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プロローグ

助けて欲しいかい?

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 自由のきかない手足。
 顔に打ち付ける水飛沫。
 そして、全身を包み込む水の感触。

 視界の一切が青い水の色に覆われ、幕がかかったように音が遠ざかる。

 まりあは、冷たい水の世界にいた。
 どうにか浮上しようと懸命にもがくが、押し寄せる膨大な量の水に阻まれ叶わない。

 気が狂いそうなほどに息苦しい。

 耐え切れずに大きく口を開いた。


「―――……っ!」


 声にならない断末魔とともに、肺に残されていた最後の空気が白い泡となって吐き出される。

 水面を揺蕩う陽光が、やけに透き通って見えた。
 浮遊感にも似た感覚を味わいながら、まりあはゆっくりと沈んでいく。

 遠くに見える、水と光が織りなす絶景のコントラスト。手を伸ばしても届かない。
 蒼の世界はどこまで美しく、何よりも残酷だった。

 このまま死んでしまうのかも知れない。

 薄れゆく意識の中、取って代わるように台頭する死の気配。

 不意に声が響いた。


「助けて欲しいかい?」


 頭の中へ直接呼びかけられたかのように、やけにはっきりとした問いかけだった。

 幻聴に違いない。
 死の気配に囚われた心のどこか冷めた部分が、冷静にそう断じる。

 一方で、胸の奥底で何かが発熱した。

 不要な熱だ。
 もう何をするにも遅すぎる。
 どうせ助かりっこない。

 すっかり冷めきっていたまりあの心が、激しく打ち震える。

 死にたくない、と。


「……っ!」


 まりあは、藁にも縋る想いで必死に体を動かした。

 沈みかけていた手をもう一度水面へと伸ばす。

 降り注ぐ光の向こうから響いたその声に、心から願った。


 ―――私を助けて!


 光る水面が大きく波打った。

 水の塊を掻き分けて、救いがまりあの窮地へと駆けつける。

 冷たい水底へ引きずり込まれていく幼い体を、熱い手のひらが支えた。

 その人はプールの底を蹴りつけて、一気に浮上する。

 大量の気泡とともに水中を昇り、光揺らめく水面を突き破った。

 瞬間、まりあは呼吸を再開させた。


「―――ぶはっ、げぇほっ、ごほごほ……っ。はっ、はっ、ああ……っ」


 待ち望んでいた酸素の味は格別だった。

 新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込める喜びを思い出す。


「まりあ!」


 疲れ切った身体がプールサイドに寝かされると同時に、耳元で少年が叫んだ。

 天にも昇る気分の中、薄く開いた視界に先程の人影が映り込む。

 沈みゆくまりあを引き上げてくれたその少年は、今もなおまりあを助けようと懸命に叫び続けていた。

 精悍な面を悲痛に歪め、誰よりも近くでまりあの名を呼ぶ 


「大丈夫か! まりあ! まりあっ!」
「……おに、ちゃん……?」


 か細い声が、応えた。 

 まりあが生きていることを知って、少年は心から安堵の笑みを零す。


「ああ、大丈夫か? 俺が分かるか、まりあ?」


 頬に添えられた手のひらのぬくもりに、場違いにもまりあの心臓がドキリと高鳴った。

 その一刻みは熱い血潮となって全身を巡り、凍てついていた身体の芯まで染み渡った。

 心を満たしたときめきは、きっともうずっと前から少年に対して感じていた胸の疼きの正体。

 まりあは、噛みしめるように一度唇を結び、それから小さく息を吸う。


「大丈夫、だよ……」


 さっきよりもはっきりした声でそう言うと、懸命な少年の不安を取り除くため、健気にも笑顔を作ってみせた。


「助けてくれて、ありがと。お兄ちゃん」
 
 
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