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9話 理想の結末を迎えたい(1)
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窓辺に飾ってあった花がゆっくりと枯れていく。花びらには茶色が混じるようになり、茎も変色し始めていた。
アルテシアは落ちた花弁を拾い、そっと唇に押し当てた。少しずつ花が弱っていくのを見るたびに、もしかしてこの花をくれた彼の命数も尽きていくのでは……と不安が掻き立てられる。本当はそんなことないだろうけれど、彼の状況が分からない今、アルテシアはそれほどまでに不安だった。
花びらを唇から離すと、僅かに紅が移っていた。それが血を表しているように思え、慌てて、だけど優しく拭うと、そばに置いてあった純白のハンカチに挟んむ。そこには既にいくつかの花びらがあり、胸が切なくなった。これほど溜まってしまうほど、あの日から時間が経ったのだ。彼はいつ帰ってくるのだろう?
アルテシアは窓辺から王都を見下ろす。一週間前、突然始まったレーヴェン王国との戦争。オズワルドはすぐさま戦場へ向かったきり、戻って来ていない。アルテシアは未だ客人の扱いであるため、戦況も伝えてもらえなかった。
そっと、あの日、思いを伝えようとした日にもらった花に触れる。
公園でレオンがレーヴェン王国の侵攻を告げると、その場は一気に混乱に陥った。貴族たちは自らの領地のことを不安に思い、平民たちはせっかく少しは良くなった暮らしが崩れるのでは、と恐怖におののく。
そんな中、アルテシアは一人その情報を信じられずにいた。異母兄のフェルディナンドは聡明な人物だ。王妃に虐げられているアルテシアに対しても見下したりせず普通に接してくれたし、王太子という立場に甘んじることなく、成人になるとすぐ、政治に積極的に参入した。国王よりもよっぽど世情が読めていると各方面で評判高く、また、近年民の暮らしがどんどん貧しくなっていくのを憂いていたし、国のことを心の底から愛していた。
そんな彼が、いったい、どうして。そんな思いが胸の内で渦巻く。戦争となると、隣国の民だけではなく自国の民も傷つく。それが分からないほど、異母兄は愚かではないはずだった。
そんな混乱するアルテシアをちらりと見ると、オズワルドはその場で「戦場へ向かう」と言った。そこで宣言したのには、民の不安を和らげるという目的があったのだろう。現にオズワルドの言葉に民は不安を完全に拭いきれはしないけれど、ほっと息をついた。
だけど、アルテシアは――。
(本当、ひどいものよ)
――行ってほしくなかった。戦場は危険だし、万が一を考えると胸が苦しくなる。
こう思うのは、愛する人が戦場へ行くという状況では普通なのかもしれない。だけどオズワルドは王で、彼の背には一国がそのまま乗っかっている。
「行かないで」なんて言ってはいけない。言えやしなかった。
はぁ、と大きなため息をつく。不安ばかりが大きくなって、今すぐにでも彼の元へ行きたくなったが、行ったところでアルテシアは何もできない。ただの足でまといだ。それならば行かないほうが良いのは分かっている。分かっているが、しかし――。
堂々めぐりの思考に再度ため息をつこうとしたそのとき、部屋の扉が開かれた。そちらに視線を向けると、硬い面持ちをしたユイリアが入ってきていた。彼女は部屋の中に入って来ると、アルテシアの数歩手前で立ち止まり、尋ねる。
「――行かないのですか?」
「……だって、迷惑になるじゃない。そんなの嫌よ」
「……そうですか」とユイリアは呟くように言う。アルテシアはユイリアから視線を外すと、窓辺に置かれたハンカチをそっと撫でた。
沈黙が部屋を満たす。アルテシアはその間ずっとハンカチを撫でていた。安心するような、だけど切ないような、複雑な感情が湧き上がってきて、自分というものが分からなくなりそうだった。
そんなふうにアルテシアが思っていると、ユイリアが再度尋ねてくる。
「本当に、それでいいのですか? 何もしないこと、それが国のためになるのですか?」
ユイリアの言葉に思わず首を傾げる。少なくとも、アルテシアはそう思っていた。何かをしたら、きっと足でまといになって、迷惑をかけてしまう。もしかしたらそれがきっかけで彼が怪我をしてしまうのかもしれない。だから今も感情を抑えてここにいて……。
――だけど、本当にそう?
