだろうか、ハルはベッドの上で静かに眠っていた。



コンコン コンコン
ノックの音がして弥生がドアを開けると、タクシーで駆けつけたゆかりが息せき切って入って来る。

「お・・・、女将さんは・・・?」
「手術は成功して、まだ麻酔で眠っておられます。先生から、数日で退院できると・・・」
「そうですか・・・、それは何よりでした」
ゆかりも安堵の表情を浮かべ、ハルの顔を覗き込む。
弥生は気付いていなかったが、この時にゆかりはハルの顔を覗き込みながらベッドの片隅に超小型の盗聴器を仕掛けていた。

「それでは、私はこれで失礼します。どうぞ、お大事になさってください」
「ありがとうございます。橘さんにもご迷惑をお掛けして・・・」
「いえ、大したことでは。それでは・・・」
ゆかりはベッドで眠るハルに深々と頭を下げて病室を後にする。

(恐らく、温水アキがこちらに向かっている筈・・・、もしかすると星野七瀬も・・・。星野奈美も駆けつけるでしょうし、ここは場所を変えて待つのが得策ね)
今ここでアキや七瀬と会う事で自分の行動の目的が知られてしまう事を懸念したゆかりはちらりと時計を見て足早に病院を出る。

病院脇の喫茶店に入り、窓際の席に座ったゆかりはタブレット端末をテーブルに置く。

(これで多少は長居しても不信がる事は無いわね)

その眼前に停まったタクシーから奈美が降り、駆け足で病院へと入って行った。
そして、しばらくすると弥生が病院の玄関口に姿を見せる。
どうやら、奈美と交代してアキを待つ事にしたのだろう。



その少し前、斎藤総合病院へと向かうタクシーの中で奈美が七瀬にスマホで話していた。

「七瀬っ!、女将さんは斎藤総合病院に運ばれて手術中って弥生さんから連絡が・・・」
「姉貴っ! 知らせを聞いてアキが飛び出してしまって何処にいるかもわからないの・・・。スマホも持ってってなかったし・・・」
「アキちゃんがっ!?」
「学園の皆にもアキが戻ったら直ぐに連絡くれるように頼んだけど・・・。きっと渋温泉に向かってる筈だから・・・。あたしもそっちに行く」
「分かったわ。急いで・・・」
電話を切った七瀬はアキと二人分の荷物を持って東京駅へと向かった。


ほぼ時を同じくして・・・
如月は何処へ向かうでもなく、ただ黙々と車を走らせる。
助手席に座ったアキも両手を何度も組み合わせながらではあったが。少しずつ落ち着きを取り戻して来ていた。

(少し、落ち着いたか・・・)
タイミングを計りながら、事情を聞く為に如月はゆっくりと話しかけた。

「なぁ、嬢ちゃん・・・。一体、何があったんだ・・・?」
アキはゆっくりと顔を上げる。

「おばぁちゃんが倒れたって・・・。わたし・・、どうしたらいいのか・・・。分からなくて・・・」
アキが助手席から目に一杯の涙を溜めて、如月を見る。

(この瞳・・・、どこか懐かしい・・・。あの時もそうだった・・・)
アキと初めてハニーポットで会った時も何か不思議な感覚になった事を如月は思い出す。

「そうか・・・。で、嬢ちゃんの実家はどこだ?」
「長野の・・・。渋温泉・・・」
「しっ・・・、渋温泉だとっ!?」
驚きのあまり思わず、急ブレーキを踏む如月、目を見開き吃驚仰天している。

「きゃあっ!」
シートベルトをしていたものの、アキの身体が前に投げ出されそうになった程だった。

「きっ、如月さん・・・??」
「嬢ちゃん・・・、今更だが・・・。名前は・・・?」
「え・・・、温水・・・。温水アキ・・・」
急停車したままの車内で、アキは如月の目をまっすぐに見つめて答える。

(このまっすぐな瞳、忘れてたぜ・・・。何であの時に思い出さなかったんだ、俺は・・・。俺はなんて馬鹿なんだ・・・)
己を嘲笑するかのように如月の乾いた笑いが車内に響いた。

「・・・、如月・・・さん?」
戸惑うアキに如月が視線を戻す。

「よし、今から渋温泉に向かうぞ! 飛ばすからなっ!」
突如、如月はアクセル車をUターンさせアクセルを強く踏み、長野方面へと向かう高速道路へと入って行く。
「でも、如月さん・・・。わたし・・・、おばぁちゃんが何処に運ばれたかも聞いてないし・・・」
電話を受け、そのまま何も聞かずに飛び出した事を後悔するアキに如月が語り掛ける。
「渋温泉でそれなりの病院と言えば・・・、一つしかねぇ!」

