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出会う一年前
本当の最初の失敗は
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兄は王都にある学園が領地から馬車で半日の近さであることをいいことに、週末ごとに帰省しては薬草いじりをしている。
そのため、家族揃っての夕食だとしても、あまり珍しいことでもない。
それでも、学園が長期休暇に入り、兄もとうとう最終学年を迎えるという節目に話が尽きることなく、私たちはお茶をゆっくりと飲みながら一緒に過ごしていた。
「ああ、それで……実は相談があったのです」
兄がふいに思い出したと顔を上げて、父と私の顔へ視線を投げた。
相変わらず顔半分を覆ってしまう前髪の鬱陶しさに眉を顰めるが、そこから覗く兄の美しい緑瞳に憧れにも似た感情が胸を襲う。
「先生から卒業までに論文を書いてみないかと誘われまして、その論文に書こうと思っている研究ですが……」
兄の通っている学園は高位貴族、爵位を継ぐ者は必ず通う本科と、騎士を目指す者が通う騎士科、主に下位貴族の子女が通う淑女科、文官を目指す者が通う書記科がある。
そして、卒業のときに論文が発表されるのは、本科の中で成績が優秀な者と何かを発明、発見した者に限られる。
兄は学園の教師に認められる成績または何かを発明、発見したため、論文を書くように勧められたのだろう。
私は前の時間でその論文に何が書かれていたのか、既に知っていた。
「ほう。それは素晴らしいな。論文には何を書くつもりなんだい? やっぱり薬草のことか?」
父が嬉しそうに兄へと話しかける。
兄は、治す手立てのない病気の特効薬を発見したのよ、お父様。
それが、第二王子たちの目に止まり、引き続き薬の研究をするようにと王宮に特別に研究室を宛がわれ……冤罪を被せられたんだわ。
ふうーっ、私はやるせない気持ちを息とともに吐きだす。
「それが、迷っているんだ」
「お兄様? なにを迷っているの?」
あの薬の論文を書くのでしょう?
「実はね、二つ候補があるのだよ。一つは夢魔病に効くのではないかと思う薬の発見と、もう一つは我が領で栽培している薬草で作る薬の効果を高める薬草の調合方法だよ」
「えっ……」
ガチャンと、手に持っていたカップが滑り落ちソーサーの上で割れた。
中にまだ入っていた紅茶が零れて、テーブルクロスへと広がっていく。
「お嬢様!」
リーズが汚れていくテーブルクロスではなく、私の手を両手ですくいあげ、怪我をしていないか顔を近づけて確認してくるのも、どこか遠くのことのように感じていた。
前の時間のときはどうだったの?
お兄様は新しい薬だけでなく、他の薬の話もしていたの?
じゃあ、どうしてあの論文ができたの?
それは…………
『お兄様! 絶対に新しい薬よ。そちらのほうがいいに決まっているわ! もしかしたら我が家の援助を申し出てくる家があるかもしれないじゃない!』
そうよ……私が、私が選んだの。
その薬が注目されれば、貧乏子爵への援助を申し出る家があるかもしれないと、愚かな欲のために。
「シャルロット?」
「っ!」
兄の心配そうな声に、ハッと意識を取り戻した。
前の時間に自分がした選択の愚かさに、ガクガクと手足が震えてくる。
「あ……、ああ」
震える手を握りしめ口元に当て、ギュッと一度だけ強く目を瞑る。
ここで間違えてはダメ。
また、繰り返してしまう、あの日を!