湧き上がった疑念を、アルテシアは首を振って打ち消し、「ええ、そうよ」と言う。
すると、ユイリアは「違います」ときっぱり告げた。
「アルテシア様も本当は分かっておられるでしょう? あなた様はただ、逃げているだけです。昔からそう。アルテシア様は責任を持ち、誰かから責められることをひどく恐れておいででした。だから、今回も――」
「違うわ!」
ユイリアの言葉を遮り、アルテシアは悲鳴じみた声を上げた。そんなはずない。きちんと熟考した上で、最善の手段を選んでいる。そうであるはずだった。
しかしユイリアは首を振る。
「いいえ、違いません。……確かに、アルテシア様は国のことを愛し、民のことを大事に思っておられるでしょう。けれど、やはり人は皆、どこかにいる見ず知らずの誰かよりも、身近な人の方が大切に思えてしまうのです」
そう言って、ユイリアは淡く笑みを浮かべ、諭すように言う。
「アルテシア様は、少ない人たちからめいっぱいの愛情を受けて育ちましたため、その少ない人から嫌われるのをひどく恐れていたのでしょう? だから無意識のうちに一番失敗をしない、穏便な手段を選んでしまいます。……だけど、ご安心ください。私はアルテシア様が民のために何かをなさろうとして、それが失敗しても、決してあなた様のことを嫌いになったりしません。……きっと、シュミル国王陛下も」
言いながら、ユイリアはアルテシアまでの数歩の距離を詰めると、彼女を優しく抱きしめる。その暖かな感触に、アルテシアの視界に映る扉が滲んだ。
声が震えないように気を遣って、アルテシアは声帯を震わせる。
「……本当に?」
「はい。アルテシア様も私や陛下が失敗をしたとしても、嫌いになどなったりしませんでしょう? ……愛とは、そういうものなのです」
ユイリアの言葉に、胸がいっぱいになる。このまま泣きわめきたくなる気持ちを抑えこみ、アルテシアは目尻に浮かんだ涙を拭い、そっと目を閉じた。
これからどうするのが最善なのだろう? ゆっくりと思考を組み立てていく。戦場へ向かったオズワルドに、不可解な異母兄の行動、二国を襲う異常気象、そして未だに届かない手紙の返事。
そのとき、もしかして、とひらめくものがあった。確証はないが、もしそれが正しかった場合、戦争はあっという間に終わらせることができるだろう。和解ができるはずだ。むしろしなければならない。どこかに、二国を戦争させて利を得ようとする者がいるかもしれないのだから。
アルテシアはそっとユイリアを体から離すと、笑みを浮かべた。
「ありがとう、ユイリア。……今すぐ戦場へ向かう用意をして。あとレオン様は城に残っていたわよね? 色々と訊いてきてほしいんだけど……」
「それは大丈夫です。すでに書類を受け取っております。準備をしている間に目を通してください」
そう言って書類を渡される。視線を落とすと、そこには今の戦況、戦場までのルート、レーヴェン王国軍の兵の数などが記されていた。アルテシアは思わず顔を顰める。レーヴェン王国のほうが被害が大きい。圧倒的な兵力差だった。早くしなければならないだろう。
「……分かったわ。じゃあ、よろしく」
「はい」
ユイリアが頷くのを確認すると、アルテシアは窓際で書類をじっくりと読み始めた。今このときにでも人々が傷ついているのだと思うと、もどかしくてたまらなかった。
アルテシアは落ちた花弁を拾い、そっと唇に押し当てた。少しずつ花が弱っていくのを見るたびに、もしかしてこの花をくれた彼の命数も尽きていくのでは……と不安が掻き立てられる。本当はそんなことないだろうけれど、彼の状況が分からない今、アルテシアはそれほどまでに不安だった。
花びらを唇から離すと、僅かに紅が移っていた。それが血を表しているように思え、慌てて、だけど優しく拭うと、そばに置いてあった純白のハンカチに挟んむ。そこには既にいくつかの花びらがあり、胸が切なくなった。これほど溜まってしまうほど、あの日から時間が経ったのだ。彼はいつ帰ってくるのだろう?
アルテシアは窓辺から王都を見下ろす。一週間前、突然始まったレーヴェン王国との戦争。オズワルドはすぐさま戦場へ向かったきり、戻って来ていない。アルテシアは未だ客人の扱いであるため、戦況も伝えてもらえなかった。
そっと、あの日、思いを伝えようとした日にもらった花に触れる。
公園でレオンがレーヴェン王国の侵攻を告げると、その場は一気に混乱に陥った。貴族たちは自らの領地のことを不安に思い、平民たちはせっかく少しは良くなった暮らしが崩れるのでは、と恐怖におののく。
そんな中、アルテシアは一人その情報を信じられずにいた。異母兄のフェルディナンドは聡明な人物だ。王妃に虐げられているアルテシアに対しても見下したりせず普通に接してくれたし、王太子という立場に甘んじることなく、成人になるとすぐ、政治に積極的に参入した。国王よりもよっぽど世情が読めていると各方面で評判高く、また、近年民の暮らしがどんどん貧しくなっていくのを憂いていたし、国のことを心の底から愛していた。
そんな彼が、いったい、どうして。そんな思いが胸の内で渦巻く。戦争となると、隣国の民だけではなく自国の民も傷つく。それが分からないほど、異母兄は愚かではないはずだった。
そんな混乱するアルテシアをちらりと見ると、オズワルドはその場で「戦場へ向かう」と言った。そこで宣言したのには、民の不安を和らげるという目的があったのだろう。現にオズワルドの言葉に民は不安を完全に拭いきれはしないけれど、ほっと息をついた。