ハンドルを切り加速する如月が、ブルートゥースを使って電話を架ける。

RrrrRrrr

「洸児か? ちょっと用事が出来た、あっちの件はお前に任せておく。絶対に殺られるんじゃねえぞっ!」
その如月を見つめるアキ。

どうして如月が自分の為に渋温泉に向かってくれるのか、どうして入院先の病院がわかるのか、謎は多かったが今は少しでも早くハルの所に戻りたいと一心に願うアキであった。



その頃、斎藤総合病院では麻酔の切れたらしいハルがゆっくりと目を開けていた。

「温水さん、分かりますか?」
担当医がハルに尋ね、隣にいた看護師がバイタルをチェックする。

「はい」
ハルのしっかりとした答えを聞き担当医も笑顔になって話しかける。

「もう、大丈夫ですよ」
「ありがとうございました」
退室する担当医と看護師に付き添っていた奈美が頭を下げる。

「奈美さん・・・、心配させちまったねぇ・・・」
弱々しく語るハルに奈美が答える。

「いいえ・・・。ご無事で本当に良かったです・・・」
「それと、奈美さん・・・」
「何でしょうか?」
「テルマエ学園の橘さんって言ったかね・・・」
「えぇ、お帰りになられたと弥生さんが・・・」
「そうかい・・・、あの人にも迷惑かけたけど・・・」
「何か?」
「アキと七瀬ちゃんには、橘さんが来た事は黙っておこうと・・・。弥生さんにも伝えとくれ・・・」
「女将さん・・・。どうしたんですか・・・?」
「いや・・・。嫌な予感がしてね・・・」
「分かりました、女将さんがそうおっしゃるなら・・・」
だがこの会話をゆかりがすぐ近くで盗聴しているとは気づく筈も無い。


しばらくして、フルブラックのメルセデスベンツが病院の玄関前に横付けされた。

(あの車・・・、如月・・・?  なぜっ!?)
見覚えのある車にゆかりが驚いた。

更に、その中からアキが降りて来たのは想定外である。
(あの時・・・、知り合いのようだったのは・・・)
ゆかりの頭の中に、ハニーポットで見かけた如月とル・パルファンの後で起きた事件の事が思い出される。

「あ・・・、アキさんっ!」
驚いたのは、弥生も同じだった。
「夏生・・・さん・・・?」
如月と弥生の視線が交差する。

「弥生ちゃん・・・か?」
幼馴染のように育った二人、実は18年ぶりの再会である。

(えっ? 如月さんと弥生さんが知り合い・・・? 夏生さんって・・・?)
戸惑うアキに弥生が声を掛ける。

「アキさん、女将さんは3階の302号室です。早く行ってあげて下さい」
「う、うん」
何か釈然としないものを感じたが、今はハルの下へとアキは急いだ。

アキが病院へと駆け込んだのを見届けて、如月は背中を向けてその場を離れようとする。
それを見た弥生が如月の腕をしっかりと掴む。

「また、逃げるんですかっ!? 夏生さんっ! 女将さん・・・、心筋梗塞で手術したんですよっ! 口には出さないけど、夏生さんに会いたいんですよっ!」
「今更・・・、どの面下げて会えるってんだ・・・」

パシーンっ!

あくまでもハルとの再会を拒否する如月の頬を弥生が引っ叩いた。

「いい加減にして下さいっ! 一生、会わないでいるつもりなんですかっ!」
弥生は涙声になりながら、如月に懇願する。
「お願いです・・・、夏生さん・・・。一目だけでも・・・」

「・・・、分かった」
半ば弥生に押し切られたようなものだが、如月はハルの病室を訪れる。

そして・・・

弥生とともに病室に現れた如月を見て、驚くアキと奈美。
しかし、一番平常心を失ったのは他ならぬハルであった。

「夏生っ!?」
ハルの声に黙って頷く弥生、如月は尚も務めて無表情である。
しばらく、無音の時間が流れた。
そして、ハルの表情がいつものものに戻り、口を開く。

「いい所に真打ち登場だね。全く・・・、血は争えないもんだ・・・」
ハルの視線はまっすぐ如月に向けられている。

(おばぁちゃん・・・、如月さん・・・)
アキも只ならぬ雰囲気に呑まれ、立ち竦んでしまっていた。

何かしらの事情を察した奈美は病室を出ようとするが、ハルに呼び止められる。

「アキ・・・、奈美さん。今から話す事を聞いとくれ・・・」
ハルは昔を思い出すように一言ずつ、しっかりと語りだした・・・


「いずれは話さないといけないと思ってたんだけどね・・・。アキ・・・、お前はここで生まれたんだよ・・・」
「おばあちゃん・・・」

アキはここ、斎藤総合病院で産声を上げた。
だがその時に散ってしまった命も一つあったのだ、如月芙由子・・・、アキの母である。
「芙由子・・・、それがわたしのお母さんの名前・・・」
「お前の父親は、夏生・・・」
「芙由子・・・、夏生・・・」

アキは物心ついた頃から、なぜ自分には父と母が居ないのかとずっと思っていた。
しかしそれを聞く事が出来なかったのだ。

厳しくも優しいハル、まるで母や姉であるかの様に自分を可愛がってくれている弥生に真実を聞く事が出来なかったのだ。

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