「シャルロット?」
父まで様子のおかしい私を案じて声をかけてくる。
リーズはテーブルに零れた紅茶を拭きながら、チラチラと私を伺い見ているわ。
私はみんなに気づかれないよう深呼吸を数度繰り返し、ゆっくりと瞼を開く。
「お、お兄様。わ、私は、その、論文には……新しい薬ではなく、我が領民たちに益のある新しい調合の方法がいいと、思います」
心にやましいことがあるからか、それとも過去の贖罪の気持ちなのか、兄の顔が真っすぐに見ることができない。
でも、ここで間違えてはいけない。
「……そうか。シャルロットもそう思うかい?」
「え……?」
兄の意外な言葉に反射的に顔を上げると、優しく微笑む兄と包み込む眼差しの父がいた。
「研究者としては新しい薬を発表するべきかもしれないけど、まだ改良の余地がある薬なんだ。でも、新しい調合はすぐに実用化ができるし、調合に加えるや薬草は我が領での栽培が可能だから、領民たちにもいい話になる」
「うむ。薬草栽培しか産業のない領地で、ともに頑張ってきた領民のためになるのなら、喜ばしいことだ。そして、自分の名声に固執することなく領民を思いやる選択に、私はお前たちが誇らしいぞ」
わはははと豪快に笑ったお父様は、そのままガシッと兄を抱きしめた。
……知らなかった。
私のせいで埋もれてしまったもう一つのお兄様の偉業は、我が子爵家の領民のためにもなる薬だったなんて……。
あのときの私はなぜ、新薬の論文を兄に勧めたのかしら?
父と兄の姿をぼんやりと見つめていると、耳の奥から女の声が響いてくる。
『その薬を売ればお金になるわ! 屋敷の修繕もできるし使用人も増やせるかも!』
『お父様だって年に一度の王家主催のパーティー以外にも夜会に出席できるかもしれなくてよ?』
『さすがに私の持参金までは用意できなくても、その薬を売ったお金で私だってデビュタントできるかもしれないでしょう?』
……ああ、なんて愚かな私。
私の浅ましい欲望が、アルナルディ子爵家に悲劇を、お兄様の命を奪ってしまった……。
「シャルロット? なんで泣いているんだい?」
「…………。嬉し涙ですわ。お兄様の……新しい発見に……」
「そうか。ありがとう、シャルロット」
嗚咽が漏れてしまいそうで、唇を強く噛みしめ、緩く頭を横に振る。
お兄様の論文内容を変えることができたけれど、これで本当に第二王子殿下たちとの接点はなくなるのかしら?
そして、私が犯した罪はいつか許されるときがくるの?
☆★☆
エールといいね ありがとうございます!
そのため、家族揃っての夕食だとしても、あまり珍しいことでもない。
それでも、学園が長期休暇に入り、兄もとうとう最終学年を迎えるという節目に話が尽きることなく、私たちはお茶をゆっくりと飲みながら一緒に過ごしていた。
「ああ、それで……実は相談があったのです」
兄がふいに思い出したと顔を上げて、父と私の顔へ視線を投げた。
相変わらず顔半分を覆ってしまう前髪の鬱陶しさに眉を顰めるが、そこから覗く兄の美しい緑瞳に憧れにも似た感情が胸を襲う。
「先生から卒業までに論文を書いてみないかと誘われまして、その論文に書こうと思っている研究ですが……」
兄の通っている学園は高位貴族、爵位を継ぐ者は必ず通う本科と、騎士を目指す者が通う騎士科、主に下位貴族の子女が通う淑女科、文官を目指す者が通う書記科がある。
そして、卒業のときに論文が発表されるのは、本科の中で成績が優秀な者と何かを発明、発見した者に限られる。
兄は学園の教師に認められる成績または何かを発明、発見したため、論文を書くように勧められたのだろう。
私は前の時間でその論文に何が書かれていたのか、既に知っていた。
「ほう。それは素晴らしいな。論文には何を書くつもりなんだい? やっぱり薬草のことか?」
父が嬉しそうに兄へと話しかける。
兄は、治す手立てのない病気の特効薬を発見したのよ、お父様。
それが、第二王子たちの目に止まり、引き続き薬の研究をするようにと王宮に特別に研究室を宛がわれ……冤罪を被せられたんだわ。
ふうーっ、私はやるせない気持ちを息とともに吐きだす。
「それが、迷っているんだ」
「お兄様? なにを迷っているの?」
あの薬の論文を書くのでしょう?