だけど、アルテシアは――。
(本当、ひどいものよ)
――行ってほしくなかった。戦場は危険だし、万が一を考えると胸が苦しくなる。
こう思うのは、愛する人が戦場へ行くという状況では普通なのかもしれない。だけどオズワルドは王で、彼の背には一国がそのまま乗っかっている。
「行かないで」なんて言ってはいけない。言えやしなかった。
はぁ、と大きなため息をつく。不安ばかりが大きくなって、今すぐにでも彼の元へ行きたくなったが、行ったところでアルテシアは何もできない。ただの足でまといだ。それならば行かないほうが良いのは分かっている。分かっているが、しかし――。
堂々めぐりの思考に再度ため息をつこうとしたそのとき、部屋の扉が開かれた。そちらに視線を向けると、硬い面持ちをしたユイリアが入ってきていた。彼女は部屋の中に入って来ると、アルテシアの数歩手前で立ち止まり、尋ねる。
「――行かないのですか?」
「……だって、迷惑になるじゃない。そんなの嫌よ」
「……そうですか」とユイリアは呟くように言う。アルテシアはユイリアから視線を外すと、窓辺に置かれたハンカチをそっと撫でた。
沈黙が部屋を満たす。アルテシアはその間ずっとハンカチを撫でていた。安心するような、だけど切ないような、複雑な感情が湧き上がってきて、自分というものが分からなくなりそうだった。
そんなふうにアルテシアが思っていると、ユイリアが再度尋ねてくる。
「本当に、それでいいのですか? 何もしないこと、それが国のためになるのですか?」
ユイリアの言葉に思わず首を傾げる。少なくとも、アルテシアはそう思っていた。何かをしたら、きっと足でまといになって、迷惑をかけてしまう。もしかしたらそれがきっかけで彼が怪我をしてしまうのかもしれない。だから今も感情を抑えてここにいて……。
――だけど、本当にそう?
湧き上がった疑念を、アルテシアは首を振って打ち消し、「ええ、そうよ」と言う。
すると、ユイリアは「違います」ときっぱり告げた。
「アルテシア様も本当は分かっておられるでしょう? あなた様はただ、逃げているだけです。昔からそう。アルテシア様は責任を持ち、誰かから責められることをひどく恐れておいででした。だから、今回も――」
「違うわ!」
ユイリアの言葉を遮り、アルテシアは悲鳴じみた声を上げた。そんなはずない。きちんと熟考した上で、最善の手段を選んでいる。そうであるはずだった。
しかしユイリアは首を振る。
「いいえ、違いません。……確かに、アルテシア様は国のことを愛し、民のことを大事に思っておられるでしょう。けれど、やはり人は皆、どこかにいる見ず知らずの誰かよりも、身近な人の方が大切に思えてしまうのです」
そう言って、ユイリアは淡く笑みを浮かべ、諭すように言う。
「アルテシア様は、少ない人たちからめいっぱいの愛情を受けて育ちましたため、その少ない人から嫌われるのをひどく恐れていたのでしょう? だから無意識のうちに一番失敗をしない、穏便な手段を選んでしまいます。……だけど、ご安心ください。私はアルテシア様が民のために何かをなさろうとして、それが失敗しても、決してあなた様のことを嫌いになったりしません。……きっと、シュミル国王陛下も」
言いながら、ユイリアはアルテシアまでの数歩の距離を詰めると、彼女を優しく抱きしめる。その暖かな感触に、アルテシアの視界に映る扉が滲んだ。
声が震えないように気を遣って、アルテシアは声帯を震わせる。
「……本当に?」
「はい。アルテシア様も私や陛下が失敗をしたとしても、嫌いになどなったりしませんでしょう? ……愛とは、そういうものなのです」
ユイリアの言葉に、胸がいっぱいになる。このまま泣きわめきたくなる気持ちを抑えこみ、アルテシアは目尻に浮かんだ涙を拭い、そっと目を閉じた。
これからどうするのが最善なのだろう? ゆっくりと思考を組み立てていく。戦場へ向かったオズワルドに、不可解な異母兄の行動、二国を襲う異常気象、そして未だに届かない手紙の返事。
そのとき、もしかして、とひらめくものがあった。確証はないが、もしそれが正しかった場合、戦争はあっという間に終わらせることができるだろう。和解ができるはずだ。むしろしなければならない。どこかに、二国を戦争させて利を得ようとする者がいるかもしれないのだから。
アルテシアはそっとユイリアを体から離すと、笑みを浮かべた。
「ありがとう、ユイリア。……今すぐ戦場へ向かう用意をして。あとレオン様は城に残っていたわよね? 色々と訊いてきてほしいんだけど……」
「それは大丈夫です。すでに書類を受け取っております。準備をしている間に目を通してください」
そう言って書類を渡される。視線を落とすと、そこには今の戦況、戦場までのルート、レーヴェン王国軍の兵の数などが記されていた。アルテシアは思わず顔を顰める。レーヴェン王国のほうが被害が大きい。圧倒的な兵力差だった。早くしなければならないだろう。
「……分かったわ。じゃあ、よろしく」
「はい」
ユイリアが頷くのを確認すると、アルテシアは窓際で書類をじっくりと読み始めた。今このときにでも人々が傷ついているのだと思うと、もどかしくてたまらなかった。
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