「実はね、二つ候補があるのだよ。一つは夢魔病に効くのではないかと思う薬の発見と、もう一つは我が領で栽培している薬草で作る薬の効果を高める薬草の調合方法だよ」
「えっ……」
ガチャンと、手に持っていたカップが滑り落ちソーサーの上で割れた。
中にまだ入っていた紅茶が零れて、テーブルクロスへと広がっていく。
「お嬢様!」
リーズが汚れていくテーブルクロスではなく、私の手を両手ですくいあげ、怪我をしていないか顔を近づけて確認してくるのも、どこか遠くのことのように感じていた。
前の時間のときはどうだったの?
お兄様は新しい薬だけでなく、他の薬の話もしていたの?
じゃあ、どうしてあの論文ができたの?
それは…………
『お兄様! 絶対に新しい薬よ。そちらのほうがいいに決まっているわ! もしかしたら我が家の援助を申し出てくる家があるかもしれないじゃない!』
そうよ……私が、私が選んだの。
その薬が注目されれば、貧乏子爵への援助を申し出る家があるかもしれないと、愚かな欲のために。
「シャルロット?」
「っ!」
兄の心配そうな声に、ハッと意識を取り戻した。
前の時間に自分がした選択の愚かさに、ガクガクと手足が震えてくる。
「あ……、ああ」
震える手を握りしめ口元に当て、ギュッと一度だけ強く目を瞑る。
ここで間違えてはダメ。
また、繰り返してしまう、あの日を!
「シャルロット?」
父まで様子のおかしい私を案じて声をかけてくる。
リーズはテーブルに零れた紅茶を拭きながら、チラチラと私を伺い見ているわ。
私はみんなに気づかれないよう深呼吸を数度繰り返し、ゆっくりと瞼を開く。
「お、お兄様。わ、私は、その、論文には……新しい薬ではなく、我が領民たちに益のある新しい調合の方法がいいと、思います」
心にやましいことがあるからか、それとも過去の贖罪の気持ちなのか、兄の顔が真っすぐに見ることができない。
でも、ここで間違えてはいけない。
「……そうか。シャルロットもそう思うかい?」
「え……?」
兄の意外な言葉に反射的に顔を上げると、優しく微笑む兄と包み込む眼差しの父がいた。
「研究者としては新しい薬を発表するべきかもしれないけど、まだ改良の余地がある薬なんだ。でも、新しい調合はすぐに実用化ができるし、調合に加えるや薬草は我が領での栽培が可能だから、領民たちにもいい話になる」
「うむ。薬草栽培しか産業のない領地で、ともに頑張ってきた領民のためになるのなら、喜ばしいことだ。そして、自分の名声に固執することなく領民を思いやる選択に、私はお前たちが誇らしいぞ」
わはははと豪快に笑ったお父様は、そのままガシッと兄を抱きしめた。
……知らなかった。
私のせいで埋もれてしまったもう一つのお兄様の偉業は、我が子爵家の領民のためにもなる薬だったなんて……。
あのときの私はなぜ、新薬の論文を兄に勧めたのかしら?
父と兄の姿をぼんやりと見つめていると、耳の奥から女の声が響いてくる。
『その薬を売ればお金になるわ! 屋敷の修繕もできるし使用人も増やせるかも!』
『お父様だって年に一度の王家主催のパーティー以外にも夜会に出席できるかもしれなくてよ?』
『さすがに私の持参金までは用意できなくても、その薬を売ったお金で私だってデビュタントできるかもしれないでしょう?』
……ああ、なんて愚かな私。
私の浅ましい欲望が、アルナルディ子爵家に悲劇を、お兄様の命を奪ってしまった……。
「シャルロット? なんで泣いているんだい?」
「…………。嬉し涙ですわ。お兄様の……新しい発見に……」
「そうか。ありがとう、シャルロット」
嗚咽が漏れてしまいそうで、唇を強く噛みしめ、緩く頭を横に振る。
お兄様の論文内容を変えることができたけれど、これで本当に第二王子殿下たちとの接点はなくなるのかしら?
そして、私が犯した罪はいつか許されるときがくるの?
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